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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第3章 市井の願いと王の政治

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第41話:石炭街の熱と、見えない傷痕

第3章のスタートです。

第41話:石炭街の熱と、見えない傷痕


建国から三百年の時を刻むベルクンド王国。

先人たちの血の滲むような努力によって安全な平地はすでに開拓し尽くされ、国家の輪郭は外側に広がる絶対的な拒絶領域――『魔物の森』によって、とうの昔に固定されていた。

外への拡張というエネルギーを失った閉鎖社会は、必然的にその内側へと澱みを溜め込んでいく。限られた領地と権益を巡って選民思想を煮詰めた貴族たちは、王都の中心にある白亜の区画へと引きこもり、そこから弾き出された貧困と泥のすべては、外壁にへばりつくようにして広がる最底辺の区画へと流れ着く。

いつからか『石炭街』と呼ばれるようになったその一帯は、普段ならば濛々たる煤と泥の匂いに沈み、行き交う人々の顔には明日の食事への切実な不安が色濃く張り付いている場所だった。

だが、今日の石炭街の空気は違った。過去数年間、誰も見たことがないような奇妙な「熱」と「活気」が、泥まみれの路地の隅々にまで満ち溢れていたのである。


カンッ、カンッ、カンッ――!


街の中心に位置するガドのドワーフ工房から、リズミカルで力強い槌音が響き渡る。その音に呼応するように、周囲にひしめく小さな板金工房やガラス工房の煙突からも、勢いよく黒煙が吹き上がっていた。街路には資材を積んだ荷車を行き交わせる人々の威勢の良い怒声が響き、安い串焼きの屋台からは獣肉の脂が焦げる暴力的なまでに美味そうな匂いが漂っている。

活気の理由は明白だった。つい先日、王都の裏社会を大きく揺るがした『第3秘密倉庫の爆破事件』である。

裏社会のどこかで厳重に管理されていた巨大な倉庫が何者かに爆破され、内部に溜め込まれていた膨大な量の特級魔石が、出所不明のまま裏市場へと大量流出したのだ。

文明の命脈たる魔石エネルギーが、一時的とはいえ安価に出回った影響は計り知れなかった。燃料の高騰によって長らく火を落としていた零細の職人たちは一斉に炉に火を入れ、停滞していた街の経済が、嘘のように息を吹き返したのである。

だが、その熱狂の中を肩を並べて歩く三人の少年の瞳は、周囲の喧騒とは裏腹に、泥濘のように冷たく、ひたすらに凪いでいた。


「……活気があるのは良いことですが、いささか浮かれすぎですね。まるで、明日の朝には永遠の春が来るとでも信じているような顔だ」


すれ違う手押し車をわずかに身をよじって躱しながら、セシル・クラインが忌々しげに呟いた。

豪商クライン商会の次男である彼の左目には、真新しい黒い眼帯が当てられている。商会で彼を「出来損ない」と見下す優秀な兄たちや、学園の貴族生徒たちには「書庫の階段から落ちて目を突いた」という、いかにも運動神経の鈍い特例入学の商人らしい、惨めな言い訳で通していた。周囲の人間は皆、その滑稽な理由を信じて鼻で笑った。セシル自身も、薄ら笑いを浮かべてその嘲笑を甘んじて受け入れていた。

だが、その眼帯の下にあるのは、階段から落ちた程度の生易しい傷ではない。

第二層の深淵で、森狼の群れに死角から撥ね飛ばされた際、粉々に砕け散った銀縁眼鏡の破片が眼窩周辺に深く食い込んだ凄惨な裂傷の痕だ。外傷こそガドの治療で塞がったものの、強烈な打撃による深刻な脳震盪の代償として、左目の視神経は今も重いダメージを引きずっている。強い光を浴びれば脳髄を直接太い針で抉られるような頭痛が走り、視界はひどくブレて焦点が合わない。

しかし、セシルにとって真の致命傷は肉体の痛みではなかった。自分の目で見て、完璧に統制できていると信じ切っていた『十秒ルール』の戦術計算が、知性のない野獣に完全にハッキングされ、逆利用されていたという屈辱。己の理性を粉々に打ち砕かれたトラウマが、左目が疼くたびにフラッシュバックする。

ゆえに彼は、すでに視覚という驕りを捨てていた。

眼帯の奥でブレる瞳を閉じ、街の雑踏の音、馬車の車輪が泥を跳ねる音、遠くで響く槌音の反響を、彼は聴覚という『絶対にごまかしのきかない物理振動』として脳内で精緻に計算し直す訓練を、歩きながらも絶え間なく続けていた。


「無理もねえさ。ここの連中にとっては、今日の炉の火と明日のパンが食えるかどうかが世界のすべてなんだ。先のことを心配する余裕なんてあるわけがねえ」


セシルの隣を歩くアルド・バルツァーが、露店の串焼きの煙を分厚い手で払いながら言った。

北方バルツァー男爵家の三男。森に隣接する痩せた領地で育った武門の出である彼の歩みは、一見すると以前の豪快なそれと何も変わらないように見えた。だが、足元をよく見れば、その歩幅は以前よりも意図的に狭められ、地面の凹凸を確かめるように重く踏みしめられているのが分かる。

彼の両脚の筋肉と筋繊維は、森狼の凄まじい顎の圧力によって深く挫滅していた。大金を叩いて新調した硬革鎧と、ガドが裏地に仕込んでくれた鋼板がなければ、両脚を根元から噛み千切られていたほどの絶望的な圧力。傷口自体は塞がったが、脚の筋肉のバネは完全に死に絶えた。かつてのように全速力で敵陣に突進することも、鋭い獣の牙を素早いステップで躱すことも、彼には二度とできない。

だからこそ、アルドは歩き方を変えた。痛みを微塵も顔に出さず、ただ静かに、大樹が大地に根を張るように体幹を固定した。失われた機動力を、ガドの工房での過酷なリハビリで鍛え上げた上半身の異常な筋力で補い、三十キロの大盾をその場から一歩も動かずに支え抜く『絶対に退かない固定要塞』へと、そのプレイスタイルを強制的に変異させていたのである。


「アルドの言う通りだよ。彼らにとっては、今、炉に火が入っていることだけが真実なんだ。……その火がいつまで続くかは、別の話だけれどね」


二人の背後を歩いていたライル・ベルクンドが、柔らかな、しかしひどく温度の低い微笑みを浮かべて同意した。

ベルクンド王国第三王子。学園では「魔力も覇気もない出涸らし」と嘲笑され、誰の脅威にもならない凡庸な弟を完璧に演じきっている十七歳の少年。

彼もまた、その仕立ての良い平民向けの外套の下に、取り返しのつかない致命傷を隠し持っていた。

歩きながら、ライルは無意識に右手を動かそうとし、その瞬間に肩口から背筋へ向けて駆け上がった強烈な悪寒に、奥歯を強く噛み締めた。右腕の内部に張り巡らされた魔力回路が、限界を超えた暴走によって完全に焼き切れて自壊しているのだ。日常の軽い動作ならば、額に滲む冷や汗を拭いながら誤魔化すことができる。だが、そこにほんの微量の魔力を通そうとしただけで、砕けた熱いガラス片を血管の中でかき回されるような激痛が走り、視界が白濁して気絶しそうになる。

自然治癒には数年単位の時間がかかる。つまり、魔術師としての彼の右半身は完全に死んでいるのだ。

王宮でも学園でも、彼はその激痛を柔和な表情の裏に完全に隠蔽し、右手で優雅にティーカップを持ち上げ、羽根ペンを握って見せている。正妻の子である長兄や、双子の次兄の誰一人として、この無害な弟の右腕が死んでいることにも、森で冒険者として死線を潜り抜けていることにも気づいていない。


「おっ、ライルの坊主じゃねえか。それにセシルの若旦那に、アルドの坊主も。今日は一段と顔色が悪いな、学園のお勉強のしすぎか?」


大通り裏の路地に入ると、濛々と立ち込める熱気の中から、野太い声が掛けられた。

そこは『モルガン親父のパン屋』だった。

路地に向けて口を開けた巨大な石窯からは、顔の皮膚が焼けるほどの強烈な熱が放射されている。窯の前で長い木べらを持っているモルガン親父は、分厚い胸板に大量の汗を光らせ、太い腕を小麦粉で真っ白にしながら豪快に笑っていた。

ライルたちにとって、このパン屋は特別な意味を持っている。冒険者家業の初陣の日、まだ何の手柄も立てていなかった彼らのために、セシルが乗合馬車の御者に銀貨の端数を握らせて停留所まで届けさせたのが、この店の焼きたての黒麦パンだった。あの時、銅貨六枚をきっちり三人で割り勘にしてかじりついたパンの味と温かさを、彼らは今でも忘れていない。


「モルガンのおやっさん。相変わらず良い匂いですね。……今日も、例の黒麦パンを三つお願いします。銅貨六枚、きっちり割り勘で」


セシルが前に出て、皮肉げな笑みを浮かべながら銅貨を二枚、木箱の上に置いた。アルドとライルも、それに続いて汚れた銅貨を二枚ずつ重ねる。

モルガン親父は機嫌よく鼻を鳴らし、窯の奥から見事な焼き色のついた黒麦パンを三つ取り出して、無造作に粗末な紙袋に放り込んだ。


「おう、持ってきな。だがな、若旦那。この値段で出せるのも、いつまで続くか分からねえぞ」

「と、言いますと? 魔石の流通はかつてないほど潤沢なはずですが」

「魔石はな。だが、最近妙な動きがあるんだよ。『黒鴉商会』とか名乗る怪しい商会が、魔石の代替燃料になる薪や石炭を、市場から根こそぎ買い漁ってやがるんだ。魔石がこれだけ安く出回ってるってのに、わざわざかさばる薪を買い占める理由が分からねえ」


モルガン親父の言葉に、ライルたち三人の間に静かな、しかし確かな緊迫感が走った。

黒鴉商会。それは他でもない、次兄グリードの息が掛かった裏の御用商会だ。

表向きは「無能な王子と商人の息子」として振る舞いながらも、彼らの脳内では瞬時に王宮の権力闘争と経済の動きが結びつき、最悪のシナリオが組み上がっていく。


「……なるほど。そういうことですか」


セシルが眼帯の奥で冷たい光を放ちながら、低く呟いた。

モルガン親父をはじめとする市井の人間は、あの倉庫爆発の真相を知らない。自分たちの身に迫る真綿のような殺意の正体にも気づいていない。

だが、襲撃の張本人であるライルたちにはすべてが裏で繋がって見えていた。魔石の恩恵で街が潤っているのは、あくまで一時的な現象に過ぎない。第3秘密倉庫を爆破され、横領して溜め込んでいた莫大な魔石を失った第二王子グリードの陣営が、このまま大人しく泣き寝入りするはずがないのだ。

彼らは失った魔石の利益を即座に補填するため、圧倒的な権力と資金力を使い、魔石以外の「代替燃料」を完全に独占しようとしている。そして近い将来、市場に出回った魔石が尽きた絶好のタイミングで、独占した代替燃料の価格を一気に十倍、二十倍に吊り上げるつもりなのだ。

それはもはや商売ではない。権力を盾にした合法的な暴力であり、平民に対する静かなる絞首刑だった。


「おやっさん。この黒麦パン、少し質を変えたり、値上げしたりするつもりは?」


アルドが心配そうに尋ねると、モルガン親父は目を吊り上げて木べらをドンと床に突いた。


「馬鹿言ってんじゃねえぞ、アルドの坊主。銅貨二枚で腹一杯食えるからこそ、この街の連中は俺のパンを買いに来るんだ。燃料代が上がったからって、小麦におが屑を混ぜて誤魔化すような真似をするくらいなら、俺はこの石窯を自分から叩き壊すね」


モルガン親父は頑固に言い放ち、次々にパンの生地を窯へと放り込んでいく。

その横顔は、職人としての不器用な矜持と、平民としての純粋な生活への願いに満ちていた。ただ、平和にパンを焼き、それを街の者たちが笑って腹一杯に食べる。彼が求めているのは、大国の覇権でも玉座でもなく、ただそれだけのささやかな日常なのだ。

紙袋から熱々の黒麦パンを取り出し、一口かじりつく。表面は硬く、噛めば噛むほどにわずかな酸味と麦の深い甘みが口の中に広がる。ライルは右手を使わず、左手だけで器用にパンを引きちぎりながら、その味を深く噛み締めた。

この温かさが、近い将来、次兄グリードの野心によって無残に踏みにじられるであろうことが、彼には痛いほど分かっていた。


翌日。

ライルは王宮から馬車に揺られ、貴族階級学校の豪奢な門をくぐっていた。

泥まみれの外套は脱ぎ捨て、一切の汚れや綻びがない白と青を基調とした制服に身を包んでいる。王都の最上層に位置するこの学園の空気は、石炭街の熱気とはまるで違う。徹底的に濾過され、血の匂いも汗の匂いもしない。すれ違う者からは高価な香水と紅茶の香りが漂い、まるで隔離された無菌室のような冷たさに満ちていた。


「ライル殿下。ごきげんよう。昨日の魔法史の課題、ずいぶんと苦労されていたようですね」


優雅なサロンに足を踏み入れると、派手なドレスに身を包んだ貴族の令嬢たちが、扇の陰でくすくすと笑いながら声をかけてきた。

ライルは完璧な「出涸らしの三男坊」の仮面を貼り付け、困ったように眉を下げてみせた。


「ええ、お恥ずかしい限りです。兄上たちのように優秀であれば、あのような難解な書物も一読で理解できるのでしょうが。私にはどうにも難しくて、途中で眠ってしまいましたよ」


自嘲気味に笑いながら、ライルはテーブルの上のティーカップに右手を伸ばした。

指先が陶器の繊細な取っ手に触れ、持ち上げようと力を入れた瞬間、右半身の死んだ回路が悲鳴を上げ、視界が一瞬白く飛ぶほどの激痛が肩から指先へと突き抜けた。だが、ライルは呼吸のペースすら乱さず、冷や汗の一滴も流さずに、優雅な所作でカップを口元へと運んだ。

痛覚を麻痺させているわけではない。むしろ、その痛みを一つ残らず脳髄で味わいながら、強靭な意志の力だけで肉体を支配し、無害な笑顔を維持しているのだ。


(……この学園にいる連中の誰一人として、石炭街のパン屋の危機など知る由もない。いや、知ったところで、彼らにとっては『盤上の数字が少し変動した』程度にしか感じないのだろう)


香り高い紅茶を喉に流し込みながら、ライルはサロンの中心で談笑している一際華やかな集団に視線を向けた。

そこには、正妻の血統である長兄ギリウス(二十一歳)の派閥に属する有力貴族の子弟たち、そしてギリウスの同母妹である第二王女(十八歳)の姿があった。

豪奢な縦ロールの金髪を揺らす第二王女は、昨今の魔石市場の混乱と、それに伴う新たな燃料税の導入の噂について、まるでチェスの駒を動かすかのような気楽さで語り合っている。


「次兄のグリード殿下も、ご苦労なことですわね。第三夫人の血筋という底辺からの焦りからか、倉庫を一つ吹き飛ばされた程度で、泥にまみれて小銭集めに奔走されているようですけれど」

「ですが王女殿下、あの執念は評価すべきかと。グリード殿下が裏で燃料の流通を独占し、新たな税の徴収を強化してくださるおかげで、我がギリウス派閥の軍事予算はさらに潤沢になりますからね。スラムの下民が数千人飢えて凍えたところで、豚の数が減るだけのこと。国益という大局から見れば、実に安上がりな労働力の再利用と言えます」

「ええ、本当に。お兄様(ギリウス)のために、血筋の卑しい者が自ら手を汚して盤上を整えてくれるのですから、笑いが止まりませんわね」


彼らは優雅に笑っていた。

自分たちと同じ第三夫人の腹から生まれ、ライルとは同じ十七歳の双子である次兄グリード。彼が玉座へ這い上がるために血を吐くような思いで平民から搾取し、泥水をすすって盤上に立とうとしていることすら、正妻の血統である彼らからすれば「便利な集金装置の滑稽な努力」でしかないのだ。

そして、そのグリード自身もまた、己の玉座への野心のために、モルガン親父のような市井の民の命を平気ですり潰そうとしている。


(……僕は、あんな奴らを支えたいと思っていたのか)


ティーカップをソーサーに戻すカチャリという小さな音が、ライルの耳にはひどく虚しく響いた。

かつての彼は、自分が無能であることを言い訳にし、「どちらの兄が玉座についても、総団長の叔父上のように実力で補佐する」という綺麗事を並べていた。だが、森の深淵で死の洗礼を受け、石炭街で懸命に生きる民の温かいパンの味を知った今の彼にとって、その願いがいかに現実から目を逸らした甘い『逃避(モラトリアム)』であったかが、嫌というほど理解できた。


民の生活など一顧だにせず、ただ己の私欲と野心のためだけに平民を搾取し、静かなる絞首刑を執行しようとしている双子の次兄、グリード。

正妻の血統と選民思想に溺れ、同じく民を盤上の駒としか見ず、他者の血を吸って肥え太る冷酷な長兄ギリウスと、その傲慢な王宮のシステム。


右腕で脈打つ激痛が、彼の精神をより冷徹に、より鋭利に研ぎ澄ましていく。

同情などない。血の繋がった兄に対する好意など、もはや微塵も残っていない。彼ら二人は、ライルにとって「支えるべき王の器」などではなく、この国の根幹を腐らせている明確な「敵」だった。


(……モルガン親父の石窯の火は、絶対に消させない)


ライルはテーブルの下で、傷だらけの左手をゆっくりと握りしめた。

今はまだ、この嘲笑の箱庭で出涸らしの弟を演じ続ける。だが、いざという時、彼の左手の中に限界まで圧縮された『不可視の風針』は、あの傲慢な兄たちの喉笛を、音もなく正確に貫くだろう。

王都の地下深くでくすぶる反逆の炎は、誰にも気づかれないまま、確かな熱を持ち始めていた。

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