第38話:鉄と炎の投資
第38話:鉄と炎の投資
王都の最下層、石炭街。
深夜の冷え込みは容赦なく、火の落ちたスラムの路地はまるで巨大な冷凍庫のように静まり返っていた。
ギィィ……と、錆びついた蝶番が重々しい音を立てて、ガドのドワーフ工房の扉が開いた。
「……親父さん。起きてるか」
暗がりの工房内に足を踏み入れたアルドの声には、極度の疲労が滲んでいた。
炉の火はすでに落とされ、部屋の隅にある小さな火床だけが、わずかに赤い熾火を残している。その傍らの丸太椅子で、安い濁り酒の瓶を抱えたまま居眠りをしていた老ドワーフ――ガドが、鬱陶しそうに隻眼を開けた。
「あぁ……? どこの馬鹿野郎だ、こんな夜更けに……」
ガドは悪態をつきながら身を起こしかけ、ピタリと動きを止めた。
入口に立つ三人の少年の姿が、あまりにも異様だったからだ。
先頭に立つアルドの顔は泥と返り血で汚れ、肩の衣服は破れて酷い内出血を起こしている。その後ろには、同じく泥まみれで酷い悪臭を放つ黒外套の片腕の少年と、眼帯の商人が立っていた。
「お前ら……」
ガドは酒瓶を床に置き、鼻をひくつかせた。
「酷えドブと血の匂いだ。またあの森の浅瀬で、ゴブリンか何かと泥仕合でもやってきたのか。……怪我の治療なら治癒院へ行け。ここは鉄を打つ場所だぞ」
「ゴブリンじゃない。……約束通り、一番いい魔石を持って来た」
セシルがアルドの背後から進み出ると、血と泥で汚れた麻袋を、ドスンと重い音を立ててガドの目の前の金床に置いた。
無造作に結ばれた麻の紐が解かれる。
薄暗い工房の中に、ふわりと、だが強烈な熱を伴った深紅の光が満ちた。
「なっ……!?」
ガドは弾かれたように立ち上がり、金床の上のそれを覗き込んだ。
大人の拳ほどもある、一切の濁りを持たない完全な球体の結晶。表面からは脈打つような魔力の波動が陽炎のように立ち上り、周囲の凍てつく空気を一瞬にして温めている。
「……第二層の主、『アイアン・ボア』の心臓石……だと?」
ガドの太い指が、震えながらその魔石に触れた。ドワーフの職人としての本能が、これが紛れもない本物であり、しかも極めて純度の高い「特級品」であることを告げていた。
「馬鹿な。第一層の浅瀬に生息する魔獣じゃねえ。第二層の深淵に潜む、物理攻撃を一切通さねえ動く鉄塊だぞ……。お前らみたいな半端なガキ共が、どうやってこいつを……」
ガドの隻眼が、三人の装備を舐め回すように観察した。
剣の傷はない。魔法で焼き払われた痕跡もない。
アルドが背負っているあの醜悪な鉄屑の大盾の表面には、すさまじい質量の激突によってひしゃげた巨大な凹みがあった。そして、一番後ろに立つ片腕の少年の、異常なまでに皮が剥け、赤黒く腫れ上がった左手の指先。
「……盾で突進を殺し、その一瞬の隙に、眼球から脳髄だけを魔法で貫いたのか……?」
ガドは信じられないものを見る目で、ライルを凝視した。
「どんなバカげた魔力制御をしてやがる。一つ間違えれば、お前ら全員が肉塊になってたんだぞ」
「一つも間違えなかったから、僕たちは生きているんだよ、ガド」
ライルは静かに歩み寄り、金床の上の特級魔石を見下ろした。
「王宮の連中が市場から魔石を買い占めているせいで、今、この街の工房は火を落として干上がっている。この特級魔石を裏市場に流せば、軽く大金貨数十枚にはなるはずだ。ガド、あんたの工房の借金を返して、もう一度一番熱い炉に火を入れるのに十分な額だろ?」
ガドは魔石から手を離し、厳しい顔でライルを睨み返した。
「……俺にこいつを売れってのか? 悪いが、今の俺にはこれを買い取るだけの現金はねえぞ」
「売るんじゃない。投資してほしいんだ」
冷ややかな声で会話に割って入ったのは、セシルだった。彼は懐から、手書きの精緻な図面を取り出し、金床の上に広げた。
「その魔石を担保に、俺たちに『機材』を貸し付けてほしい。……必要なのは、車軸に消音用の油をたっぷりと塗り込んだ頑丈な荷車が二台。それから、王宮規格の真鍮錠を破壊するための特殊な鉄化合物の酸、分厚い鋼線、音の出ない黒鉄のワイヤーカッターだ」
図面に描かれていたのは、ただの狩りの道具ではない。どう見ても「厳重な施設に侵入し、大量の物資を強奪するための特殊工作セット」だった。
「お前ら……」
ガドの顔色が変わり、声のトーンが一段と低くなった。
「森での狩りは準備運動か。……本命は、どこだ。何を狙ってやがる」
「王都の地下下水路の先。黒鴉商会が管理する、第3秘密倉庫」
ライルが一切の感情を交えずに答えた。
「そこには、王宮の連中が市場から吸い上げた第一層・第二層の魔石が、山のように溜め込まれている。……僕たちは明日の深夜、そこの扉をぶち破って、連中が不当に溜め込んだ富をすべて奪い去る」
工房の中に、重く息苦しい沈黙が降りた。
黒鴉商会といえば、スラムを裏で牛耳る元傭兵のゴロツキ集団だ。しかもその背後に王宮の影があるとなれば、それは単なる盗賊行為ではない。国家権力への明確な反逆、すなわち「経済テロリズム」だった。
捕まれば、ただの死刑では済まない。
「……狂ってやがる」
ガドは低い声で呻き、頭を抱えた。
「あの森で死にかけただけじゃ飽き足らず、今度は自ら首を吊りに行く気か。そんな大それた真似をして、お前らガキ三人が無事で済むとでも思ってんのか!」
「無事で済ませるための、道具の調達だろうが」
アルドが一歩前に出て、真っ向から老ドワーフを睨み返した。
「親父さん。あんた、俺に言ったよな。王宮のクソったれたちが牛耳る市場を引っ掻き回す時は、一番いい魔石を持ってこいって。……俺たちは約束を守ったぜ。あとは、あんたが腹を括る番だ」
アルドの痛みに耐えて立ち続ける太もも。
セシルの左目を覆う痛々しい眼帯。
そして、ライルの力なく垂れ下がった右腕。
三ヶ月前、すべてを奪われ、絶望の中でこの工房に転がり込んできた三人の少年たちは、もうどこにもいなかった。そこにあるのは、自らの手で運命をこじ開けようとする、恐ろしく冷徹で飢えた狼の群れの目だった。
ガドはしばらくの間、三人の顔を交互に見つめ、やがてフッと息を吐いて肩の力を抜いた。
「……まったく、長生きはするもんじゃねえな。こんな頭のおかしいガキ共に、俺の命を預けるハメになるとはよ」
ガドは丸太椅子を蹴り飛ばし、金床の上の特級魔石を荒々しく掴み取った。
「そのアイアン・ボアの石、ありがたく担保として預かっておくぜ。……荷車と酸、ワイヤーカッターだな。裏の倉庫に、昔のツレが置いていった上等な『仕事道具』が埃を被ってるはずだ。今すぐ車軸に油を差してやる」
「ありがとう、親父さん」アルドがパッと顔を輝かせた。
「礼を言うのはまだ早いぞ、坊主ども」
ガドは工房の奥の棚へ向かいながら、背中越しに言った。
「相手は完全武装の元傭兵だ。しかも地下倉庫となれば、逃げ場のない閉鎖空間になる。アルドの盾で通路を塞ぎ、片腕の坊主の魔法で狙い撃ちにするつもりだろうが……乱戦になれば、必ず死角から回り込まれるぞ」
ガドは奥の木箱から、幾つかの黒い革袋と金属の筒を取り出し、セシルの前に放り投げた。
「俺からの『追加投資』だ。……中身は、砕いた屑魔石と発火草を混ぜた特製の煙玉だ。密閉空間でこいつを焚けば、数秒間は視界ゼロになる。片目の眼鏡、お前ならこの数秒をどう使うか、分かるな?」
「……ああ。最高の品だ」
セシルは革袋の中身を確認し、獰猛な笑みを浮かべた。
「敵の視界さえ奪えれば、あとは俺が事前に仕掛けるワイヤーのトラップで、奴らの足をすべて切断できる」
ガドはさらに、ライルの垂れ下がった右腕の前に立った。
そして、分厚い革と鉄の留め具で作られた『拘束具』のようなものを取り出した。
「お前、魔法を撃つ時、その動かねえ右腕に意識を持っていかれそうになってるだろ。……こいつで胴体と右腕を完全に固定しろ。そうすれば、少しは左手だけに集中しやすくなるはずだ」
「……ガド」
ライルは、その無骨だが丁寧に鞣された革の拘束具を受け取り、左手でギュッと握り締めた。
「ありがとう。必ず、この街の炉に火を戻してみせるよ」
「ふん。言っておくが、失敗して捕まっても、俺は一切関係ねえって言い張るからな」
ガドは背を向け、荷車の整備に取り掛かりながら鼻を鳴らした。
「……夜明けまであと三時間だ。お前ら、今日のところは奥の藁束で泥のように眠れ。明日の夜までに、きっちり最高の機材に仕上げておいてやる」
深夜のドワーフ工房。
冷え切っていた石炭街の片隅で、アイアン・ボアの特級魔石が放つ熱が、消えかけていた職人の魂と、三人の少年の反逆の炎を静かに、そして確実に燃え上がらせていた。
すべての準備は整った。
一日の休息を挟み、いよいよ長兄ギリウスと次兄グリードが構築した「腐敗の兵站」の心臓部へ、出涸らしの三人が牙を突き立てる。
皆様からのご意見・ご感想をお聞かせください。
誤字脱字もあればお知らせ頂くと嬉しいです。




