第31話:虚飾の鳥籠と、出涸らしの暗躍
第31話:虚飾の鳥籠と、出涸らしの暗躍
王都に吹き込む風が、初夏の湿り気を失い、乾いた秋の気配を帯び始めてから一ヶ月が過ぎていた。
王立貴族学園の広大な中庭。
白亜の回廊に囲まれた芝生の上では、煌びやかな制服に身を包んだ貴族の子弟たちが、談笑しながら優雅な昼下がりを過ごしている。
その輪から遠く離れた日陰の石ベンチで、第三王子ライルは背もたれにだらしなく体重を預け、うっすらと目を開けて空を見上げていた。
「……おい、見ろよ。ライル殿下、またあそこで昼寝していらっしゃるぞ」
「昨日の魔導学の実技試験も、『気分が優れない』と仰って見学だったそうじゃないか。……まあ、無理もないさ。長兄のギリウス殿下が先日の演習で特級魔獣を単独討伐なさったばかりだ。風と土の初級魔法しか使えない『出涸らし』の殿下としては、恥ずかしくて杖も握れないのだろうよ」
回廊を通り過ぎていく上級生たちの、隠す気もない嘲笑と侮蔑の声が風に乗って届く。
だが、ライルは眉一つ動かさなかった。それどころか、彼らの視線に合わせて、わざとらしく大きなあくびを一つしてみせた。
(……笑えよ。好きなだけ笑って、僕を『無害な空気』だと思い込め)
制服の長い袖の下、ライルの右腕は今も死んだように冷たく、鉛のように重かった。
あの夜、王家に伝わる国宝級の『超特級エリクサー』を浴びたことで、焼け焦げた皮膚や破裂した血管は表面上きれいさっぱり消え失せた。だが、内部でズタズタに焼き切れた魔力回路と神経は、まったく修復されていない。
こうしてただ座っているだけでも、右肩の奥底では、砕けたガラスの破片が肉を掻き回すような鈍痛が絶えず脈打っている。もし実技試験で杖を握り、ほんの少しでも魔力を練り上げようものなら、その瞬間に回路がショートして激痛に昏倒し、「異常な負傷」が学園中、ひいては王宮中に露見してしまうだろう。
だからライルは、この一ヶ月間、徹底して「無気力で怠惰な第三王子」を演じ続けていた。
「……ライル様?」
ふと、目の前に影が落ちた。
視線を上げると、そこには見慣れたどころか、今のライルにとっては最も顔を合わせるのが苦痛な二人の少年が立っていた。
一人は、武門の誇りである屈強な体躯を制服に包みながらも、どこかぎこちない足取りで立つアルド。彼の両脚は、馬車から落ちて骨折したという名目で長らく学園を休んでおり、今週からようやく登校を再開したばかりだった。まだ筋肉が完全に癒着しておらず、歩くたびに微かに眉間に皺が寄っている。
そしてもう一人は、砕けた眼鏡の代わりに黒い眼帯で左目を覆い、分厚い帳簿を抱えたセシルだ。彼もまた、階段から転落したという理由で片目を隠している。
「……やあ、アルド、セシル。どうしたんだい、そんな怖い顔をして」
ライルは周囲の貴族たちの耳を意識し、わざと間の抜けた、ふわりとした声で微笑みかけた。
「いえ。殿下がここに置き忘れた歴史の教本をお持ちしただけです」
セシルは冷ややかな優等生の仮面を貼り付けたまま、一歩前に出て、分厚い革表紙の本をライルの隣に置いた。
その瞬間、セシルの残された右目が、ライルの瞳を射抜くように見た。
『――準備は進んでいますか?』
言葉には出さない。だが、泥と血を分け合った三人の間には、その一瞬の視線だけで十分な意思疎通が成立していた。
「ありがとう、セシル。僕、本当に忘れっぽくて駄目だなあ」
ライルはへらへらと笑いながら、左手だけでその教本を引き寄せた。
教本のページの隙間には、セシルが下町の調査でまとめた「暗号化された最新の市場動向メモ」が挟み込まれているはずだ。そしてライルが今日まで被っていた別の教本には、ライル自身が王宮で集めた情報のメモが挟んであり、セシルはそれを自然な手つきで回収していく。
学園という監視の目がある場所では、彼らは「無能な王子と、それに仕方なく付き合わされている落ちこぼれの学友」以上の接触は絶対にしない。
アルドは何も言わず、ただライルの垂れ下がった右腕の袖口を一度だけ強い目で見つめると、無言で踵を返してセシルと共に去っていった。
二人の背中を見送りながら、ライルは左手で教本の硬い表紙を撫でた。
(……あいつらも、痛みに耐えて牙を研いでいる。僕だけが、安全な鳥籠で休んでいるわけにはいかない)
その日の深夜。
王城が深い眠りに沈み、回廊の魔導灯が最小限の常夜灯へと切り替えられた頃、ライルは音もなく自室を抜け出した。
身につけているのは、光を吸収する黒ずんだ使用人用の作業着。靴底には、足音を完全に殺すためにフェルトの布を何重にも縫い付けてある。
もちろん、かつてのように『風』の魔法で足音を消すことも、高精度な索敵魔法で衛兵の位置を把握することもできない。今のライルの索敵はノイズだらけで、壁の向こうにいる人間の気配すら、十メートルの誤差が出るほど不確かなものだ。
頼れるのは、魔法という「下駄」ではなく、この一ヶ月間で自分の足で歩いて頭に叩き込んだ、衛兵の巡回ルートと交代の「秒数」だけ。
ライルは冷たい石壁に背を貼り付け、息を潜めた。
カツ、カツ、と規則正しい二つの足音が、角の向こうから近づいてくる。
(……一、二、三……今だ)
衛兵が角を曲がり、ライルのいた通路と反対側の回廊へと視線を向けた、わずか三秒の死角。
ライルは低い姿勢で音もなく疾走し、目的の部屋――次兄グリードの派閥に属する『財務・流通監査官』の執務室の前へと滑り込んだ。
扉には当然、厳重な鍵がかかっている。魔法のロックではない、物理的な真鍮のシリンダー錠だ。
ライルは懐から、ガドの工房の隅で拾っておいた細い針金を二本取り出した。
問題は、これを「左手一本」でやらなければならないことだ。
ライルは動かない右腕の袖口を、自分の奥歯で強く噛んで固定した。そして、噛み締めた布の端を引っ張り、死んだ右手の指先に無理やり一本の針金を引っ掛けて鍵穴の下部に差し込む。テンション(回転力)をかけるための支えだ。
「……ッ、ぐ……!」
鍵穴に差し込んだ針金から伝わるわずかな金属の反発が、右腕の壊れた神経を逆撫でする。頭蓋骨の中で火花が散るような激痛が走り、奥歯から血が滲んだ。
視界が白く明滅するのを気合いでねじ伏せ、ライルは震える左手で、もう一本の針金を鍵穴の奥へと滑り込ませた。
王宮の書物庫から盗み読んだ『錠前の構造図』を頭の中で必死に思い描く。
ピンの位置を一つずつ、指先の感覚だけで探り当てる。魔法の精密操作に比べれば、あまりにも泥臭く、原始的な作業。
冷や汗が顎から滴り落ち、石畳を濡らす。衛兵が戻ってくるまでの制限時間は、残り二分を切っていた。
(……三番目、上がった。四番目……硬い、くそっ、動け……!)
左手の指先に血豆ができ、それが潰れて針金が滑る。
それでもライルは諦めず、痛む右腕を首の力で強引にねじりながら、最後のピンを押し上げた。
カチャリ。
静まり返った回廊に、極小の金属音が響いた。
ライルは荒い息を飲み込み、扉を最小限の隙間だけ開けて執務室の中へと滑り込んだ。
窓から差し込む薄い月明かりだけを頼りに、監査官の巨大な執務机へと向かう。目的のものは、机の引き出しではなく、本棚の裏に隠された『裏帳簿』だ。先日、中庭で寝たふりをしていた際、監査官の部下たちが「グリード様への上納金の控えは、例の辞書の中だ」と囁き合っていたのを聞き逃さなかった。
本棚の三段目。誰も読まないような分厚い『古代王国語辞典』を左手だけで引き抜く。
重さに耐えきれず落としそうになるのを、自分の胸板で必死に受け止めた。表紙を開くと、中はページがくり抜かれており、そこに黒革の手帳が収められていた。
ライルは懐から木炭と羊皮紙を取り出し、床に膝をついて、手帳のページを狂ったような速度で書き写し始めた。
そこに記されていたのは、ライルの想像を遥かに超える、王都の経済の「腐敗の設計図」だった。
『第一層および第二層・低級魔石の強制買い上げ記録』
『石炭街・独立工房への魔石卸売価格の段階的引き上げ計画(目標:十月末までに全二十四工房の債務不履行化)』
『長兄ギリウス派閥への横流しルート・第三倉庫(下水処理場跡の地下)』
(……やっぱり、繋がっている!)
ライルの左手が、怒りで激しく震えた。
表向き、武のギリウスと財のグリードは、次期国王の座を巡って激しく対立しているように見えている。前日もグリードはライルの部屋に来て、「ギリウスの奴が特級魔石を買い漁っているせいで、私の商会にゴミみたいな低級魔石が押し付けられた」と愚痴をこぼしていたばかりだ。
だが、この裏帳簿が示す現実は違った。
二人の兄は、裏で完全に手を組んでいたわけではないにせよ、互いの利権のために「下町の独立工房と下層冒険者を徹底的に搾取するシステム」を共同で構築していたのだ。
ギリウスがギルドの上層部に圧力をかけて魔石の流通を止め、相場を暴騰させる。
すると、魔石を買えなくなったガドのような下町の職人たちが借金を背負う。そこへグリードの息のかかった悪徳金融商会が現れ、二束三文で工房の権利と職人の身柄を買い叩く。
そうして奴隷化した職人たちに、今度はギリウスの私兵団が使うための安物の武器防具を、タダ同然で大量生産させる――。
(これが……兄さんたちのやっている『政治』なのか……!)
ライルの脳裏に、あの雨の日に見た石炭街の光景が蘇った。
火の消えた炉の前でうずくまっていた老人。餓えで泣くことすらできなくなっていた子供たち。
そして、その狂った相場の中で家族を養うために、無謀だと分かっていながら第二層の深淵へ足を踏み入れ、銀の認識票(死体)となって帰ってきたガランの仲間たち。
彼らの血も、涙も、引き裂かれた内臓も、すべてはこの羊皮紙の上に書かれた「利益率三十パーセント増」という冷たいインクの数字を作るためだけに消費されていたのだ。
「……許さない」
ライルは、書き写した羊皮紙を懐にしまい、辞書を元の場所へと戻した。
かつてライルが抱いていた「この国を良くしたい」という王族としての綺麗事は、この瞬間、完全に死に絶えた。
代わりに胸の奥底から湧き上がってきたのは、自分の仲間を傷つけ、ガドの親父の誇りを踏みにじろうとするこの巨大な搾取システムそのものを、根底から破壊してやりたいという、どす黒く獰猛な「殺意」だった。
執務室から抜け出し、元通りに鍵をかけ、自分の離宮の部屋へと這うようにして戻った頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
ライルは冷たい床の上にへたり込み、懐から取り出したばかりの『流通ルートの地図』を広げた。
(兄さんたちは、王宮という高い場所から、数字だけで市場を支配しているつもりでいる。……だけど、その魔石を実際に運んでいる荷馬車の轍の深さも、倉庫番の衛兵が夜中にどこでサボって酒を飲んでいるかも、何一つ知らない)
セシルが森の生態系を解析したように、ライルはこの一ヶ月で、王宮と御用商会の「人間の生態系(腐敗の隙間)」を徹底的に洗い出していた。
どこを突けば、彼らの物流が麻痺するのか。
どこの裏倉庫を襲えば、誰にも気づかれずに魔石を抜き取れるのか。
その「急所」は、すでにこの歪な左手の文字の中にすべて記されている。
「……あとは、その急所を貫くための『牙』だ」
ライルは立ち上がり、今も鈍痛を放ち続ける右腕を睨みつけた。そして、血豆の潰れた左手を、ゆっくりと胸の前に掲げた。
情報だけでは、システムは壊せない。
最後には必ず、それを守る暴力をねじ伏せるだけの「物理的な力」が必要になる。
ライルは、誰もいない薄暗い部屋の真ん中で、左手の指先にほんのわずかな魔力を集中させ始めた。
まだ夜は終わらない。出涸らしの王子の孤独な戦いは、ここからさらに過酷な領域へと入っていく。
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