第37話:泥濘の勝鬨と、一撃の針
第37話:泥濘の勝鬨と、一撃の針
新月の夜。「死の洗礼」の森は、月明かりすら届かない完全な漆黒と、芯まで凍りつくような初冬の冷気に沈み込んでいた。
第一層と第二層の境界線に位置する、あの悪臭に満ちた泥濘の湿地帯。
アルドとセシルが息を潜める茂みの奥から、かすかに枯れ葉を踏む音がした。
「……遅れてごめん。城の衛兵の巡回ルートが、今日から冬期シフトに変わっていたんだ」
暗闇の中から音もなく現れたのは、黒い外套を深く被ったライルだった。
右腕はマントの下で力なく垂れ下がっているが、その足取りには一切の迷いがない。彼は左手でフードを後ろに払い、三ヶ月ぶりに同じ戦場の空気を吸い込んだ。
「相変わらず、気配を消すのだけは上手いな、お前」
アルドが暗がりでニヤリと歯を見せて笑う。
「……それにしても、ひどい臭いだね。城の肥溜めより強烈だ」
ライルは顔をしかめ、鼻を覆った。周囲にはセシルが仕掛けたドブネズミの内臓と痺れ毒草のペーストが放つ、目から涙が出るほどの悪臭が充満している。
セシルは眼帯の奥の右目を細め、かつての丁寧な口調を完全に捨て去った、冷たく平坦な声で言った。
「これこそが、生き残るための『綺麗な匂い』だ、ライル。感動の再会は後にしろ。……来るぞ。俺の撒いた悪臭を避けて、風上から『誘導路』へ入ってきた」
セシルの言葉と同時だった。
ズシン、ズシンと、遠くの地面を揺らす重い足音が響き始めた。
湿地帯の奥の暗闇から、二つの赤い眼光がぬらりと浮かび上がる。現れたのは、体長三メートルに迫る巨大な猪の魔獣――変異種『アイアン・ボア』だった。
全身を岩のように硬い剛毛と分厚い脂肪で覆い、鼻先には黒鉄のような二本の巨大な牙が突き出ている。下位の冒険者が束になって剣で斬りつけても、火の初級魔法を撃ち込んでも、毛一本焦がすことすらできない『第二層の動く城壁』だ。
アイアン・ボアは、セシルの仕掛けた悪臭に苛立ち、太い鼻息を荒く吹き鳴らしながら、唯一匂いの薄い「獣道」へと誘い込まれるように歩を進めてきた。
「……罠、起動」
セシルが手元のロープを引いた。
ボアの足元の泥が崩落し、隠されていたぬかるみが牙を剥く。
「ブゴォォォッ!?」
突如として足場を失い、膝上まで凍てつく泥に沈み込んだ巨獣が、パニックを起こして激怒の咆哮を上げた。
「計算通り、初速は死んだ。だが、あの巨体だ、泥ごと強引に突っ込んでくるぞ!」
セシルの叫びと同時に、アイアン・ボアは泥を跳ね飛ばしながら、狂ったような突進を開始した。
速度は半減している。だが、三メートルの鉄の塊が突っ込んでくるという絶望的な質量は何も変わらない。
「来い、デカブツ……!!」
アルドが茂みから飛び出し、アイアン・ボアの正面に立ちはだかった。
凍りついた泥の中に、重量三十キロを超える醜悪な大盾の下端をガツンと突き立てる。両脚を深く開き、全身の筋肉を岩のように硬直させて、大盾の裏側に自らの肉体を固定した。
次の瞬間、ボアの黒鉄の牙が、アルドの構える大盾の中央に激突した。
ガァァァァァンッッ!!!
火花が散り、空気を引き裂く金属音が森に木霊する。
「ぐ、お、ぉぉぉぉぉッッ!!」
アルドの全身の骨が軋み、肩の皮膚が弾け飛んで血が噴き出した。
両太ももの古傷が焼き切れるような激痛を発し、ブーツが泥を削りながらズルズルと十センチ、二十センチと後退する。
だが、アルドは決して倒れなかった。盾が衝撃を分散し、足元の泥が運動エネルギーを吸収する。かつての騎士の誇りを捨て、ただの『つっかえ棒』と化した三男坊の執念が、三メートルの巨獣の突進を、完全に「ゼロ」へと押さえ込んだ。
「……今だ、ライルッ!!」
血を吐きながら叫ぶアルドの背後。
完全に動きの止まったアイアン・ボアの死角から、黒い外套が翻った。
ライルだ。
距離はわずか三メートル。
盾越しにアルドを押し潰そうと力み、血走ったボアの巨大な右眼球がそこにあった。
(……右腕は、死んでいる。僕の身体は、左半分しかない)
ライルは動かない右腕の激痛を奥歯で噛み殺し、左手のひとさし指を、ボアの右目に向けて真っ直ぐに突き出した。
魔力炉から絞り出したすべての力を、無理やり左半身へ流し込む。
周囲の土の成分が指先に集束し、直径一ミリにも満たない「極細の石針」を形成する。さらにその周囲を、超高圧の『風』の魔力が螺旋状に回転しながら包み込み、不可視の銃身を作り上げた。
風と土。
王宮で最も地味だと嘲笑われた二つの魔法が、今、極限の圧縮を経て、必殺の凶器へと変貌する。
「――穿て」
ライルが、静かに左手の指先を弾いた。
無音。
爆発音も、閃光も、空気を裂く風切り音すら生じない。
だが次の瞬間、アルドの盾を押し込んでいたアイアン・ボアの巨体が、ビクンと大きく跳ねた。
ボアの右目の中央に、針の穴ほどの小さな風穴が空いていた。
『風纏いの土針』は、眼球の表面の硬い角膜を空気抵抗ゼロですり抜け、その奥にある分厚い頭蓋骨の隙間を縫って、脳髄のド真ん中を完全に貫通していた。
「ブ、ギュ……」
悲鳴を上げる間すらなかった。
脳を直接破壊されたアイアン・ボアは、すべての神経伝達を断たれ、巨大な肉の塊となって、アルドの大盾の前にドスゥンと崩れ落ちた。
完全なる沈黙が、冬の森に降りた。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
ライルは左手を抑え、膝をついて激しく咳き込んだ。口から吐き出された血が、足元の泥を赤く染める。強引な魔力制御の反動で、右肩は焼け焦げたように熱を放ち、全身が痙攣していた。
「ライル!」
アルドが大盾を放り出し、セシルと共に駆け寄る。
「……大丈夫だ。一本、撃てた……」
ライルは血まみれの口元を拭い、泥だらけの顔を上げて、二人に笑いかけた。
「……見たか。僕たちの『針』は、ちゃんと届いたぞ」
アルドは膝をついてライルの背中をさすり、セシルは息を呑んでアイアン・ボアの死骸を見下ろした。
かつて彼らを蹂躙した第二層の怪物が、一切の魔法の痕跡もなく、ただの泥まみれの死体と化している。
美しい剣技も、広範囲の華麗な魔法も、一切使っていない。泥と悪臭の罠で足場を奪い、鉄屑で動きを止め、ただ一点の急所を無音で貫いただけの、徹底的に陰湿で泥臭い狩り。
「……上出来だ」
セシルは、震える手でナイフを引き抜き、ボアの心臓の奥へと刃を突き立てた。
肉を裂き、骨を砕き、泥だらけの手で引きずり出したのは、大人の拳ほどもある、深く澄んだ紅色に輝く『第二層の特級魔石』だった。
長兄ギリウスが市場から買い占め、下町の工房を干上がらせているのと同じ、極上のエネルギーの結晶。
「……これで、最初の軍資金が手に入ったな」
セシルは、その血まみれの魔石を夜空の月明かりに透かしながら、冷たく美しい商人の顔で微笑んだ。
「ああ。こいつをガドの親父のところで換金して、荷車と工作道具を揃える。……待ってろよ、兄さんたち」
ライルは、まだ震えの止まらない左手で、自らの体を支えて立ち上がった。
「森での狩りは終わりだ。次は、王都の地下に隠された『第3倉庫』を、僕たち三人で物理的に叩き潰す」
三ヶ月間、血と泥にまみれながら研ぎ澄ませてきた彼らの牙が、ついに「王宮の経済支配」という巨大な怪物へとその切っ先を向けた瞬間だった。
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