第34話:点と線、王宮の兵站
第34話:点と線、王宮の兵站
森での敗北から二ヶ月が経過した。
王都の街路樹は完全に葉を落とし、吹き抜ける風には冬の足音が混じり始めていた。
王立貴族学園、旧校舎の三階にある『古文書資料室』。
カビと古い紙の匂いが立ち込めるその薄暗い部屋は、華やかな社交や魔法の実技に夢中な貴族の生徒たちが決して寄り付かない「死角」だった。
「……これが、先月分の王宮から各御用商会への発注控えだ。そしてこっちが、僕が夜の納屋で見つけた、荷馬車の実際の出入り記録だよ」
部屋の最奥、埃を被った巨大な書架の陰で、ライルは制服の懐から数枚の羊皮紙を取り出し、古い木机の上に広げた。
向かいに座るセシルは、左目の黒い眼帯の奥をわずかに細め、残された右目でその歪な左手の文字を食い入るように見つめた。
学園内での短い昼休み。
以前は教本の間にメモを挟んでやり取りしていた二人だったが、情報が膨大になるにつれ、こうして週に一度、誰も来ない資料室の奥で直接「点と線」を繋ぎ合わせるようになっていた。
「……異常ですね」
セシルは、自分の懐から取り出した油まみれの黒い手帳と、ライルの羊皮紙を見比べながら低く呟いた。
「ライルの盗み出した王宮の帳簿では、長兄ギリウス殿下の派閥が『建国祭の軍事演習用』として、第二層の良質な魔石を毎月三千個ペースで買い上げています。……ですが、私がスラムの荷運び人足たちから買い集めた『実際に城門をくぐった荷馬車の重量データ』と照らし合わせると、城の中に入っている魔石は、どう見積もってもその半分にも満たない」
「ああ。僕もそこがおかしいと思って、城の魔導炉の管理記録を調べたんだ」
ライルは、震える左手の指先で羊皮紙の一点をトントンと叩いた。
「使用人たちは『ギリウス兄さんが演習のために魔石を接収したせいで暖炉が使えない』と嘆いていた。でも、実際の演習場で消費された魔石の量は、例年とほとんど変わっていなかったんだ。……つまり、ギリウス兄さんとグリード兄さんは、演習や備蓄を口実にして市場から大量の魔石を吸い上げながら、その大半を『王城ではないどこか』に隠している」
「価格を意図的に吊り上げるための、不当な隠匿と流通止め……ですね」
セシルの声に、商人としての冷徹な怒りが滲んだ。
「市場から魔石が消えれば、石炭街の工房は高値でグリード殿下の商会から魔石を買うか、借金のカタに工房を差し出すしかなくなる。……ですが、これほど大量の魔石を、一体どこに溜め込んでいるのでしょうか。コルベット商会の正規の倉庫には、そのような動きはありませんでした」
「正規の倉庫なんかに入れたら、他の貴族やギルドの監査に気づかれるからね。……だから、僕は『匂い』と『土』を追ったんだ」
ライルは別の羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。
そこに描かれていたのは、王都の地下を網の目のように走る『旧下水路』と、下町の外れにある『放棄された旧下水処理場』の粗雑な地図だった。
「一週間前の夜、グリード兄さんの監査官の部屋から出てきた荷馬車を、城の裏手から追いかけてみたんだ」
ライルは、いまだに鈍痛のくすぶる右腕を左手でさすりながら言った。
「今の僕の魔力回路じゃ、広範囲の索敵はできない。十メートル先の気配すらノイズだらけだ。……だから、僕は自分の左手だけで、地面の『土』と空気の『風』に直接触れた」
かつてのライルは、立ったまま魔力の波紋を広げ、レーダーのように周囲の状況を綺麗に把握していた。
だが今の彼は、夜の冷たい石畳に這いつくばり、左手のひらを地面にべったりと押し当てて、土の魔力を通じて伝わる「重い荷馬車の車輪の振動」を直接感じ取ったのだ。さらに、微かな風の魔法で地面スレスレの空気を吸い寄せ、荷馬車からこぼれ落ちる「魔石特有のオゾンに似た匂い」と「下水のドブの匂い」を自分の鼻で嗅ぎ分けた。
魔法使いというよりは、まるで獲物の足跡を追う猟犬のような、泥臭く原始的な追跡方法だった。
「荷馬車の轍は、通常よりも三センチ以上深く土にめり込んでいた。中身は空なんかじゃない、鉛や魔石がぎっしり詰まった重さだ」
ライルの瞳が、薄暗い資料室の中で冷たく光った。
「そして、その荷馬車の車輪についた泥の成分は、王都の北東――今は使われていない『旧下水処理場』の周辺の粘土と完全に一致した。あそこには、グリード兄さんの息のかかった『黒鴉商会』というダミーの運送屋が所有する、古い地下倉庫がある」
セシルは息を呑み、手帳のページを素早くめくった。
「黒鴉商会……! 知っています。表向きはスラムの廃棄物を処理する零細の商会ですが、構成員はすべて元傭兵や荒くれ者のゴロツキばかりだと聞きます。なるほど、あそこならギルドの目も届かず、力ずくで秘密を守れる……!」
点と線が、完全に一つの「絵」として繋がった瞬間だった。
兄たちが市場から不当に吸い上げた大量の第一層・第二層の魔石。
それは、旧下水処理場の地下にある『黒鴉商会の第3秘密倉庫』に運び込まれ、下町の工房が完全に干上がるその日まで、厳重に封印されているのだ。
「セシル。その第3倉庫の警備体制と、周辺の環境データは取れるか?」
「……ええ、もちろんです。場所さえ特定できれば、あとは私の仕事です」
セシルは羽ペンを握り、地図の上の旧下水処理場に赤い丸をつけた。
「下水路の構造、交代時間、連中が飲んでいる酒の種類、そして倉庫の扉の蝶番の錆び具合まで……一週間以内にすべて裸にしてみせます。……ですが、ライル様」
セシルはペンを止め、ライルの垂れ下がったままの右腕へと視線を向けた。
「あそこを襲撃して魔石の流通をこじ開けるとしても、相手は武装した元傭兵たちです。それに、作戦を実行するための最低限の『罠の資材』や『運搬用の荷車』を手配するための初期資金すら、今の私たちにはありません。まずは森で獲物を狩り、確実な軍資金を作る必要がありますが……あなたのお身体は、戦える状態なのですか?」
核心を突く問いだった。
アルドの脚は、ガドの工房での過酷な労働とリハビリによって、走ることはできなくとも「大盾を支えて立ち続ける」だけの強靭さを取り戻しつつある。
セシルの目も、片目での距離感に慣れ、以前とは比較にならないほど陰湿で正確な罠の構築が可能になった。
残る最大の懸念は、攻撃の要であるライルの魔法だった。
「……右腕は、たぶん一生このままかもしれない」
ライルは、自嘲することもなく、ただ事実として淡々と告げた。
「少しでも魔力を右半身に流そうとすると、焼けた回路が暴発して、立っていられないほどの激痛が走る。以前のように、風で森全体の気配を読んだり、広範囲に土煙を巻き上げたりすることは、もう二度とできないよ」
資料室に、重い沈黙が落ちた。
だが、ライルはすぐに顔を上げ、左手のひらをセシルの目の前に突き出した。
その左手は、ピッキングの特訓と毎晩の酷使によって皮が剥け、王族とは思えないほど無骨なタコと傷跡で覆われていた。
「でもね、セシル。……使えない右腕を切り捨てて、左手だけに『風』と『土』の魔力を集めるやり方が、ようやく掴めてきたんだ」
ライルの声には、悲壮感ではなく、どこか狂気じみた静かな熱がこもっていた。
「アルドが盾で敵の足を完全に止めてくれるなら、広範囲の魔法なんていらない。セシルが罠で敵の頭の位置を数センチ単位で誘導してくれるなら、派手な爆発なんて必要ない。……ただ、止まった標的の『一点』だけを確実に貫く針があれば、それでいいんだ」
「……一点だけを貫く、針」
「ああ。あと一ヶ月……冬の風が本格的に吹き始める頃には、必ず実戦で使えるレベルにまで完成させる」
ライルは机の上の地図を折りたたみ、立ち上がった。
「三ヶ月だ。あの森で泥を舐めたあの日から、ちょうど三ヶ月後の新月の夜。……僕たちはもう一度、森へ入る。そこで軍資金を稼ぎ出し、兄さんたちの腐った倉庫の扉をこじ開けるんだ」
「……承知いたしました」
セシルもまた静かに立ち上がり、泥と油で汚れた手帳を胸に抱いて深く一礼した。
「あなたがその『針』を研ぎ澄ましている間に、私は獲物を確実に針の先へと縫い止めるための『蜘蛛の巣』を完成させておきます」
二人は短い視線を交わし、時間差をつけて古文書資料室を後にした。
廊下に出ると、窓の外では華やかな衣装を着た貴族の生徒たちが、来月に迫った『建国祭』の舞踏会の話題で盛り上がっていた。
誰一人として、すぐ横を通り過ぎた「出涸らしの第三王子」と「片目の落ちこぼれ商人」が、この国の王位継承権争いの根幹を揺るがす、極めて危険な経済テロリズムの設計図を懐に抱いていることなど知る由もない。
ライルは右腕の鈍痛を奥歯で噛み殺しながら、一人、冷たい石造りの階段を降りていった。
情報が揃い、標的は定まった。
あとは、この左手一本で、己の肉体という最大の障害をねじ伏せるだけだ。
皆様からのご意見・ご感想をお聞かせください。
誤字脱字もあればお知らせ頂くと嬉しいです。




