第33話:泥を舐める商人
第33話:泥を舐める商人
王都の中央大通りに面した、白亜の三階建ての豪奢な店舗。
王国内の繊維と穀物の流通の三割を牛耳る大商会『コルベット商会』の本店である。
その奥にある冷え冷えとした執務室で、セシルは分厚い帳簿の束を前に、羽ペンを走らせていた。
左目を覆う黒い眼帯の奥が、じくじくと鈍く疼いている。一ヶ月前の森での敗走の際、木の枝で深く裂いた傷と強い脳震盪の後遺症で、今も視界の距離感は狂ったままだ。少し長く文字を追うだけで、激しい偏頭痛と吐き気がこみ上げてくる。
「……セシル。貴様、この『石炭街向け魔石卸値』の試算表だが、計算が甘いのではないか?」
執務机の向かい側から、氷のように冷たい声が飛んできた。
帳簿を検分していたのは、セシルの父でありコルベット商会の現会頭、そしてその隣に立つ長兄だった。
「現在は長兄のギリウス殿下、および次兄のグリード殿下の双方から、魔石の買い占めに関する特別融資が下りている。下町の独立工房どもに卸す価格は、ここからさらに四割引き上げても連中は買わざるを得ない。……商売とはな、相手の喉元が渇ききった時に、一番高い水を売りつけるものだ」
父の言葉に、長兄も嘲笑うように頷いた。
「まったく、階段から落ちて片目を潰してからというもの、お前の持ち込む数字からはすっかり『牙』が抜けたな、セシル。以前はもっと冷酷で、美しい確率論を弾き出していたというのに。……そんな生ぬるい算盤を弾いているようでは、商会の支店一つすら任せられんぞ」
「……申し訳ありません、父上、兄上。すぐに修正いたします」
セシルは感情の一切を消した能面のような顔で、深く頭を下げた。
美しい確率論。
父と兄が褒めそやすその「机上の計算」こそが、一ヶ月前、あの第二層の深淵で自分たちを死の淵へと叩き落とした元凶だった。
安全な部屋で、インクと羊皮紙の上だけで弾き出した数字には、「匂い」も「温度」も「泥の深さ」もない。
父たちは、魔石の価格を四割引き上げれば、帳簿上の利益がそのまま四割増えると信じ込んでいる。その数字の裏で、ガドのような職人たちが炉の火を奪われて首を括り、下層の冒険者たちが無謀な狩りに駆り出されて森の獣の餌になっているという「現場の血の匂い」を、何一つ計算に入れていないのだ。
(……かつての私も、同じだった)
セシルは帳簿を引き寄せながら、机の下で左手を強く握り締めた。
『十秒ルール』。風向きと魔力波紋だけで森を完全にコントロールできると思い上がった、あの傲慢で脆弱なシステム。
あの日、砕け散った眼鏡の破片と共に、セシルの「綺麗な商人としてのプライド」は完全に死んでいた。
夕刻。商会の仕事を終えたセシルは、裏口から抜け出すと、セシル自身が偽名で借りている安アパートの「秘密の着替え部屋」へと向かった。
かつて、この殺風景な四角い部屋は、彼らが第二層で稼ぎ出した純銀貨の箱や、予備の黒鉄の装備、特級ポーションの空き瓶などで足の踏み場もないほど満たされていた。
だが今は、治療費と借金の返済のために換金できるものはすべて売り払い、部屋には傷だらけの古い木机が一つポツンと置かれているだけだ。振り出しどころか、マイナスからの再出発を象徴するような、空っぽの空間。
セシルはそこで高級なウールの服を脱ぎ捨て、泥と脂で汚れたボロボロの平民服に着替えた。頭には古びた布帽を目深く被り、黒革の眼帯の上から、さらに薄汚れた包帯を無造作に巻きつける。
そのまま部屋を出て向かったのは、王都の最底辺――濁ったドブ川が流れるスラム街と、魔物の森の第一層入り口に隣接する「日雇い冒険者たちの吹き溜まり」だった。
「……おい、片目のガキ。また来たのかよ」
潰れかけた安酒場の裏手。焚き火を囲んで安物の濁り酒をあおっていた数人の下層冒険者たちが、暗がりから現れたセシルを見て下卑た笑いを浮かべた。
彼らの装備は錆びついた鉄剣や継ぎ接ぎの革鎧ばかりで、体中から安い酒と汗、そして森の泥と獣の血が混ざり合った強烈な悪臭を放っている。
かつてのセシルなら、ハンカチで鼻を押さえて十メートル手前で引き返していたであろう場所。
だが今のセシルは、躊躇うことなくその悪臭の輪の中へと歩み寄り、泥水でぬかるんだ地面にそのまま膝をついて座り込んだ。
「ガルスさん。昨日の夕方、北西の境界線付近で雨が降った後の『泥の具合』を教えてほしい」
セシルは懐から、自分が昼食を抜いて浮かせた数枚の「銅貨」を取り出し、焚き火の横に置いた。
「あぁ? 泥の具合だと?」
顔に深い刀傷のある男――ガルスが、銅貨をひったくるように掴み取り、怪訝そうに眉をひそめた。
「お前、ここ半月ほど毎日来ては、そんなクソみてえなことばっかり聞いていくよな。どこそこの魔獣のフンの匂いがどうだとか、腐った肉を置いたら何分で狼が集まるだとか……そんなもん聞いてどうする気だ?」
「私のパーティは、弱いからです」
セシルは、残された右目で焚き火の炎をじっと見つめながら、淡々と言った。
「腕が立つあなたたちのように、正面から剣を振るって魔獣と戦えば、すぐに死んでしまう。だから、森の泥の深さも、風が運ぶ腐肉の匂いも、獣が足を滑らせる苔の生え方も……そこにある汚いものを全部使って、敵をハメ殺すしかないんです」
一瞬、酒場の裏手に奇妙な沈黙が落ちた。
下層冒険者たちは顔を見合わせ、やがてガルスが「ハッ!」と鼻を鳴らして酒瓶を煽った。
「……気に入ったぜ、坊主。ギルドの綺麗な受付嬢や、上層部の貴族どもは、俺たちがどうやって泥水すすって生きてるかなんて見向きもしねえからな」
ガルスは焚き火の枝を拾い、地面の泥の上に乱暴な地図を描き始めた。
「いいか、北西の境界線にある水飲み場の周りはな、粘土質で一番タチが悪い。昨日の雨で、今頃はくるぶしの上まで完全に足が沈む『底なし沼』になってるはずだ。あそこに大角猪や森狼を追い込めば、奴らの重い体重が仇になって、突進のスピードは半分以下に落ちる。……だがな、風向きには気をつけろよ。あそこは谷間だから、夕方は風が巻く。自分の匂いが獣に回っちまうぞ」
「匂いを消すには、どうすれば?」
「一番手っ取り早いのは、第一層のドブネズミの内臓と、そこに生えてる『痺れ毒草』をすり潰して、自分の鎧と風上の木に塗りたくることだ。鼻がひん曲がるほど臭えが、魔獣どもはそれを嫌がって絶対に風下へ逃げる。俺たちが獲物を罠に追い込む時の、一番汚えやり方さ」
セシルは懐から、泥と油で黒く汚れた分厚い手帳を取り出し、ガルスの言葉を狂ったような速度で書き留めていった。
美しい数式など、そこには一行もない。
『北西水飲み場:雨天翌日の泥濘深度、約十五センチ。中型魔獣の初速減衰率、推定五十パーセント以上』
『ドブネズミの内臓+痺れ毒草の混合液:嗅覚攪乱および強制誘導に有効。ただし、使用者の視界・呼吸器への悪影響あり』
それは、命の保証もない底辺の狩人たちが、何十人もの仲間の死体と引き換えに身につけた「生き残るための泥臭い経験則」の結晶だった。
「……ありがとうございます。もう一つだけ。その痺れ毒草は、どこに行けば一番効率よく採れますか?」
「あ? なんだ、買う金もねえのか。……それなら、第一層の入り口のすぐ脇にある、死体捨て場になってる古い肥溜めの跡地だ。あそこならタダで腐るほど生えてるぜ」
セシルは短く礼を言うと、立ち上がり、そのまま夜の第一層の入り口へと向かった。
一時間後。
月の光すら届かない第一層最浅部の、鼻を突く悪臭が立ち込める窪地。
セシルはそこに這いつくばり、素手で泥の中を掻き回して、赤黒い葉をつけた『痺れ毒草』をむしり取っていた。
「……っ、げほっ……! う、ぇ……っ」
腐敗した汚物と獣の死骸が混ざり合った泥の臭いに、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。
毒草のトゲが指先に刺さり、皮膚が赤く腫れ上がってジンジンと痺れ始めた。片目しか見えないせいで距離感が掴めず、何度もぬかるみに顔面から突っ込みそうになる。
大商会の跡取り息子として、清潔なシーツの上で育ったセシルにとって、それは文字通り「地獄」のような作業だった。
だが、セシルは泥にまみれた手で口元を拭い、吐き気を無理やり飲み込んで、麻袋の中に毒草と、近くに転がっていたドブネズミの死骸を詰め込み続けた。
(……吐くな。手を止めるな)
脳裏に浮かぶのは、あの夜、自分の計算ミスで両脚の肉を抉られながら、それでも自分を背負って走ったアルドの背中。
そして、右腕の魔力回路を焼き切ってまで、自分たちの命を繋ぎ止めたライルの絶叫。
(ライルは今、王宮という怪物の腹の中で、たった一人で兄君たちの情報網と戦っている。アルドは、あの重い鉄屑を背負って、血を吐きながら立ち続けている)
それに比べれば、泥を舐めることなど、ドブの悪臭にまみれることなど、何だというのか。
(私は、軍師だ。……綺麗事を並べて仲間を死なせる無能な貴族の軍師じゃない。泥の深さを知り、毒の匂いを嗅ぎ分け、敵の足首を確実にへし折って、二人を絶対に無傷で勝たせるための……『ドブネズミの軍師』だ!)
セシルは、泥だらけになった自分の指先で、採取したばかりの毒草の葉を強くすり潰した。
鼻腔を焼くような猛烈な刺激臭が立ち昇る。
その悪臭の中で、セシルの残された右目が、暗闇の中でギラリと冷酷な光を放った。
王宮の兄たちが、綺麗な部屋で算盤を弾いている間に。
森の獣たちが、自らの強靭な肉体を誇っている間に。
彼ら全員を底なしの泥沼へと引きずり込むための「最も陰湿で、最も確実な罠」の設計図が、セシルの頭の中で着実に組み上がりつつあった。
皆様からのご意見・ご感想をお聞かせください。
誤字脱字もあればお知らせ頂くと嬉しいです。




