第32話:鉄屑の城壁と、鞴(ふいご)の火
乾いた秋の朝日が、王都の貴族街に建つ広大な屋
敷の練兵場を照らしていた。
「――ハァッ! トォッ!!」
鋭い気合いの声と共に、風を切る木剣の音が響き渡る。
代々王国の近衛騎士団長を輩出してきた武門の名家、ヴァルハイト伯爵家。その練兵場では、アルドの二人の兄たちが、朝の鍛錬として華麗で迅速な剣技を競い合っていた。
流れるようなステップ。美しい剣筋。
かつてのアルドが何よりも憧れ、いつか追い抜いてみせると躍起になっていた「理想の騎士」の姿がそこにあった。
「……おい、アルド。貴様、いつまでそんなところで突っ立っている」
鍛錬を終え、侍女から受け取った白い布で汗を拭いながら、長兄が冷ややかな視線を向けてきた。
練兵場の隅、日陰になった回廊の柱に寄りかかるようにして立っていたアルドは、ゆっくりと視線を上げた。
「馬車から落ちて足を挫いただと? ふん、嘘をつくな。どうせ下町のならず者と喧嘩でもして、無様に袋叩きにされたのだろう」
長兄は忌々しげに鼻を鳴らし、アルドの足元を指差した。
「見ろ、その不様な立ち方を。重心が完全に崩れている。ヴァルハイト家の男が、歩くたびに足を引きずるなど家の恥だ。剣の才能もない三男坊が、体躯の頑丈さという唯一の取り柄まで失えば、いよいよあの『出涸らしの第三王子』のお守りくらいしか使い道がなくなるぞ」
次兄もまた、くすくすと嘲笑を漏らした。
「まあいいではないですか、兄上。最近はギリウス殿下の派閥から、我が家への武器の新調費として多額の助成金が出ています。出来損ないの弟が一人くらい部屋で腐っていようと、我が家の武名は揺らぎませんよ」
二人の兄は、アルドの返事すら待たずに、談笑しながら屋敷の食堂へと去っていった。
一人残された回廊で、アルドは自分の両太ももを服の上から強く握り締めた。
長兄の言う通りだった。
あの森での敗北から一ヶ月。治癒院での応急処置と、実家の薬師による手当てで、森狼に深く抉られた両脚の傷口そのものは塞がっていた。だが、千切れかけた筋肉と傷ついた神経は、以前のようには繋がらなかった。
少し早足で歩こうとするだけで、太ももの裏側から膝にかけて、焼きごてを押し当てられたような激痛が走る。
以前のように軽やかに跳躍することも、鋭く踏み込んで剣を振るうことも、今のアルドの肉体には不可能だった。
(……剣の才能がない、か)
アルドは、自分の右手のひらを見つめた。
数週間前までなら、兄たちの言葉に顔を真っ赤にして怒り狂い、無謀な立ち合いを挑んでは返り討ちに遭っていただろう。
だが、今のアルドの胸には、不思議と怒りは湧いてこなかった。
兄たちのあの美しい剣技。あれは、足場が綺麗に整えられた練兵場で、ルールを守って一対一で戦うための「飾り物」だ。
泥に足を取られ、腐肉の匂いが立ち込め、死角から同時に三匹の獣が喉笛を食い千切ろうと飛びかかってくるあの第二層の地獄では、あんな綺麗なステップは何の役にも立たない。
(俺は……剣士になんて、ならなくていい)
アルドは回廊の柱から背中を離し、痛む右足をグッと地面に踏みしめた。
目指す場所は、この綺麗な練兵場ではない。
放課後。アルドは学園の裏門を抜け出すと、貴族の制服から泥だらけの作業着へと着替え、足を引きずりながら石炭街の最奥へと向かった。
一ヶ月前、ライルが一人で謝罪に訪れたガドのドワーフ工房。
アルドもまた、自分の足が少しでも動かせるようになった二週間前から、毎日この場所へ這うようにして通い詰めていた。
「……親父さん。今日も来たぜ」
重い革暖簾をくぐると、工房の中は薄暗く、以前のようなむせ返るような熱気はなかった。
王宮による魔石の買い占めはさらに悪化し、石炭街の独立工房は次々と火を落としている。ガドの工房も例外ではなく、巨大な溶鉱炉の火は消え、今は部屋の隅にある小さな「火床」に、粗悪な屑魔石と木炭を混ぜた弱々しい火が灯っているだけだった。
「……また来たのか、馬鹿野郎が。お前みたいな足腰の立たねえ半端者に、やる仕事なんざねえと言ってるだろうが」
金床の前に座り込み、小さなナイフの刃を研いでいた隻眼の老ドワーフ――ガドは、振り向きもせずに悪態をついた。
「仕事ならここにあるだろ。……ほら、そこをどけよ」
アルドはガドの横を通り過ぎ、火床の隣に設置された巨大な『吹子』の前にドカッとあぐらをかいて座り込んだ。
今のアルドには、ガドに支払う修繕費の未払い分もなければ、新しい防具を作ってもらうための銅貨一枚すらない。
だからアルドは、こうして毎日工房に通い、魔石の火力が足りない炉に風を送り込む「人力の吹子吹き」として、自分の労働力を提供していたのだ。
ギィッ、ゴォォ……! ギィッ、ゴォォ……!
アルドは太い丸太のような吹子の柄を両手で掴み、上半身の筋肉と体重のすべてを使って、規則正しく押し引きを始めた。
一見すると単純な作業だが、分厚い革袋を圧縮して高熱の炉に絶えず一定の風を送り続けるには、凄まじい腕力と背筋力、そして何より強靭な持久力が要求される。
「……ぐ、ぅっ……!」
吹子を押すたびに、踏ん張っている両脚の古傷にミシミシと嫌な痛みが走る。
三十分も続ければ、全身から滝のような汗が噴き出し、肺が火を吹くように苦しくなる。煤と灰が混じった熱い空気が喉を焼き、視界が涙と汗で滲んだ。
だが、アルドは絶対に手を止めなかった。
剣を振るうための華麗な筋肉ではない。ただ同じ場所で、同じ姿勢で、襲いかかる負荷と痛みに何時間でも耐え続けるための、泥臭く重厚な「耐久の筋肉」が、その過酷な労働によって少しずつアルドの肉体に刻み込まれていく。
「なぁ、親父さん」
吹子の柄を押し引きしながら、アルドは息を切らして尋ねた。
「この街の職人たち……みんな、どうやって食い繋いでるんだ? 炉に火も入れられないのにさ」
ガドは作業の手を止め、片目を細めて冷えた大型炉を見つめた。
「どうやってって、首を括るか、王宮の御用商会に魂を売るかしちまう奴が多いな。借金のカタに工房を奪われ、あそこの門をくぐれば、二度と自分の意思で鉄を叩けなくなる専用工場の奴隷だ。日当の銅貨数枚で、貴族の兵隊が使うための雑な剣や槍を量産するだけの機械に成り下がる」
ガドの声には、怒りよりも深い絶望の色が滲んでいた。
「上層部の坊ちゃんたちが引っ掻き回した相場のせいでよ。技術を持った職人が、ただの使い捨ての駒にされていく。……世迷い言を吐いてる暇があったら、さっさと風を送れ。お前らの傷が治る頃には、この街の炉はすべて消えちまうかもしれねえんだからな」
その言葉に、アルドは奥歯を強く噛み締めた。
自分たちが森で受けた「死の洗礼」の裏側で、この街全体が「市場」の暴力によって静かに殺されかけているのだ。
さらに一時間後。
ガドが依頼品の農具の打ち直しを終え、火床から鉄を引き上げた。
「……よし、もういい。手を止めろ、坊主」
ガドの声に、アルドはそのまま床に仰向けに倒れ込み、ヒューヒューと喉を鳴らして荒い息を吐いた。
「はぁっ……はぁっ……どうだ、親父さん。昨日の俺より、風圧が落ちなかっただろ……」
「ふん。ただの風送りだ。威張るんじゃねえよ」
ガドは冷水を満たした木桶をアルドの枕元にドンと置くと、工房の奥の暗がりから、何か途方もなく重く、巨大な塊をズルズルと引きずり出してきた。
ズズズ……、ガシャンッ!!
床に投げ出されたそれを見て、アルドは荒い息を吐きながらガバッと身を起こした。
それは、美しい騎士の盾などという代物では断じてなかった。
ベースになっているのは、かつて大型荷馬車の底板として使われていた分厚い樫の古材。その表面に、砕けた黒鉄の鎖帷子の残骸や、工房の裏に捨てられていた農具の刃、さらには魔導炉の分厚い隔壁のスクラップなどが、無数の太い鉄鋲で幾重にもパッチワークのように打ち付けられている。
表面はボコボコに歪み、錆と煤で黒ずみ、まるで鉄屑の墓標をそのまま切り出してきたかのような、異様で醜悪な『大盾』だった。
「……お前が毎日、裏のゴミ山から拾い集めてきた鉄屑だ。お前の注文通り、溶かさずにそのままの厚みで、樫の板に二重三重にぶち込んでやったぞ」
ガドは煙管に火をつけ、紫煙を吐き出しながら言った。
「魔石がねえからな、綺麗な鍛接はできねえ。だが、その分だけ重さと頑丈さは保証する。……持ってみろ」
アルドはゴクリと唾を飲み込み、這うようにしてその大盾の前に膝をついた。
裏側に回ると、そこには腕を通すための分厚い革のベルトではなく、鉄の棒を曲げて作られた無骨な『二つの取っ手』と、肩から吊るすための太い鎖が取り付けられていた。
アルドは両手で二つの取っ手を握り締め、気合いと共にそれを持ち上げようとした。
「……ッ、ぐ、おぉぉぉっ!?」
重い。
想像を絶する重量だった。二十キロ、いや、三十キロ近くあるかもしれない。
片手で軽々と扱える騎士の盾とは根本から設計思想が違う。これは防具ではなく、持ち運び可能な「鉄の壁」そのものだ。
アルドは歯を食いしばり、震える両脚に力を込め、背筋を限界まで反らせて、その鉄屑の塊をどうにか胸の前まで持ち上げた。
ドクン、と両脚の古傷が激しく脈打ち、視界が赤く染まる。重心が完全に前に持っていかれ、一歩でも足を踏み出せば、そのまま顔面から床に叩きつけられそうだった。
「……重てえ……! くそっ、何だよこれ、まともに歩けねえぞ……!」
「当たり前だ。お前が言ったんだろうが。『絶対に一歩も後ろに引かないための盾』を作れとな」
ガドは立ち上がり、作業用の大鎚を肩に担いで、アルドの目の前に立った。
「いいか、坊主。足が痛んで走れねえなら、走るな。剣を振るう才能がねえなら、最初から振るうな。……その代わり、お前がその鉄屑の後ろに隠れて足を止めた時は、ドラゴンが突っ込んでこようが絶対に退くな」
ガドの隻眼が、冷酷な光を放った。
「退けば、お前の後ろにいるあの片腕のチビと、片目の眼鏡が死ぬ。……構えろ。試してやる」
「……っ、上等だ!!」
アルドは大盾の下端を、工房の石畳の隙間にガツンと突き立てた。
両脚を肩幅より広く開き、痛む膝を深く曲げ、腰を極限まで落とす。
自分の腕力で盾を支えるのではない。盾の異常な重量そのものを地面に預け、自分の肉体をその後ろに斜めに突っ張る「つっかえ棒」にするのだ。
「行くぞ、歯ァ食いしばれ!!」
ガドが容赦のない気合いと共に、大鎚を横薙ぎにフルスイングした。
ドゴォォォンッッ!!!
工房全体が揺れるほどのすさまじい轟音と衝撃波が炸裂した。
鉄屑の表面から激しい火花が散り、その圧倒的な運動エネルギーが、盾の裏側にいるアルドの全身へとダイレクトに叩きつけられる。
「ぐ、がぁぁぁぁッッ!!」
アルドの肩の骨が軋み、鎖骨に食い込んだ吊り鎖が皮膚を裂いて血を滲ませた。
両脚の傷口が引き千切れそうな激痛が走り、ブーツの底が石畳の上をズザザッと数センチ滑る。口の中が切れ、鉄錆のような血の味が広がった。
だが。
アルドは、倒れなかった。
大盾の分厚い鉄の層が衝撃を分散し、地面に突き立てた下端が支点となって、老ドワーフの渾身の一撃を完全に「殺し切った」のだ。
「……はぁっ、はぁっ……、けほっ……!」
アルドは口端から血の混じった唾を吐き捨て、盾の上端から顔を覗かせて、ニヤリと獰猛に笑った。
「……どうだ、親父さん……! 今の俺は、一歩も退かなかったぞ……!!」
かつて、練兵場で兄たちに木剣で打ち据えられ、無様に砂を噛んでいた三男坊の姿はそこにはなかった。
煤と汗と血にまみれ、痛む両脚で大地に根を張り、どれほど不格好であろうと仲間を護り抜く覚悟を決めた、本物の「前衛」の顔がそこにあった。
ガドは大鎚を下ろし、大盾の表面についたわずかな凹みを見て、満足げに鼻を鳴らした。
「……ふん。見た目はゴミ溜めだが、芯だけは腐ってねえようだな」
ガドは踵を返し、火床のそばの椅子にドカッと座り込んだ。
「その盾は、お前にやる。金はいらねえ。……その代わり、お前らがまた森へ潜って、あの王宮のクソったれたちが牛耳る市場を引っ掻き回す時は、一番いい魔石を俺の工房に持ってこい。それが代金だ」
「……ああ。約束する」
アルドは、自分の命の次に大切な相棒となったその醜悪な大盾を、愛おしそうに荒れた手で撫でた。
「ライルとセシルが、必ず道を作る。俺がこの盾で、すべての暴力を止めてみせる。……待ってろよ、親父さん。すぐにこの工房の炉を、一番熱い火で満たしてやるからな!」
石炭街の片隅。
消えかけていた小さな火床の炎が、アルドの吹き込んだ風によって、パチパチと力強い火花を散らして燃え上がっていた。
皆様からのご意見・ご感想をお聞かせください。
誤字脱字もあればお知らせ頂くと嬉しいです。




