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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第2章 死の洗礼

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第39話:泥水の潜行と、不可視の針

第39話:泥水の潜行と、不可視の針


王都の地下深く。かつて街の汚水を一手に引き受けていた「旧下水路」は、数十年前に新しい魔導浄化システムが導入されて以来、完全に放棄され、地図からも消し去られた巨大な迷宮となっていた。


凍てつくような真冬の冷気が、石造りのトンネルを這うように吹き抜けている。

膝まで浸かる冷水は、数十年分のヘドロと腐敗物が溶け込み、鼻を突く強烈な悪臭を放っていた。光の届かない完全な暗黒の中、ピチャリ、ピチャリという微かな水音だけが、等間隔で響いている。


「……アルド。ペースが少し早い。水音が反響し始めているぞ」


先頭を進むセシルが、闇の中で足を止め、振り返らずに低く囁いた。

その左目を覆う眼帯は暗闇に溶け込み、残された右目だけが、頭に叩き込んだ図面と目の前のわずかな気流の変化を頼りに、恐るべき精度で迷宮の正解ルートを弾き出している。


「……わりぃ。少し体が冷えすぎて、感覚が麻痺してきてる」

背後から、アルドが荒い息を殺しながら答えた。

彼の肩には極太のロープが食い込み、その後ろには、ガドの工房で車軸にたっぷりと消音油を塗り込まれた「二台の頑丈な大型荷車」が連結されている。さらにその荷車の上には、三十キロを超える鉄屑の大盾まで積まれているのだ。

泥濘(ぬかるみ)の底なし沼を歩くようなヘドロの中で、そのすべてを一人で引っ張るアルドの肉体的な負荷は、すでに限界に近い。


「……無理もないね。この水温じゃ、いくら耐寒の油を塗っていても、一時間で足の指先から凍傷が始まる」

アルドの後ろを歩くライルが、凍える息を吐きながら言った。


ライルの上半身には、ガドが作ってくれた分厚い革の『拘束具』が幾重にも巻き付けられ、動かない右腕を胴体に完全に固定していた。

右腕が少しでも揺れるたびに走っていた脳を焼くような激痛は、この拘束具のおかげで劇的に抑え込まれている。何より「右腕の存在そのものを強制的に忘れさせる」ことで、魔力を左半身だけに集束させる感覚が、以前よりも格段に鋭く、そして静かになっていた。


「無駄口を叩くな。着いたぞ」

セシルの平坦な声に、三人は同時に足を止めた。


下水路のどん詰まり。そこには、赤錆にまみれた分厚い鉄格子の扉が立ちはだかっていた。

鉄格子の先は、わずかに乾いた石畳の通路へと続いており、その奥から微かな松明(たいまつ)の明かりと、男たちの下卑た笑い声が漏れ聞こえてくる。

間違いない。王宮が裏市場から吸い上げた魔石を溜め込む、黒鴉(くろがらす)商会の『第3秘密倉庫』の裏口だ。


「……王宮規格の真鍮(しんちゅう)錠が二つ。ご丁寧に、魔力感知の罠まで仕掛けられているな」

鉄格子に顔を近づけたセシルが、闇の中で冷たく笑った。

「魔法で焼き切ろうとすれば、即座に警報が鳴る仕組みだ。……だが、魔法を使わなければただの金属の塊に過ぎない」


セシルは懐から、ガドの工房で調達してきた小さなガラス小瓶を取り出した。

特殊な鉄化合物の酸。セシルはそれを真鍮錠の鍵穴に数滴垂らし、さらに錠の接合部全体に薄く塗りつけた。


シュゥゥゥ……。

微かな溶解音と共に、白煙が上がる。酸特有の鼻を刺す匂いが広がったが、下水路の悪臭にかき消されて奥の男たちには届かない。

数秒後、王宮の錬金術師が鍛え上げたはずの強固な真鍮錠が、まるで泥のようにドロドロに溶け落ち、音もなく足元の水に没した。


「開いた。行くぞ」

セシルが鉄格子を静かに押し開ける。

アルドが荷車をその場に置き、背中から鉄屑の大盾を構えて前衛に出た。最後尾からライルが左手を軽く持ち上げ、三人は音を殺して乾いた通路へと侵入した。


通路を抜けた先は、元々は下水処理場の巨大な貯水槽だった空間だ。

そこには、王宮の紋章が焼き印された真新しい木箱が、まるで山脈のようにうず高く積み上げられていた。木箱の隙間からは、極上の魔石が放つ特有の「澄んだオゾンの匂い」がむせ返るほどに漂っている。


石炭街の職人たちが首を括り、下層の冒険者たちが血を流して集めた命の結晶。それを、王宮の兄たちはこんな地下の底で、ただ市場の価格を操作するためだけに腐らせていたのだ。


「……ひどい量だ。ざっと見積もっても、大金貨数千枚分は下らない」

セシルが物陰から木箱の山を見上げ、ギリッと奥歯を鳴らした。


「見張りは?」

ライルが左手の指先を震わせながら囁く。


「……三人。木箱の山の奥、松明のそばで酒を飲んでいる。全員、手首に黒鴉の刺青がある。元傭兵の荒くれ者だ」

セシルは右目だけで素早く状況を把握し、背中から黒鉄のワイヤーカッターと、細く強靭な鋼線を取り出した。

「アルド、お前はここで盾を構えて待機しろ。乱戦になればお前の出番だが、可能な限り音は立てたくない。……ライル、やれるか」


「ああ。拘束具のおかげで、左手の回路は最高に研ぎ澄まされている」

ライルは深く息を吸い込み、冷たい視線を木箱の隙間へと向けた。


「よし。俺がワイヤーを張る。お前は一番奥の男を『無音』で仕留めろ」

セシルが音もなく闇へと溶け込み、ライルもまた、木箱の影を縫うようにして見張りの男たちへと接近していった。


倉庫の中央。三人の見張りが、木箱の上に安いワインの瓶を転がし、下品な冗談を言い合いながら笑っていた。

「……ったく、こんなカビ臭え地下で、いつまでこの石っころの番をさせんだよ。グリード殿下も人が悪いぜ」

「バカ言え。ここで寝ずの番をしてるだけで、下町の馬鹿共が一生かかっても稼げねえ金がもらえるんだ。……おい、ちょっと便所行ってくるわ」


見張りの一人が立ち上がり、仲間から離れて倉庫の隅の暗がりへと歩き出した。

その背中を、十メートル離れた木箱の陰から、ライルの左手が静かに捉えた。


(……命を奪うことへの躊躇いは、あの森に置いてきた。こいつらは、僕たちの邪魔をする『敵』だ)


ライルは目を閉じ、魔力炉から左手へと力を流し込んだ。

右腕は拘束具の中で微かに熱を持ったが、暴走はしない。周囲の乾いた土埃が左手のひとさし指の先端に集束し、一ミリの極細の『石の針』を形成する。その周囲を超高圧の『風』の銃身が包み込む。


アイアン・ボアの分厚い角膜すら貫通した、必殺の針。人間の皮膚など、濡れた紙と変わらない。


「――穿て」


微かな吐息。

暗がりに立って用を足そうとしていた男の首の後ろ、ちょうど第一頸椎(けいつい)の隙間に、不可視の針が音もなく吸い込まれた。


「……え?」

男は声を上げることも、痛みを感じる暇すらなかった。

風纏いの土針は、男の延髄と声帯を瞬時に粉砕し、そのまま喉仏を貫通して闇の中へ消えた。すべての運動神経を完全に切断された男の巨体は、一言の悲鳴も上げることなく、まるで糸の切れた操り人形のように、グシャリと石畳の上に崩れ落ちた。


「……おい、どうした? 酔っ払って寝ちまったのか?」

奥で酒を飲んでいた残る二人の見張りが、仲間の不自然な倒れ方に気づき、剣の柄に手をかけながら立ち上がった。


だが、彼らがこちらへ向かって足を踏み出した、その瞬間だった。


ギィンッ……!!

暗闇の床すれすれに、セシルが張り巡らせていた『黒鉄の鋼線』が、彼らの両足の脛(すね)を容赦なく薙ぎ払った。


「「ぎ、ぁっ!?」」

強靭なワイヤーによってアキレス腱を深く切り裂かれた二人は、完全にバランスを崩し、前方のめりに床へと倒れ込んだ。


「てめぇ、誰だ……ッ!?」

男の一人が苦痛に顔を歪めながら叫ぼうと口を開いた。


しかし、その声が倉庫に響き渡るより早く。

暗闇の中から、三十キロの『鉄屑の大盾』を構えたアルドが、暴走する重戦車のような速度で飛び出してきた。


「寝てろ、クソ野郎どもッ!!」


ガァァァンッッ!!!

アルドの構えた大盾の平べったい鉄板が、倒れ込んだ二人の男の顔面へと容赦なく叩きつけられた。

残酷なまでの質量。鼻骨が砕け、頭蓋にすさまじい衝撃を食らった二人の元傭兵は、白目を剥いて完全に意識を刈り取られ、ピクンと痙攣したまま動かなくなった。


制圧完了。

最初の一人が便所に立ってから、わずか十秒間の出来事だった。


「……はぁっ、はぁっ」

アルドが大盾を下ろし、気絶した男たちの手足を素早くロープで縛り上げながら荒い息を吐いた。

「すげえな、ライル。あいつ、ピクリとも声を出さずに崩れ落ちたぞ。……死んでるのか?」


「いや。延髄の運動神経と声帯だけをピンポイントで削り取った。……たぶん、一生歩くことも喋ることもできないだろうけど、息はしてるよ」

木箱の陰から歩み出てきたライルは、血濡れた左手を見つめながら、ひどく冷たい声で言った。

それは、かつての心優しい出涸らし王子の顔ではなく、目的のためならどこまでも冷酷になれる、本物の暗殺者の目だった。


「……見事な手際だ、二人とも。これでネズミの掃除は終わった」

セシルがワイヤーを巻き取りながら歩み寄り、周囲にうず高く積まれた「魔石の山」を見回した。

その右目には、隠しきれない歓喜と、商人としての底知れぬ強欲の炎が揺らめいていた。


「さあ、王宮の連中が溜め込んだこの腐った富を、すべて私たちの荷車に積み替えよう。……一つ残らず、市場(いち)の底へ叩き落としてやる」


反撃の狼煙(のろし)は、王都の地下深くで、誰にも知られることなく静かに上がった。

彼らの泥にまみれた手が、今、王国の経済支配の根幹へと深く食い込んでいく。

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