第36話:不動の壁と、泥の罠
第36話:不動の壁と、泥の罠
初冬の鋭いみぞれが、王都の外縁を囲む「死の洗礼」の森を容赦なく打ち据えていた。
空は重苦しい鉛色に沈み、吐く息は肺の奥まで凍りつくように冷たい。かつて彼らが無惨な敗北を喫した第二層へと続く、第一層最奥の湿地帯。その薄暗い木立の中で、セシルは泥濘に両膝を突き、素手で執拗に地面をこね回していた。
「……セシル。足場の状態は、どうだ」
背後から掛けられた野太い声に、セシルは左目の眼帯を泥だらけの手の甲で押し上げながら振り返った。
そこに立っていたのは、身の丈ほどの巨大な『鉄屑の大盾』を背負い、荒い息を吐くアルドの姿だった。
「計算通りです」
セシルは立ち上がり、凍てつく泥水で手を濯ぎながら言った。
「昨日からの急激な冷え込みと、今朝のみぞれ。水飲み場周辺のこの粘土質は、表面だけが薄く凍り、その下は足首まで沈み込む最悪の『底なし沼』に仕上がっています。……それに加えて、私が仕込んだ『細工』も馴染んできた頃合いです」
セシルの視線の先には、獣道からこの開けた湿地へと続く狭い経路があった。
その両脇の立ち木や、足元のぬかるみには、スラムの廃墟からかき集めてきた『ドブネズミの内臓』と、第一層に自生する『痺れ毒草』をすり潰した赤黒いペーストが、これでもかと塗りたくられている。
鼻の粘膜を焼き切るような猛烈な刺激臭と、胃酸が逆流しそうになる腐敗臭。
かつては大商会の跡取りとして、香の焚き染められた清潔な衣服をまとっていたセシルが、自ら進んでこの悪臭を素手で塗り広げたのだ。すべては、嗅覚の鋭い変異種の魔獣を、絶対にこの『底なし沼』へと誘導し、その凶悪な突進スピードを強制的に殺すためである。
「……親父さんの工房からここまで、その鉄屑を運んでくるだけでも一苦労だったでしょう」
セシルは、アルドの足元にドスンと下ろされた大盾を見て言った。
「ああ。肩の骨が軋んで、ぶっ倒れるかと思ったぜ」
アルドは皮肉げに笑いながら、肩に食い込んでいた極太の鎖を外し、痛む両太ももを乱暴に叩いた。
「だが、これでいい。軽くて取り回しのいい盾なんて、もう俺には必要ねえんだ。どんな化け物が突っ込んできても、絶対に後ろに吹っ飛ばされない『重さ』だけがあればいい」
アルドの眼前にあるのは、ガドの工房で生み出された後も、二人がかりで幾度も補強を重ねた異形の盾だった。
ベースは荷馬車の分厚い底板。そこに黒鉄の鎖帷子の残骸、廃品となった魔導炉の隔壁、折れた農具の刃先などが、狂気的な数の鉄鋲で打ち付けられている。重量は優に三十キロを超え、もはや防具というよりは「持ち運び可能な鉄の城壁」と呼ぶべき代物だった。
「明日の夜、ライルが合流する」
アルドは真顔に戻り、みぞれの降る灰色の空を見上げた。
「あいつは王宮という名の見えない戦場で、片腕の激痛に耐えながら『左手の針』を限界まで研ぎ澄ましてくるはずだ。……だから俺たちは、あいつが放つたった一発の針を、確実に敵の急所にブチ込むための『盤石の舞台』を今日ここで完成させなきゃならねえ」
「ええ。そのための、最終テストです」
セシルは懐から、一冊の手帳を取り出した。
かつて美しい確率論と幾何学模様が並んでいたその手帳は、今や泥と血と脂で汚れ、スラムのゴロツキから買った「汚い経験則」と「生存のための殺し方」で真っ黒に埋め尽くされている。
「仮想標的は、この周辺を縄張りにする第一層と第二層の境界の主――変異種の『アイアン・ボア』、あるいは『シャドウ・ウルフの群れ』。どちらが来ても、まともにぶつかれば私たちの体は一瞬で挽肉になります」
セシルは手帳のページを開き、周囲の木々の頭上を指差した。
アルドが見上げると、そこにはセシルが数日かけて滑車とロープを使い、斜面の高台へと吊り上げておいた『数百キロの巨大な丸太』が固定されていた。
「相手の体重と突進速度から割り出した、最大の運動エネルギー。それを物理的に再現したのが、あの重りの丸太です」
セシルは冷徹な目でアルドを見た。
「私がロープを切断すれば、丸太は振り子の要領で斜面を下り、寸分の狂いもなくあなたの構える盾の中央を直撃します。……アルド。あなたのその大盾と両脚が、本当に計算通りに敵の突進を殺し切れるか。もしここで耐えられなければ、明日の実戦では全員が死にます」
「上等だ。……やってみろ、セシル」
アルドは短く吠えると、大盾の裏側にある二つの無骨な取っ手を両手で力任せに握り締めた。
ガツンッ! と、盾の分厚い下端を、凍りついた泥の中に深く、深く突き立てる。
肩幅の倍以上に両脚を開き、森狼に抉られた両太ももの古傷が悲鳴を上げるのを無視して、腰を極限まで落とす。己の筋力で弾き返すのではない。己の肉体すべてを『つっかえ棒』にして、盾の重量ごと大地と一体化するのだ。
「……構えましたね。行きます。罠の起動、三秒前」
セシルが短くナイフを引き抜き、手元のロープに刃を当てた。
「二、一……ゼロ」
パァンッ!! と、張り詰めていたロープが弾け飛ぶ破裂音が森に響いた。
次の瞬間、上空の枝葉をへし折りながら、巨大な丸太が凄まじい風切り音を立てて斜面を滑空してくる。
迫り来る圧倒的な質量。黒い影がアルドの視界を完全に覆い尽くす。
「……来ォォォォォイッッ!!」
アルドは逃げなかった。目を見開き、全身の筋肉を鋼のように硬直させる。
ドゴォォォォォォォンッッ!!!
湿地帯全体が爆発したかのような、すさまじい轟音が響き渡った。
丸太の直撃を受けた大盾から、金属と木材が激突する生々しい衝撃波が周囲の枯れ葉と泥水を放射状に吹き飛ばす。
「ぐ、がぁぁぁぁぁぁっ!?」
アルドの肉体を、トラックに撥ねられたかのような暴威が突き抜けた。
肩の骨がメキメキと軋み、鎖骨周辺の毛細血管が圧力で弾ける。両太ももの古傷の奥で、癒着しかけていた筋肉が引き千切れそうに悲鳴を上げた。喉の奥から鉄錆のような血の味がこみ上げ、視界が真っ赤に染まる。
(退くか……! 退いてたまるか……ッ!!)
アルドのブーツが、足元の凍りついた泥をメリメリと削りながら数センチ後退した。
だが、そこまでだった。
泥濘の奥にある固い岩盤にブーツの踵が食い込み、盾の下端が丸太の運動エネルギーの大部分を真下の地面へと逃がす。
「おおおおぉぉぉぉッッ!!」
アルドが血の混じった咆哮を上げ、最後の力で大盾を押しとどめる。
ギィィ……と嫌な音を立てて、ついに丸太はその勢いを完全に殺され、ゴロゴロと無様にアルドの足元へと転がり落ちた。
「……はぁっ……、はぁっ……、ごほっ、げほっ……!」
アルドは大盾の縁に額を打ち付け、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、大量の白い息を吐き出した。
全身の筋肉が痙攣し、両腕の感覚は麻痺して使い物にならない。
だが、彼は倒れなかった。大盾は、最初に突き立てた位置からわずか十センチしか後退していなかった。
「……アルド!」
セシルが駆け寄り、盾の表面の凹みと、足元の泥の削れ具合を素早く手帳と照らし合わせる。
その残された右目が、驚愕と、そして狂気的な歓喜に見開かれた。
「衝撃の減衰、および完全停止までの時間……計算以上の数値です。いかなる変異種が突っ込んできても、これなら最初の数秒間、完全にその場で敵を『静止』させることができる……!」
「……へっ、へへっ。当たり前、だ」
アルドは口の端から垂れる血を手の甲で拭い、息も絶え絶えに獰猛な笑みを浮かべた。
「俺が壁になって止める。お前が罠で絡め捕る。……あとは、あの王宮にいる一番イカれた出涸らしが、止まった的のド真ん中に針をブチ込むだけだ」
セシルもまた、泥にまみれた手帳を強く握り締め、冷酷に笑った。
「ええ。明日の夜、この森で証明してやりましょう。……泥を舐めた出涸らしが、どれほど陰湿で恐ろしい狩りをするのかを」
冷たいみぞれが降り続く冬の森。
しかし、大盾を挟んで立つ二人の少年の瞳の奥には、どんな吹雪にも消されることのない、暗く熱い反逆の炎が確かに燃え上がっていた。
三ヶ月の地獄のような雌伏を経て。
明日、三つの歪な牙が、ついに一つの「殺意」として再集結する。
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