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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第3章 市井の願いと王の政治

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第42話:『合法的な暴力』の始まり

第42話:『合法的な暴力』の始まり


王都の地下深く、冷たく湿った石造りの空間に、苛立ちを含んだ硬質な足音が響いていた。

分厚い防音扉に守られ、豪奢なペルシャ絨毯が敷き詰められたその一室は、表向きは王国の中堅商会である『黒鴉商会』の会頭室となっている。だが、その実態は、第二王子グリード・ベルクンドが王都の裏社会を牛耳り、自らの玉座への野心のために資金を調達する、泥にまみれた秘密の執務室であった。

王宮の無菌室のような華やかさとは無縁の、薄暗く淀んだ空気の中。分厚いマホガニーのデスクの背後に立つ少年は、窓Aのない部屋の壁に掛けられた王国の精緻な地図を、獲物を睨む鷹のような、あるいは死を恐れる獣のような鋭い目つきで見つめていた。


グリード・ベルクンド。十七歳。

王都の誰もが認める端正なその容貌は、王立学園で「出涸らし」と嘲笑されている第三王子ライルと、鏡写しのように全く同じ作りをしている。同じ第三夫人の腹から、同じ日に生まれ落ちた双子の兄弟。だが、無害な笑みを浮かべて凡庸を演じる弟とは対照的に、グリードの瞳の奥には、常に飢えた野心と、そして誰にも言えない絶対的な重圧による焦燥がどろどろと渦巻いていた。


「……つまり、第3秘密倉庫に残っていた特級魔石は、ただの使い物にならない消し炭の山に変わっていたと。そういうことだな?」


グリードの声はひどく低く、一切の抑揚がなかった。だが、その冷たさの裏側にどれほどの怒りと絶望が圧縮されているかを知る黒鴉商会の幹部たちは、一様に顔面を蒼白にし、冷たい石の床に額を擦り付けて震えていた。

「は、はい……! 申し訳ございません……! 爆破の手口は極めて手際が良く、見張りの荒くれ者たちも音もなく処理されていました。あれほどの規模の襲撃、おそらくは他国の工作員か……もしかすると、長兄のギリウス殿下が裏で飼っている部隊の仕業かと……っ!」

「馬鹿を言え」


グリードは吐き捨てるように言い、デスクの上に置かれた純銀のペーパーナイフを無造作に手に取った。

「あの傲慢な長兄(ギリウス)が、わざわざこんな泥臭い真似をするはずがない。あいつは、正妻の腹から生まれたという絶対的な血統だけで、自分が玉座に座ることを微塵も疑っていない思考停止の豚だ。自らの手を汚すような真似はしない。……この手口は、もっと下賤で、底意地が悪い、我々への明確な『殺意』を持った輩の仕業だ」


グリードはペーパーナイフの先端を、地図の『石炭街』のあたりにギリッと突き立てた。刃先が羊皮紙を貫き、背後の木の板に食い込む鈍い音が響く。

同じ十七歳でありながら、血統という絶対に覆せない壁。正妻の子である二十一歳の長兄ギリウスには、生まれながらにして保守派の大貴族や、貴族学校OBの牙城である魔法ギルドという強固な後ろ盾があった。対して、第三夫人の子であるグリードには何もない。玉座への階段を登るためには、自らの手で泥をすすり、新興貴族や裏社会の商人を巻き込み、莫大な「資金力」という暴力で長兄の派閥を内側から食い破るしかなかった。


だが、今回の事態は単なる商会の損失という生易しいものではなかった。

爆破された第3秘密倉庫に隠匿していた特級魔石は、ただの黒鴉商会の資産ではない。それは、玉座を争う最大の政敵である長兄ギリウスと結んだ、氷のように冷たい『呉越同舟の密約』の産物だったのだ。

長兄ギリウスが軍事大臣の手を回して「中央騎士団の演習」を名目に市場の魔石流通を制限し、次兄グリードが裏社会のルートでその魔石を独占・隠匿する。意図的に市場を枯渇させて価格を極限まで吊り上げた後で売り払い、得られた莫大な利益を両陣営で分配する――互いに相手の寝首を掻く機会を窺いながらの、危うい共犯関係。

グリードは、長兄の権力を利用して得たその莫大な資金で新興貴族を取り込み、最終的に長兄自身を盤上から引きずり下ろすつもりだった。

だが、その魔石が灰になった。

もしこの事実がギリウスの耳に入ればどうなるか。完璧主義で冷酷な長兄は、約束の利益を出せなかったグリードの失態を絶対に見逃さない。共犯関係をあっさりと切り捨て、すべての違法な買い占めと横領の罪をグリード一人に被せ、王宮の査問委員会にかけて合法的に最大の政敵を抹殺するだろう。


「……失ったものは仕方がない。だが、この損失は直ちに、何が何でも、一~二ケ月以内に埋め合わせなければならない。でなければ、あの冷笑する長兄に、私自身の首を差し出すことになる」

グリードはくるりと振り返り、床に這いつくばる幹部たちを氷のような目で見下ろした。

「市場には今、我々の手から零れ落ちた魔石が安値で出回っているのだったな? そのせいで、スラムの豚どもが随分と調子に乗って炉に火を入れていると」

「は、はい……。石炭街のドワーフの鍛冶屋やパン屋などが、ここぞとばかりに……」

「なら、そのまま使わせておけ。どうせ一時的な供給だ、数週間もすれば豚どもが使い切って市場から完全に消え去る。……問題は、その先だ」


グリードの口角が、残酷な弧を描いて吊り上がった。それは、弟であるライルが決して見せることのない、権力者特有の狂気を孕んだ笑みだった。

「いいか。今日から商会の全資金を投入し、王都周辺の『薪』と『石炭』、すなわち魔石に代わるすべての代替燃料を根こそぎ買い占めろ。木工ギルドの下っ端には裏金を握らせて流通を麻痺させ、街道の物流網には商業ギルドを通じて圧力をかけろ。我々を通さない他国や他領からの燃料の搬入は、すべて『密輸』として買収した衛兵に押収させろ。完全に独占しろ。木屑の欠片一つ、我々の許可なく王都に流通させるな」


幹部の一人が、息を呑んで顔を上げた。

「す、すべて買い占める……!? しかし、それでは王都中の暖炉や窯が……」

「止まるだろうな。だからこそ、価値が跳ね上がる」

グリードはペーパーナイフを弄びながら、事も無げに言い放った。

「流出した魔石が底をつき、本格的な冬の足音が近づけば、豚どもは凍死を恐れて必ず代替燃料を求めてくる。その時、薪と石炭の卸値を現在の『十倍』に引き上げろ。文句を言う者には売らなくていい。いずれ寒さと飢えに耐えきれず、家財や店舗を借金のカタにしてでも買いに来る」

「じゅ、十倍……っ。しかし殿下、それではさすがに暴動が起きかねません!」

「暴動? 起きればいい。むしろ好都合だ」


グリードの目は、もはや人間のそれではなく、盤上の駒を数え、他者の血肉を啜る冷徹な支配者のそれに変わっていた。

「暴動が起きれば、それを名目に長兄のギリウス派閥が『治安維持』を大義名分として軍を動かせる。新しい治安維持税を徴収する完璧な理由になる。長兄には軍事予算という目先の餌を与えて誤魔化し、我々は燃料の差益と莫大な借金の利子で約束以上の実利(金)を吸い上げる。……完璧な循環だ」

グリードは地図に突き立てたナイフを引き抜き、石炭街の区画を無造作に切り裂いた。

「剣など使う必要はない。ただ流通の蛇口を閉めるだけで、豚どもは自ら首を差し出す。我々が失った魔石の利益は、あの薄汚いスラムの連中の骨の髄から、一滴残らず絞り上げて取り戻す」


これが、王立学園で「出涸らし」と見下されている弟とは対照的に、「優秀な次期王の器」と称賛されるグリード・ベルクンドの真の姿だった。彼は己の玉座への執念と、長兄による政治的抹殺への恐怖を原動力に、数千、数万の平民の命を、何の痛痒も感じずにすり潰すことができる怪物になり果てていた。


* * *


次兄グリードの冷酷な勅命が下されてから、数週間後。

石炭街を包んでいたあの熱狂的な活気は、まるでたちの悪い幻だったかのように、完全に消え去っていた。


空にはどんよりとした鉛色の雲が立ち込め、王都には肌を刺すような冷たい初冬の風が吹き始めている。

王宮や貴族街のある上層区画では、魔法士たちが管理する温水魔道具や上質な魔石ストーブが稼働し、令嬢たちが薄手のドレス一枚で優雅な冬の茶会を楽しんでいることだろう。だが、ここ底辺の石炭街では、冬の寒さは文字通り「死」の足音と同義であった。

つい先日まで威勢のいい槌音を響かせていたガドの工房周辺の板金屋やガラス工房は、その大半が煙突からの煙を絶やし、重い沈黙に包まれていた。路地を行き交う人々の顔からは笑顔が消え、皆一様に背を丸め、自分たちの吐く白い息の少なさと冷たさに怯えるように、早歩きで通り過ぎていく。


「……見事なものですね。たった数週間で、街の熱をここまで完全に奪い去るとは」


石炭街の裏路地、冷え切ったレンガの壁に背を預けながら、セシル・クラインが眼帯の奥で街の惨状を見据えていた。

彼ら三人は学園の制服から平民の厚手の外套に着替え、街の様子を窺っていた。気温の低下は、彼らが衣服の下に隠し持つ致命的な「傷」に、容赦なく牙を剥く。

セシルの左目――森狼に砕かれた銀縁眼鏡の破片が深く食い込んだその眼窩は、冬の冷気にあてられて鋭い神経痛を絶え間なく訴えていた。光を浴びるだけで脳髄を針で抉られるような頭痛が走る。だが、彼はその痛みを表情に出さず、ただ静かに目を閉じ、聴覚を極限まで研ぎ澄ませて、街の静寂の裏で進行している『絶望の音』を拾い集めていた。

燃料を求めて泣きつく零細の職人の声。それを冷たくあしらう黒鴉商会の男たちの嘲笑。そして、借金の証文に血印を押す微かな音。


「あの爆破事件で出回った魔石は、予想通り、一週間も前に完全に消費し尽くされました。その後、いざ冬を越すための薪や石炭を仕入れようとした職人たちは、絶望の底に突き落とされたというわけです。……黒鴉商会による、代替燃料の完全独占と、異常な価格操作」

「十倍、だっけか」

隣に立つアルドが、分厚い拳をギリッと握りしめた。

彼もまた、凄まじい顎の圧力で挫滅した両脚の筋肉が冷気で石のように硬直し、鉛のような鈍痛を発しているのを、大樹のように体幹を固定して耐え忍んでいた。ガドが裏地に仕込んでくれた鋼板が、今は氷の板のように体温を奪っていく。

「ただの木の枝の束が、銀貨一枚に化けてやがる。普通の職人や日雇いの連中に、そんなもんポンポン払えるわけがねえ。少しでも安い流しの行商人から買おうとすれば、黒鴉のゴロツキとつるんだ衛兵が『不当な密輸品』だと言いがかりをつけて没収しちまう。……やってることはただの強盗じゃねえか」


アルドの言う通りだった。これは剣や魔法を使った暴力ではない。権力と経済力という圧倒的な暴力を用いた、弱者に対する『合法的な首絞め』である。

力で奪うのではなく、ルールそのものを書き換え、生きるために絶対に必要な空気を法外な値段で売りつける。衛兵という国家権力すらも金で抱き込んでいる以上、平民たちに抗う術はない。


「これが、第二王子グリードのやり方だよ」


路地の暗がりに身を潜めるライルが、感情の抜け落ちた声で静かに言った。

彼の右腕は、今日の冷え込みのせいで、極限の暴走によって焼き切れ、死に絶えた魔力回路の残骸が激しく収縮し、焼けた鉄串を無数に神経へ突き立てられているかのように発作的な激痛を上げていた。

だが、ライルはその痛みを顔の筋肉のわずかな引き攣りだけで抑え込み、浅く短い呼吸で痛覚をやり過ごしながら、冷徹に状況を分析し続けていた。

「兄上は、自分が手を汚しているとは微塵も思っていない。むしろ、愚かな平民に『適切な価格』で燃料を分配してやっていると本気で信じている。そして、暴動が起きれば長兄のギリウス派閥が『治安維持』を名目に軍事力を誇示できる。……彼らの盤上では、石炭街の人間が何人凍死しようが、それはただの『数字の調整』に過ぎないんだ」


自らは安全な王宮の温室に居座りながら、市井の民の血肉をすり潰して自らの野心の穴埋めをする双子の次兄。それを高みから冷笑しながら見下ろすだけの長兄。

剣の腕や、下級の魔法の力で、この理不尽な経済の暴力(システム)を叩き斬ることはできない。相手は個人の悪党ではなく、王都の流通と法律そのものを盾にした巨大な権力なのだ。だからこそ、アルドは悔しげに冷たいレンガの壁を殴りつけることしかできなかった。


「……親父さんの様子が気になる。行こう」


ライルは外套の襟を立て、泥濘の路地を大通り裏へと歩き出した。

大通り裏の『モルガン親父のパン屋』。そこはまだ、かろうじて巨大な石窯の火が落ちていなかった。路地に漂う香ばしい小麦の匂いと、窯から放射される微かな熱に、三人はわずかに安堵の息を吐く。

だが、店の前に積まれていたはずの薪の山は、以前の三分の一以下にまで減り、そのどれもが水分を多く含んだ煙の出やすい粗悪品ばかりだった。


「おう、坊主どもか。今日も黒麦パンでいいか?」


石窯の前に立つモルガン親父は、いつものように豪快に笑いかけてきたが、その分厚い胸板は汗ではなく嫌な脂汗で光り、目の下には黒々とした深い隈が刻まれていた。小麦粉で真っ白になった太い腕は、微かに、だが確実に疲労で震えている。睡眠時間を極限まで削って立ち続けているのは明白だった。

「親父さん。無理してないか? 薪の値段が、馬鹿みたいに上がってるって聞いたぞ」

アルドが心配そうに身を乗り出すと、モルガン親父はフンと鼻を鳴らした。


「馬鹿言ってんじゃねえ。俺はパン屋だ。街の連中が、銅貨二枚で腹一杯食える黒麦パンを焼くのが仕事だ。燃料代が上がったからって、パンの値段を上げるような真似をするくらいなら、俺はこの石窯を自分から叩き壊すね」

モルガン親父は頑固に言い放ち、長い木べらで次々にパンの生地を窯へと放り込んでいく。

「俺が少し早起きして、焼く量を増やせばいいだけのことだ。黒鴉だか白鴉だか知らねえが、あんな胡散臭え連中のぼったくりなんざに、俺のパンは絶対に負けねえよ」


その言葉は、職人としての不器用な矜持と、平民としての純粋な生活への願いに満ちていた。ただ、平和にパンを焼き、それを街の者たちが笑って食べる。彼が求めているのは、大国の覇権でも玉座でもなく、ただそれだけのささやかな日常なのだ。

だが、セシルの左目――眼帯の奥の冷徹な計算機は、それが完全に破綻した数式であることを無慈悲に弾き出していた。


(……無理だ。十倍に跳ね上がった原価を、個人の労働時間の延長だけでカバーできるわけがない。どんなに強靭な肉体を持っていようと、物理的な限界は必ず訪れる。このままでは、遅かれ早かれ資金がショートし、奴らの用意した『借金』という罠に自ら飛び込むことになる)


セシルは痛む目を伏せ、あえてその事実を口にはしなかった。言ってどうにかなる問題ではないからだ。

モルガン親父から受け取った紙袋から、熱々の黒麦パンを取り出し、一口かじりつく。

表面は硬く、噛めば噛むほどにわずかな酸味と麦の深い甘みが口の中に広がる。ライルは右手を使わず、左手だけで器用にパンを引きちぎりながら、その極上の味を深く、痛いほどに噛み締めた。

この温かさが、この活気が、次兄グリードの野心という底なしの泥沼によって、遠からず無残に飲み込まれてしまうであろうことが、彼にははっきりと分かっていた。


静かなる絞首刑の縄は、すでに石炭街の首に、そしてモルガン親父の首に、確実に掛けられている。

ライルは暗く沈んだ雪空を見上げながら、自身の左手の中に圧縮された冷たい風の感触と、沸き起こる暗い殺意を、ただ静かに確かめていた。

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