第44話:無菌室の昼下がり
第44話:無菌室の昼下がり
王立学園の最上階に位置する特別サロンは、外の世界で猛威を振るう凍てつくような初冬の吹雪が、まるで三文芝居の幻であるかのように、うららかな春の陽だまりに満ちていた。
部屋の四隅に設置された、純白の大理石で装飾された暖炉型の魔石ストーブ。そこには、石炭街の人間が一生かかっても拝めないような純度の高い特級魔石が惜しげもなく放り込まれ、微かな駆動音すら立てずに、極上に濾過された温風を静かに吐き出し続けている。床には足首まで沈み込むような分厚く豪奢なペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁を彩る建国史の絵画の額縁は、そのすべてが眩い金箔で縁取られていた。
さらに、精霊魔法の恩恵すら受けていると噂される併設のガラス温室からは、季節外れの美しい薔薇が咲き乱れる香りが漂い、淹れたての最高級ダージリンの湯気と混ざり合って、むせ返るような甘く華やかな空気を醸成している。
石炭街の泥濘が凶器のように凍りつき、零細職人たちが己の吐く息の白さと、尽きかけた薪の蓄えに怯えながら絶望の底に沈んでいるのと同じ時刻。この王都の最上層に隔離された、汚れも痛みも存在しない『無菌室』では、令嬢たちが薄手のシルクのドレス一枚で優雅にレースの扇を揺らし、貴息たちが磨き抜かれた革靴で、次の夜会のワルツのステップを気怠げに反芻していた。
「――それで? 結局、第三地区の小規模な製鉄所も、昨夜をもって完全に炉の火を落としたというわけ?」
サロンの中心。ひときわ目を引く真紅のベルベットの長椅子で、見事な縦ロールに巻かれた金髪を揺らしながら、第二王女が艶やかなルージュを引いた唇をほころばせた。
十八歳。正妻である王妃の腹から生まれ、次期国王の最有力候補である長兄ギリウスと完全に同じ、非の打ち所がない最高位の血統を持つ少女。彼女の周囲には、長兄ギリウスの派閥に属する保守派の大貴族や、王宮の要職を占める魔法ギルドの高官の子弟たちが、まるで気高い女王蜂に群がる働き蜂のように傅いていた。
「ええ、殿下。ご推察の通りでございます」
取り巻きの一人である伯爵令息が、まるで三文芝居の滑稽な喜劇の結末を報告するかのような、ひどく軽い口調で応じた。
「燃料の卸値が先月の十倍に跳ね上がったとかで、平民の親方どもは皆、顔を真っ青にして悲鳴を上げておりますよ。中には、高騰した薪を買うために手を出した高金利の借金のカタとして、工房そのものを『黒鴉商会』に差し押さえられ、夜逃げ同然でスラムの奥へ消えた者も少なくないようです」
その報告を聞いたサロンに集う貴族たちの間に、さざ波のような、しかし明確な嘲笑が広がった。
「まあ、滑稽なこと。たかが薪や石炭の値段が少し上がった程度で、先祖代々の店を捨てて夜逃げだなんて。平民というのは、本当にその日暮らしで計画性のない虫けらですのね」
「全くだ。炉の火が消えただの、明日のパンが焼けないだの、いちいち騒ぎ立てる声がここまで届いてきそうで不愉快極まりない。……だが、王女殿下。この一連の異常な燃料高騰と悪辣な買い占めの裏で糸を引いているのは、他でもない第二王子のグリード殿下だというもっぱらの噂ですが?」
一人の生徒が声を潜めてそう尋ねると、第二王女は手にしていた白磁のティーカップを極めて優雅な所作でソーサーへ戻し、ふふっ、と冷ややかな、侮蔑に満ちた笑いを漏らした。
「ええ、その通りよ。第三夫人の腹から産み落とされたあの『腹違いの弟』の片割れが、泥にまみれて小銭集めに奔走しているみたいね」
王女のその言葉には、同じ王族に対する敬意など微塵も含まれていなかった。あるのは、明確な血統の格差と、正妻の子という絶対的な優位性からくる、底なしの見下しだけだ。
「自分に血統の力がないという、卑しい生まれへの焦りからでしょうけれど。自分の息の掛かった倉庫を一つ吹き飛ばされた程度で狂乱し、代替燃料を買い占めてスラムの底辺から小汚い銅貨を巻き上げるなんて。……本当に、貧乏くさくて吐き気がするわ。王族のやることではないわね」
「では、ギリウス殿下のお耳に入れて、グリード殿下の暴走を止めるべきでは? このままでは、王都の下層経済が完全に麻痺してしまいます」
「止める? なぜ?」
第二王女は、美しい刺繍が施された扇で口元を隠し、冷酷に目を細めた。
「ギリウスお兄様は、あえて泳がせているのよ。……考えてもみなさい。あの愚かな弟が裏で非道な手段を使って平民から富を吸い上げれば吸い上げるほど、平民たちの不満とヘイトは、すべてグリード自身と黒鴉商会に向かって蓄積していく。そうすれば、いずれ必ず、寒さと飢えに耐えきれなくなった暴徒たちによる小規模な反乱が起きるわ」
「反乱、ですか」
「ええ。そうなればこちらのものよ」
第二王女は、まるでチェスの盤上で勝負を決める最後の一手を打つかのように、冷たく、そして誇らしげに語った。
「暴動が起きれば、お兄様は長兄としての権限で『王都の治安維持』を名目に、堂々と中央騎士団と国軍を動かすことができる。スラムの連中を武力で鎮圧し、軍事力を誇示すると同時に、新しい治安維持税を徴収する完璧な大義名分ができるわ。あの腹違いの弟が泥水をすすって集めた莫大な資金も、最終的には『暴動を引き起こした責任と横領の罪』として没収し、国庫と軍事予算――つまり、我がギリウス派閥の力に変換されるシステムができあがっているのよ」
取り巻きたちは一瞬息を呑み、次いで、一斉に感嘆の溜め息を漏らした。
「なるほど……! グリード殿下は、ご自身が玉座に近づくための資金を集めているつもりが、実はギリウス殿下の手のひらの上で、最も都合の良い『使い捨ての集金装置』として踊らされているだけだと!」
「その通りよ。血筋の卑しい弟が自ら手を汚し、平民の恨みを一身に背負いながら盤上を整えてくれるのだから、これほど便利な駒はないわ。あの無能が勝手に絞め殺した下民が数千人凍えて飢え死にしたところで、豚の数が減るだけのこと。国益という大局から見れば、実に安上がりな労働力の再利用と言えるわね」
アハハハハ、と。
暖かく濾過された無菌室のようなサロンに、優雅で、残酷な笑い声が響き渡った。
その狂気に満ちた笑い声の輪から少しだけ離れた、壁際の日陰の席で。
ライル・ベルクンドは、誰の目にも留まらないような、薄く、ひどく柔和な微笑みを顔に貼り付けたまま、静かにダージリンティーを啜っていた。
彼の耳には、王女たちの語る言葉の一言一句が、まるで鋭い氷の破片のように、あるいは腐臭を放つ泥濘のように突き刺さっていた。
(……豚が、減るだけ)
ライルは右手で、ティーカップの繊細な取っ手を摘んでいた。
温かい室内であっても、彼の右半身に横たわる『完全に自壊した死んだ魔力回路』は、指先に少し力を込めるだけで、砕けた熱いガラス片を血管の裏側に押し込まれるような、凄絶な激痛を発生させる。今この瞬間も、カップを持ち上げ、優雅に傾けるという些細な動作の裏側で、額に冷や汗が滲むほどの暴力的な痛みが、肩から腕、そして指先へと絶え間なく駆け抜けていた。
だが、ライルはその痛覚を、森の死闘で鍛え上げた強靭な精神力だけで完璧にねじ伏せ、紅茶の水面すら一ミリも揺らさずに優雅な所作を維持している。
その脳髄を焼くような激痛だけが、今、彼がこの場で発狂して極大の魔法をぶっ放さずに自我を保つための、唯一の重し(錨)だった。
脳裏に、徹底的に叩き割られたモルガン親父の巨大な石窯がフラッシュバックする。
冷え切った白い灰。泥にまみれた質の悪い薪の残骸。太い鉄の鎖で封鎖された店を奪われ、スラムの底へと消えていった親父さんの、あの分厚く、いつも小麦粉まみれだった温かい手のひらと、血を吐くような涙。
彼らは必死に生きていたのだ。たった銅貨二枚で、街の連中が笑って腹を満たせるように。己の睡眠時間を二時間にまで削り、骨身を削って、それでも誇りを持って日常を回していた。
それを、この無菌室にいる連中は「豚が減るだけ」と笑った。
腹違いの弟であるグリードの暴挙を全て知っていながら、それを止めるどころか、自らの軍事予算(権力)を肥え太らせるための「都合の良いシステム」として利用し、高みから傍観している。
自らは一切手を汚さず、安全な高みから盤上を見下ろし、弟に泥水をすすらせて平民をすり潰させ、その成果だけを合法的にかすめ取ろうとする長兄ギリウスと、正妻血統の果てしない傲慢。
(……あんな奴らに、僕はこの国を任せようとしていたのか)
口に含んだ最高級の紅茶の味が、酷く泥水のように感じられた。
自分はあえて無能を演じ、血で血を洗う王位継承の争いには加わらない。どちらの兄が玉座についても、叔父上の様に裏から実力で国を支えれば、それで無用な血は流れない。
――反吐が出るほどの自己欺瞞。
自分も、結局はこの冷笑する王女や長兄と同じだったのだ。「争いに巻き込まれたくない」「王族としての責任を負いたくない」という卑怯な逃避の言い訳として、出涸らしの振りをしていただけ。
自分がモラトリアムの温水に浸かって、すべてを傍観している間に、あのモルガン親父の石窯は無惨に叩き割られた。セシルの左目は砕け、アルドの両脚は潰されたのだ。
「――あら? そういえば、あんな陰気な席にいるのは、ライルではないの」
不意に、第二王女の冷ややかな視線が、壁際のライルへと向けられた。
それに釣られて、取り巻きの貴族たちの視線が一斉に突き刺さる。軽蔑と、憐憫と、無関心が入り混じった、路傍の石ころでも見るような眼差し。
「ごきげんよう、ライル。あなた、昨日の魔法史の授業でまた居眠りをして教授に怒られたそうね。相変わらず、王宮の空気も読めなければ、学問の才能もない出涸らしの弟のようだけれど」
第二王女の言葉に、周囲からくすくすと遠慮のない嘲笑が漏れる。
「それにしても、同じ第三夫人の腹から生まれ、同じ日に産み落とされた双子だというのに、グリードとは随分と差がついたものね。あちらは泥にまみれて他人の恨みを買ってでも這い上がろうとする野心があるけれど……あなたは、自分の双子の兄が、いつか過労と平民の恨みで潰れるのではないかと、心配にはならないの?」
底意地の悪い質問だった。
ここでライルが少しでもグリードを庇えば「卑しい第三夫人派閥の結束」として嘲笑の的になり、逆に無関心を装えば「肉親の情すらない薄情な愚か者」として蔑まれる。どちらに転んでも、彼らの優越感を満たすための玩具に過ぎない。
だが、ライルは右手の激痛を完璧に隠し通したまま、極めて自然に、ほんの少しだけ情けない顔を作って眉を下げてみせた。
「ええ、本当にお恥ずかしい限りです、姉上。僕にはどうにも、数字や政治の難しい話を聞くと、すぐに頭が痛くなってしまって。……グリード兄さんは昔から優秀でしたからね。僕のような無能が口出しをしても、かえって兄さんの邪魔になるだけでしょう。僕はこうして、姉上たちのお邪魔にならないよう、隅で美味しい紅茶をいただいているのが性に合っているのですよ」
へらへらと、毒にも薬にもならない凡庸な笑みを浮かべる。
その完璧な「無害な愚弟」の演技に、第二王女は心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……本当に、生きている価値もないわね。まあいいわ、その無能さがせめてもの美徳でしょうよ。誰の脅威にもならないのだから、一生そうして部屋の隅で震えていなさいな」
王女は完全に興味を失ったように視線を外し、再び取り巻きたちとの優雅な談笑に戻っていった。
会話の輪から完全に外れたライルは、静かに、音を立てずにティーカップをソーサーに置いた。
カチャリ、というかすかな磁器の音が、彼の内側で、残されていた人間としての迷いや躊躇いが、完全に閉じる音に重なった。
(……そうだ。僕は無能な出涸らしでいい)
ライルはテーブルの下で、分厚いタコと無数の切り傷で覆われた左手を、ゆっくりと、強く握りしめた。
魔力回路の自壊によって右半身を失った彼が、唯一自由に動かせる左手。それは、致死量の風の魔力を限界まで圧縮し、一点を貫く『不可視の風針』を練り上げるための、恐るべき暗殺者の手。
(姉上たちや兄さんたちは、これからも僕を無害な豚だと笑っていればいい。……誰の脅威にもならない、愚かな出涸らしの弟だと見下したまま、あの理不尽な盤上で遊んでいればいい)
ライルの柔和な顔の裏側で、冷たく、黒い泥のような殺意が静かに臨界点を迎えていた。
平民の命をすり潰して自己の延命を図る、次兄グリードの暴走も。
それを高みから見物し、利益だけをかすめ取ろうとする長兄ギリウスの冷酷な算段も。
この無菌室で、それを当然の権利として笑う王族たちも。
(僕が、全部引きずり下ろしてやる)
モルガン親父の流した血の涙を。あの冷え切った灰の絶望を。
特権階級という傲慢なシステムそのものの喉笛に、音もなく突き立ててやる。
出涸らしの第三王子が、真の『反逆者』として、冷徹な計算と泥臭い戦術をもって王宮に向かって牙を剥く瞬間が、そこまで迫っていた。
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