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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第3章 市井の願いと王の政治

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第43話:冷えた石窯と、銅貨六枚の黒麦パン

第43話:冷えた石窯と、銅貨六枚の黒麦パン


ベルクンド王国の王都に、本格的な冬が牙を剥いていた。

北に広がる絶対的な拒絶領域『魔物の森』から吹き下ろす凍てつくような北風は、王都をぐるりと囲む分厚い城壁をやすやすと越え、すり鉢状になった街の最底辺――『石炭街』へと、容赦なく粉雪と刺すような冷気を叩き落としていく。

王宮や貴族の屋敷が立ち並ぶ白亜の上層区画では、今頃、魔法士たちが厳重に管理する温水魔道具や上質な特級魔石ストーブがフル稼働し、令嬢たちが薄手の豪奢なシルクのドレス一枚で、優雅な冬の茶会を楽しんでいることだろう。彼らにとって外の寒さなど、分厚い二重ガラス越しに眺める美しい冬の風物詩でしかない。

だが、ここ底辺の石炭街では、冬の冷え込みは文字通り「死」の足音と同義であった。

安物の厚手の外套を着込んでいても、芯から体温を奪っていくような底冷えのする路地裏。泥濘(でいねい)は完全に凍りついて凶器のように硬く尖り、馬車の轍がそのまま氷の刃となって歩く者の足首を狙う。行き交う人々の口数は極端に減っていた。皆、背中を丸めて肩をすくめ、自分自身の吐く白い息の少なさと、いつまで持つか分からない粗悪な薪の蓄えに怯えながら、少しでも寒さをしのごうと小走りで通り過ぎていく。


その日の放課後。

いつものように学園の汚れのない制服から、目立たない平民の分厚い外套に着替えたライルとアルドは、石炭街の入り口にある古びた時計塔の下で、買い出しに向かったセシルを待っていた。

気温の急激な低下は、彼らが衣服の下にひた隠しにしている致命的な「傷」に、容赦なく物理的な牙を剥いていた。


アルドは、時折、大樹が大地に根を張るような重く鈍い足踏みを繰り返していた。

森狼の群れとの死闘で、凄まじい顎の圧力によって深く挫滅した両脚の筋肉と筋繊維。その深部が、冬の冷気によって石のように硬直し、鉛を詰め込まれたような重い鈍痛を絶え間なく発しているのだ。おまけに、失われた筋肉のバネを補うためにドワーフのガドが硬革鎧の裏地に仕込んでくれた特注の鋼板が、今は氷の板のようにアルドの体温を奪い続けている。痛みを顔には出さないが、吐き出す息の荒さと、時折ギリッと噛み締められる奥歯の音が、その過酷な苦痛を物語っていた。


ライルもまた、外套の下で右腕をかばうように、少し前かがみの姿勢で立っていた。

限界を超えた魔力の暴走によって焼き切れ、完全に死に絶えた右半身の魔力回路。それは普段の温かい環境でも、細かいガラスの破片が血管の中に詰まっているような強烈な違和感と痛みを伴う。だが、ひとたび冬の冷気にあてられると、回路の残骸が激しく収縮し、発作のような激痛を肩から指先、そして脳髄に直接叩き込んでくるのだ。

ライルは右手首を左手で強く握りしめ、痛覚をやり過ごすための浅く短い呼吸を繰り返していた。額には脂汗が滲み、視界の端が白く明滅する。だが、彼はその痛みを決して口に出さず、ただ静かに痛みの波が引くのを耐え忍んでいた。


「……遅いな、セシル」

アルドが、凍りついた空気を震わせるような低い声で呟いた。

「買い出しの手配だけなら、とうに戻ってきている時間だ。……まさか、黒鴉商会のゴロツキどもに絡まれたか?」

「いや、それはないよ」

ライルは痛みを完璧に押し殺した、柔和な声で答えた。

「セシルのことだ。相手の気配や足音の反響は、あの眼帯の奥で誰よりも正確に計算している。無駄な諍いを起こすようなヘマは絶対にしない。……ただ、何か彼にとっても『計算外』の致命的なことが起きたんだろう」


そのライルの予測は、数分後に的中することになる。

灰色の空から粉雪が舞い散る中、路地の向こうからセシルが歩いてきた。だが、その足取りはいつものような計算され尽くした無駄のない歩みではなく、どこかひどく重く、足元の凍った泥を踏み砕く音にも一定の乱れがあった。そして何より、彼の手には――いつもの『粗末な紙袋』が握られていなかった。


「……セシル。パンはどうした?」

アルドが眉をひそめて尋ねた。

セシルは立ち止まり、伊達の黒い眼帯の下にある左目を伏せたまま、ひどく冷え切った声で答えた。冬の冷気は、森狼に砕かれた銀縁眼鏡の破片が食い込んだ彼の左目の眼窩にも、鋭い神経痛をもたらしているはずだった。だが、今のセシルの表情を強張らせているのは、肉体的な痛みではなかった。彼の纏う空気には、商人としての理性では抑えきれない、純粋な『怒り』と『絶望』が混ざり合っていた。


「買えなかった。……いや、店が開いていなかったんだ」

「開いてない? モルガンのおやっさんがか? 馬鹿な、あの親父さんが高熱を出して倒れた時だって、石窯の火だけは絶対に落とさなかったんだぞ」

「アルド」

ライルが静かにアルドを制し、セシルの顔を真っ直ぐに見据えた。

「……何があった? セシル」

「言葉で説明するより、直接見た方が早い。……だが、感情は抑えろよ、アルド。特に君は。今、僕たちがここで暴れれば、親父さんの首を物理的に絞めることになる」


セシルのそのただならぬ雰囲気に、アルドは息を呑み、無言で深く頷いた。

三人は肩を並べ、凍りついた泥濘の路地を、大通り裏へと向かって重い足取りで歩き出した。


路地を曲がり、いつもの見慣れた通りに出た瞬間、ライルは自身の右腕の激痛すら一瞬忘れるほどの、決定的な『違和感』に顔をしかめた。

音がない。そして、匂いがないのだ。

いつもなら、通りに響き渡る薪の爆ぜる力強い音、小麦が焼ける甘く香ばしい匂い、そしてパンを買いに来る近所の子供たちや日雇い労働者たちの活気ある声。石炭街の心臓とも言えるそれらのすべてが、まるでこの空間だけ世界から残酷に切り取られてしまったかのように、完全に消失していた。

あるのは、凍てつくような冬の風が、路地の隙間と建物の間を通り抜けるヒューヒューという虚しい音だけ。


「……嘘、だろ」

アルドが、呆然とした声で呟いた。

彼らの目の前にある『モルガン親父のパン屋』は、もはや店としての体を成していなかった。

温かみのある木製の入り口の扉には、不釣り合いなほど太く錆びた鉄の鎖が何重にも巻き付けられ、巨大な南京錠が下ろされている。そして、その扉の中央には、真新しい木の板に墨で生々しく描かれた『黒鴉商会』の紋章――不吉な黒い鴉の印が、太い釘で容赦なく打ち付けられていた。

『差し押さえ物件につき、立ち入りを禁ず。違約者は治安維持法により処罰する。黒鴉商会』

冷酷な事務的文字で書かれたその張り紙が、冷たい風に煽られてバタバタと乾いた音を立てている。


だが、何よりも三人の心を深く抉ったのは、店の裏手に回った時の光景だった。

路地に向けて大きく口を開け、かつては顔の皮膚が焼けるほどの強烈な熱を放射し、石炭街の命の火そのものだった巨大な石窯。ガドの工房のドワーフたちが手掛け、モルガン親父が命よりも大切に毎日煤を払い、手入れをしてきたその誇り高き窯は――無惨にも、巨大なハンマーか何かで徹底的に叩き割られていた。

熱を閉じ込めるための厚い耐火煉瓦は粉々に砕け散り、黒い煤が凍った泥の上に惨めに散乱している。窯の心臓部にはぽっかりと無惨な大穴が空き、その奥には、完全に火を失い、白く冷え切った灰だけが残されていた。


「……どういう、ことだ」

アルドがギリッと歯を食いしばり、震える分厚い手で砕けた煉瓦の破片を拾い上げた。それは氷のように冷たく、彼の指先の熱を容赦なく奪っていった。

「おやっさんは……あの人は、借金をしてでも、俺が早起きしてでもパンを焼き続けるって、そう言って笑ってたじゃねえか……っ!」


「焼き続けていたさ。文字通り、血を吐きながら、死ぬ気でな」

セシルが、眼帯の奥で痛みを堪えるように目を閉じながら、無感情な声で事実を羅列し始めた。

「近所の連中に話を聞いた。親父さんはあの日から、睡眠時間を二時間にまで削って、いつもの三倍の量のパンを狂ったように焼いていたそうだ。十倍に跳ね上がった燃料代の借金を返すため、そして……『銅貨二枚』という価格を絶対に維持するために」


その言葉に、ライルの胸の奥で何かが軋んだ。

銅貨二枚。それはモルガン親父の矜持だった。小麦の質を落とさず、おが屑を混ぜず、この石炭街でその日暮らしをする連中が、なけなしの銅貨で腹一杯の温かい飯を食えるための、絶対に譲れないデッドライン。

次兄グリードの息の掛かった黒鴉商会が、失った魔石の損失を埋め合わせるために代替燃料を買い占め、その価格を十倍に吊り上げた。それでも親父さんは、パンの値上げをしなかった。自分の身を極限まで削り、労働量を暴力的なまでに増やすことで、その理不尽な経済の暴力を個人の努力だけで跳ね返そうとしたのだ。


「だが、商人として計算すれば、そんなものは数日で絶対に破綻する」

セシルが血を吐くような冷酷さで、数式を突きつける。

「黒鴉商会がふっかけた月三割という暴利。それに十倍に跳ね上がった燃料の原価。パンの値段を据え置いたまま、個人の労働力だけでその負債をカバーするなど、人間の肉体では物理的に不可能だ。……奴らは最初からそれが分かっていて、親父さんに金を貸したんだ」

「……初めから、この店を潰すために?」

ライルの静かな問いに、セシルはゆっくりと頷いた。

「潰すためというより、『見せしめ』だな。燃料を高値で買わなければどうなるか。王都の新しいルールに逆らって、意地を張って商売を続ければどうなるか。……期日までに利子が払えなかった昨日、黒鴉のゴロツキと、彼らに裏金で買収された衛兵たちがやってきたそうだ」


セシルは砕けた石窯を顎でしゃくった。

「親父さんは土下座して、せめて明日まで待ってくれと頼んだらしい。だが、奴らは問答無用で店を差し押さえ、親父さんが二度とこの場所で、あるいは他の場所でも商売ができないように、職人の魂であるこの石窯を念入りに叩き壊していった。……『これがルールに逆らった愚か者の末路だ』と、街の連中に見せつけるためにな」


アルドから、獣のような唸り声が漏れた。

挫滅した足の激痛を忘れ、大盾を背負ったまま前へ出ようとする彼の肩を、ライルが左手で強く掴んで止めた。

「……待て、アルド」

「離せライルッ! 俺は……俺は……!! あの胡散臭え手代を、今すぐぶっ殺してやるッ!!」

「今、お前が怒りに任せて黒鴉の連中を殴り殺したところで、親父さんの店は戻らない。それどころか、親父さん一家が『逆賊の仲間』としてさらに深い地獄に落とされるだけだ」


ライルの声は、吹雪のように冷たく、そして恐ろしいほど静かだった。

彼はアルドを制したまま、ゆっくりと、砕け散った石窯の前に歩み寄った。

かつて、森の過酷な洗礼を受け、泥と血にまみれて帰還した日。冷え切った体を寄せ合いながら、銅貨六枚をきっちり三人で割り勘にして分け合ったあの黒麦パン。

表面は硬く、だが噛めば噛むほどに麦の深い甘みが広がり、冷え切った胃袋の底からじんわりと命の熱を呼び起こしてくれた、あの極上の味。

ライルは激痛の走る右手を使わず、分厚いタコと無数の切り傷で覆われた左手を伸ばして、冷え切った灰の中に指を入れた。

熱はない。ただ、濡れた煤と泥の匂いだけが、彼の掌にこびりついた。


(……兄さん。双子の次兄(グリード)にとっては、これもただの『損失補填のための数字』なんだろうな)


ライルの脳裏に、学園のサロンで優雅に笑う兄や姉たちの姿がフラッシュバックする。

彼らは温かく濾過された無菌室の中で、紅茶の香りを楽しみながら、こうしてモルガン親父から奪い取った金で軍事力を買い、権力闘争の軍資金としてばら撒いている。

平民が汗水垂らして築き上げた日常を、ただ「盤上の都合」だけで、いとも簡単に踏みにじり、破壊する。そこには血の通った人間に対する痛痒など微塵もない。


「……親父さん一家は、どうなった」

灰から手を引き抜きながら、ライルが背後のセシルに尋ねた。

「店と家を追い出され、わずかな荷物だけを持って、スラムのさらに奥……『泥底』と呼ばれる最下層の区画へ向かったそうだ。借金のカタに家財も奪われた。……親父さんは、最後まであの壊された窯の前で泣いていたらしい」


その言葉を聞いた瞬間。

ライルの中で、これまで彼を縛り付けていた強固な鎖が、完全に、音を立てて砕け散った。


「どちらの兄が王位を継いでも、叔父上の様に裏から実力で国を支えればいい」

「無用な血を流す争いを避けるために、自分は出涸らしの振りをし続けていればいい」


――そんなものは、ただの醜い自己欺瞞だった。モラトリアムという名の逃避だった。

ライルは無能などではない。双子の兄グリードを遥かに凌駕し、長兄ギリウスをも上回る莫大な魔力を持ち、君主たるに足る知性を備えながら、それをひた隠しにし、無害な弟の仮面を被っていたのは、単に『血で血を洗う王位継承戦』という責任と重圧から逃げたかっただけなのだ。

自分は手を汚さず、兄たちが決着をつけるのを傍観し、勝った方に都合よく仕える。それは一見すると争いを好まない美徳のようだが、その実、最も卑怯で安全な場所から世界を見下ろしているだけの、冷酷な傍観者に過ぎなかった。


自分があの温かい場所から逃げ続けていた間に、泥をすすり、血を流し、真に国を支えようとしていた市井の者たちが、こうして無惨にすり潰されていく。

自分は、あんな化け物たちと同じ王族の血を引いている。そして、自分の臆病さが、化け物たちを野放しにしたのだ。

その事実に対する激しい自己嫌悪と吐き気が、腹の底からせり上がってくる。


右半身の死んだ回路が、これまでで最も激しい警鐘を鳴らすようにズキリと疼いた。

だが、今のライルにとって、その死を予感させるような激痛はひどく心地よかった。自分がまだ人間としての怒りと痛覚を失っていないことの、確かな証明のように感じられたからだ。


「……セシル。アルド」

ライルはゆっくりと立ち上がり、二人の親友を振り返った。

その瞳には、もはや「心優しい出涸らしの三男坊」の面影は一切なかった。王宮の腐敗の底の底までを見透かすような、冷徹で、絶対的な殺意を秘めた『反逆者』の瞳が、冬の冷気の中で鋭く光っていた。


「僕たちは、森の深淵で魔物の理不尽な暴力を嫌というほど見てきた。……だが、王都(ここ)にいる魔物は、森の野獣よりもずっとタチが悪い」

ライルは外套の裾を翻し、黒い鴉の紋章が打ち付けられた扉を冷たく見据えた。

「ただゴロツキを殴り飛ばして終わりじゃない。親父さんの火を奪った奴らの盤上を、経済も、権力も、すべて根底から叩き割る」


冷たい粉雪が、砕けた石窯の灰を白く覆い隠していく。

銅貨六枚の黒麦パンは、もう二度と食べられない。だが、その喪失が、少年の卑怯な自己欺瞞を完全に打ち砕き、王族としての真の覚悟を決めさせた。

静かなる絞首刑が執行されたこの冷たい路地裏から、王位を巡る理不尽な盤上に対する、血に塗れた本当の反逆が始まろうとしていた。

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