第35話:左手の針
第35話:左手の針
深夜の王城、西翼の最奥にある第三王子の離宮。
暖炉の火もとっくに落ち、吐く息が白く濁るほど冷え切った私室の床に、ライルは上半身裸で膝をついていた。
目の前の古い木机の上には、庭から拾ってきた拳大の「乾いた土くれ」が一つ置かれている。
距離はわずか三メートル。
「……ふぅっ……、すぅっ……」
ライルは目を閉じ、荒い呼吸を必死に整えた。
問題なのは、魔力の総量ではない。人間が魔力を練り上げる際、心臓に近い胸の『魔力炉』から発生した魔力は、本来であれば左右の腕の回路へと均等に枝分かれして流れ出す。それが人体の自然な構造だ。
だが、今のライルの右腕の魔力回路は、森狼の群れの前で無理やり無詠唱魔法を暴発させたせいで、肩口から指先まで完全に焼き切れ、癒着してしまっている。
もし無意識のうちにこれまで通り魔力を練れば、行き場を失った魔力の半分が右肩の行き止まりに激突し、焼け焦げた神経を内部から引き裂く激痛となって暴発するのだ。
だからこそ、ライルがこの二ヶ月間、毎晩血を吐く思いで繰り返してきたのは、魔力炉から湧き出た魔力のすべてを、意識の力だけで強引に「左半身だけ」へとねじ曲げて流し込むという、人体の摂理に逆らう異常な制御訓練だった。
(右腕は、死んだ肉だ。……そこにあると思うな。切り離せ。僕の身体は、最初から左半分しかない……!)
ライルは奥歯を強く噛み締め、垂れ下がった右腕の肩口を、自分の顎で強く押さえつけた。
そして、机の上の土くれに向けて、左手のひとさし指だけを真っ直ぐに突き出す。
ドクン、と胸の奥で魔力が跳ねた。
その瞬間。
「――ッ、ぐ、あぁぁぁっ!!」
意識の壁をすり抜けたほんのわずかな魔力の奔流が、右肩の壊死した回路へと流れ込んだ。
まるで真っ赤に焼けた鉄の杭を鎖骨の奥に打ち込まれたかのような、白熱の激痛。視界が一瞬で真っ白に染まり、ライルは声にならない悲鳴を押し殺しながら床の上に転倒した。
ゴホッ、と咳き込んだ拍子に、口の中から生温かい鉄の味が溢れ出し、絨毯の上に赤い血の滴が落ちる。
集めかけていた左手の『風』の魔力は制御を失って霧散し、部屋のカーテンを揺らしただけで消え去った。
「はぁっ……はぁっ……、く、そ……っ」
ライルは冷たい床に額をこすりつけ、全身を痙攣させながら激痛の波が引くのを待った。
痛覚。
かつて王宮の清潔な訓練場で、家庭教師から「魔力の扱いが丁寧ですね」と褒められていた頃には決して知ることのなかった、肉体が壊れる生々しい感覚。
あの森の底でアルドが両脚の肉を噛み千切られた時も、セシルが血まみれの顔で泥の中を這いずった時も、彼らはこれほどの痛みのなかにいたのだ。
(……こんな程度で、気を失ってたまるか)
ライルは震える左手で床を叩き、這うようにして再び身を起こした。
脇に置いてあった革ベルトを口で咥え、左手を使って、自分の右腕を胴体へとぐるぐる巻きにしてきつく縛り上げた。少しでも右腕が揺れれば、そこに意識が向いて魔力が漏れる。完全に肉体の一部としての感覚を殺すための、荒療治だった。
さらにライルは、自分の左手の親指の爪を、同じ左手のひとさし指の腹に深く食い込ませた。
プツリ、と皮膚が裂け、赤い血が滲む。
「……よし。痛いのは、左手の指先だけだ」
右肩の激痛を、左手の指先の鋭い痛みで上書きする。
狂気じみた集中力で、ライルは再び机の上の土くれを睨みつけた。
かつてのライルが得意としていたのは、周囲一帯の空気を撫でるような広範囲の『風』と、地面全体を柔らかくする『土』の補助魔法だった。
優しく、広く、誰も傷つけない出涸らしの魔法。
(あんなものは、もういらない)
ライルは左手の指先に、滲んだ血の痛みを道標にして、胸の魔力を一滴ずつ絞り出すように集めていった。
右肩が熱を持つ。神経が悲鳴を上げ始める。
だが、ライルは目を血走らせ、その痛みを完全に無視して、すべての魔力を左手のひとさし指の先端――直径わずか一ミリにも満たない極小の空間へと圧縮し続けた。
まず、核となるのは『土』の魔力だ。
地面を泥に変えるような柔らかい干渉ではない。空気中に舞う微細な砂塵と、自身の指先についたわずかな土の成分を、超高密度の魔力で押し固め、一本の極細の「石の針」を成形する。
ギチチチ……と、ライルの左手の指先の骨が、魔力の過度な圧縮に耐えかねて不気味な音を立てた。
爪の間から血が吹き出す。だが、まだ足りない。ただの石の針では、第二層の変異種の分厚い毛皮や頭蓋骨は貫けない。
(もっと細く。もっと硬く。……そして、その周りに『風』を巻く!)
ライルは、限界まで圧縮した一ミリの土の針の周囲に、今度は『風』の魔力を螺旋状に高速回転させながら纏わせた。
風を広げて壁にするのではない。針の先端の空気抵抗を完全にゼロにし、同時に後方から超高圧の空気の塊で弾き出す、不可視の「銃身」を作るのだ。
風と土。
王宮で「最も地味で殺傷力のない外れ属性」と笑われ続けた二つの力が、片腕を失った少年の執念によって、ただ一点の命を確実に奪うためだけの凶器へと変貌していく。
「……っ、穿て」
ライルが短く息を吐き、左手の指先をわずかに弾いた。
ヒュッ――とすら、音は鳴らなかった。
空気を切り裂く摩擦音すら発生しないほど細く研ぎ澄まされた、不可視の『風纏いの土針』。
次の瞬間。
三メートル先の机の上に置かれていた乾いた土くれが、まるで最初からそこに穴が空いていたかのように、中心に直径二ミリの完璧な真円の風穴を空けていた。
土くれは砕け散ることすらせず、そのさらに後ろにあった分厚い樫の木の壁に、深さ五センチにも及ぶ鋭い穴が穿たれている。
完全なる無音。
完全なる一点突破。
「……はぁっ……、はぁっ……!」
ライルはそのまま前のめりに床へと倒れ込み、冷たい絨毯の上で荒い息を繰り返した。
左手のひとさし指は真っ赤に腫れ上がり、右肩の奥では相変わらず鈍痛が暴れ回っている。連発など到底できない。今の魔力制御では、一日に三発、いや、実戦の極限状態では「二発」撃つのが限界だろう。
しかも、銃身となる風の軌道を維持できる有効射程は、せいぜい十メートル。
それ以上離れれば針は空気の抵抗に負けて霧散するし、何より、動いている標的の急所(眼球や鼻腔などの柔らかい一点)にこの一ミリの針を当てることなど、通常の戦闘では絶対に不可能だ。
「……ふ、ふふっ……」
床に突っ伏したまま、ライルの喉の奥から、低く乾いた笑いが漏れた。
(一人で戦うなら、こんな欠陥だらけの魔法、何の役にも立たない。……でも、僕にはあいつらがいる)
セシルが、泥と毒草の罠で獲物の逃げ場を完全に塞ぎ、その頭の位置を数センチの狂いもなく誘導する。
アルドが、あの鉄屑の大盾で獲物の突進を正面から受け止め、その動きを数秒間、完全に「ゼロ」にして固定する。
そして、その完全に静止した獣の眼球のすぐ目の前に、ライルがこの左手の『針』を突きつけるのだ。
(届く。……これなら、どんな化け物の頭蓋骨だって、確実に脳髄まで貫ける!)
派手な炎で森を焼き払う長兄ギリウスの魔法とは、対極にある力。
誰の目にも留まらず、音すら立てず、ただ泥の中に引きずり込んだ獲物の急所だけを冷酷に突き刺す、暗殺者のごとき一撃。
ライルは、血と煤で汚れた自分の左手を、顔の前に持ち上げて見つめた。
かつて、美しい王宮の図書室で、英雄譚のページをめくっていた白く綺麗な王子の手は、もうどこにもない。
爪は割れ、指先はタコと火傷の跡で歪み、泥と血の匂いが染み付いた、正真正銘「下層の狩人」の手がそこにあった。
窓の外を見れば、いつの間にか暗い夜空から、白い雪のような冷たいみぞれが降り始めていた。
あの悪夢のような敗北の日から、明日でちょうど三ヶ月が経つ。
「……お待たせ、アルド、セシル」
ライルは縛り上げていた右腕の革ベルトを歯で食い千切るようにして解き、痛む身体を引きずって立ち上がった。
傷は癒えきってはいない。失ったものは何一つ戻ってはこない。
それでも、出涸らしの少年たちが泥の底で研ぎ澄ました「三つの歪な牙」は、今、確実に一つの形となろうとしていた。
ライルの「風と土のみ」という適性を極限まで圧縮し、他の二人のサポート(罠と固定)があって初めて成立する、最高に泥臭く冷徹な必殺技『左手の針』の完成を描きました。
皆様からのご意見・ご感想をお聞かせください。
誤字脱字もあればお知らせ頂くと嬉しいです。




