第30話:ふたつの世界と、出涸らしの朝
第30話:ふたつの世界と、出涸らしの朝
夜明け前の王都。
長く続いた冷たい雨は上がり、雲の切れ間から白み始めた空が、水溜まりだらけの石畳を鈍く照らしていた。
下町と貴族街の境界にある、うらぶれた安アパートの一室。
セシルが偽名で借りているその「秘密の着替え部屋」で、三人の少年たちは泥まみれの平民服を脱ぎ捨てていた。
「……じゃあな。次に集まるのは、俺の足の肉がくっついて、てめえの腕の神経が繋がってからだ」
アルドが、武門の貴族らしい質の良い外套を羽織りながら、自嘲気味に笑った。
分厚い包帯を巻かれた両脚は、一歩動かすだけでも激痛を伴う。立派な服を着ていても、まともに歩くことすらできない今の彼が屋敷へ戻れば、厳格な父親から手酷い叱責と失望の目を向けられるだろう。
「ええ。……数週間、あるいは数ヶ月かかるかもしれません。その間、私は新しい戦術手帳を一から作り直しておきます。今度は、泥の粘度も、私たちの『弱さ』もすべて組み込んだ、絶対に破綻しない陰湿なシステムを」
セシルもまた、商家の息子としての端正な服に着替えながら静かに頷いた。左目を覆う痛々しい眼帯は「馬車から落ちた」とでも言って誤魔化すつもりなのだろう。
彼らには、帰らなければならない「現実」がある。
そして何より、ライルには「王宮」という最も厄介な帰還場所があった。
「……二人とも、死ぬなよ。ガドの親父さんの工房で、また会おう」
ライルは、学生用の制服に袖を通し、焼け焦げた右腕を外から見えないようマントで隠しながら、二人に向けて深く頭を下げた。
「ああ。……絶対に這い上がってやる」
「ええ。必ず」
彼らは互いの顔を一度だけ見合わせると、背を向け、それぞれの「泥のない世界」へと足を引きずりながら散っていった。
純銀貨の山を夢見た少年たちのパーティは、一枚の銅貨すら稼げないまま、事実上の無期限活動休止となったのだった。
王城の裏手、使用人用の搬入口へと続く古くぬかるんだ水路跡。
ライルは制服のマントを泥水で汚さないように気をつけながら、高い石積みの城壁を見上げていた。
正門を通れば、「第三王子が早朝に一人で外から帰ってきた」という事実だけで大騒ぎになる。そのため、ライルは冒険者ごっこに出る際、常にこの秘密のルートを使い、誰にも見られずに自室の窓と外を行き来していた。
普段なら、僅かな魔力による身体強化と『風』の魔法による跳躍の補助で、音もなく数秒で飛び越えられる壁だ。
だが、今日は勝手が違った。
無能な第三王子の住まう最奥の離宮は、夕食の配膳が終われば、朝までメイド一人寄り付かない。その冷遇ぶりのおかげで夜間の不在が露見することはなかったが、朝の着替えの手伝いに侍従が来る「タイムリミット」が刻一刻と迫っていた。
(……登るしかない。左手と、両足だけで)
ライルは石壁の隙間に左手の指をねじ込み、壁の出っ張りにブーツの先を引っ掛けた。
ぐっ、と身体を持ち上げた瞬間。
「……ッッ!! あ、ぐ……ッ!」
ただ自重がぶら下がっただけで、使っていないはずの右腕の付け根から、頭蓋骨を直接ハンマーで殴られたような白熱の激痛が脳天を突き抜けた。
焼けた神経と断裂した筋肉が、重力に引かれることすら拒絶して悲鳴を上げているのだ。
ライルは奥歯が砕けるほど噛み締め、石壁に額を押し当てて必死に痛みを堪えた。
普段なら五秒で越えられる壁。それが今は、永遠にも等しい拷問の壁となって立ちはだかっている。
一歩登るごとに、視界が白く明滅する。左手の爪が剥がれ、血が石壁に直線を引く。下層の冒険者たちが日常的に味わっている「痛覚」が、容赦なくライルの甘さを削り取っていく。
王族としての尊厳など何もない。ただの這い回る虫のように、ライルは自身の城壁を、三十分以上かけて冷や汗にまみれながら登り切った。
日の出の直前。
城の最奥にある、政治的に完全に冷遇されている第三王子の私室。
その窓を外からこじ開け、ライルは床の絨毯の上へと転がり込んだ。
「はぁっ……はぁっ……は、ぁっ……」
肺が破けそうな呼吸を抑え込みながら、ライルは這いつくばって部屋の奥へと向かった。
冷水が入ったままの洗面器に顔を突っ込み、脂汗を洗い流し、傷だらけの左手に急いで絆創膏を貼る。
だが、問題は右腕だった。
右腕はドス黒く変色し、網目状に内出血が広がっている。このままでは、いくら長袖の寝着を着ても、侍医や使用人に一目で見抜かれてしまう。
ライルは、部屋の鍵付きの引き出しから、豪奢な装飾が施されたガラスの小瓶を取り出した。
王族にのみ支給される、国宝級の『超特級エリクサー』。アルドたちが全財産をはたいて買った特級ポーションですら足元にも及ばない、純度百パーセントの治癒魔薬。
ライルはそれを躊躇いなく右腕に振りかけ、残りを一気に飲み干した。
カァァァッ、と全身が発熱するような感覚に包まれる。
超特級の治癒魔力が、ドス黒く変色していた右腕の皮膚を、数秒のうちに元の白い肌へと再生させていく。火傷の痕も、破裂した血管も、表面上は完全に消え去った。
(……すごいな。金貨百枚の力は)
ライルは、自嘲気味に息を吐いた。
だが、ライルは知っていた。見た目がどれほど綺麗に治ろうと、内部の「破壊された魔力回路」までは修復されていないことを。
証拠に、右腕は相変わらず鉛のように重く、指先をピクリと動かすことすらできない。激痛は表面から奥深くへと潜り込んだだけで、脈打つたびに鈍い痛みを放ち続けている。
ただ、「怪我をしていないように見せかける」ことには成功した。
ライルが長袖の豪奢なシルクの寝着に腕を通し、柔らかすぎる羽毛のベッドに横たわった直後。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「ライル殿下。朝の身支度のお手伝いと、お食事をお持ちいたしました」
初老の侍従の声と共に、鍵を開けて入ってきたのは、銀の盆に山盛りの焼き立ての白パンと、厚切りにされた豚肉の香草焼き、そして温かいスープを乗せたワゴンだった。
「……おはよう、セバス。そこに置いておいてくれ」
ライルは、右腕を毛布の下に隠したまま、眠たげな「無能な第三王子」の顔を作って微笑んだ。
「かしこまりました。……それにしても殿下、今朝はひどく冷えますな。なんでも、長兄のギリウス殿下が、来月の『建国祭の魔力演習』のために、城中の火の魔石を前倒しで接収してしまわれたとかで」
侍従は、スープの器を並べながら、困ったような、しかしどこか他人事のような口調で愚痴をこぼした。
「おかげで、我々使用人の棟は暖炉に火を入れることもできず、震えて夜を明かしましたよ。本当に、もう少し下の者のことも考えていただきたいものですな」
ライルは、毛布の下で、動かない右腕の肩を左手で強く握り締めた。
(……ふざけるな)
ライルの胸の奥底で、黒く冷たい怒りの炎が燃え上がった。
城の使用人が「暖炉に火が入らない」と嘆いているその同じ時間。
石炭街では、魔石を買えなくなった職人たちが仕事と生きる希望を失い、路地裏では寒さと飢えで子供たちが死にかけているのだ。
森の深淵では、銀の認識票を下げた冒険者たちが、わずかな魔石を得るために獣の顎に噛み砕かれ、泥の中に腸をぶちまけて死んでいるのだ。
それが、ギリウスにとっては「来月の祭りの演習」を少し派手にするための、ただの『消費』でしかない。
「……そうだな。困ったものだね」
ライルは、怒りで震えそうになる声を必死に抑え込み、ふんわりと笑ってみせた。
「今日は少し疲れているから、食事の後は一人で休むよ。誰も入れないでくれ」
「かしこまりました。ごゆっくりお休みくださいませ」
侍従が一礼して部屋を出て行くと、ライルはゆっくりとベッドから起き上がった。
湯気を立てるご馳走には目もくれず、窓枠に寄りかかり、厚いガラス越しに王都の街並みを見下ろす。
ふたつの世界。
泥と血と痛みに塗れた、本物の「現実」。
そして、何万枚もの金貨と魔石を湯水のように消費しながら、外の痛みに何一つ気づかないこの「虚飾の鳥籠」。
(……僕はもう、二度とこの鳥籠の住人には戻らない)
ライルは、ガラス窓に冷たい額を押し当てた。
森へは行けない。剣も振れず、魔法も使えない。右腕は使い物にならない。
だが、戦えない期間、ただベッドで寝ているつもりは毛頭なかった。
(アルドは痛みに耐えて足を治す。セシルは地を這って新しい戦術を組み上げる。……なら、僕にできることは一つだ)
ライルは、振り返って自室の扉を見た。
この王宮の中には、長兄ギリウスと次兄グリードの派閥が抱える「魔石の流通経路」「資金の出所」「商会との癒着」といった、国を蝕む致命的な情報が腐るほど眠っている。
無能で無害な出涸らしの第三王子。
その立場を最大限に悪用し、城の内部から兄たちの兵站と経済の『急所』を洗い出す。そして、怪我が治った時、セシルの戦術データと融合させ、ギルドを通さずに下町の職人たちと直接繋がるための「新しい魔石流通ルート」の基盤を作り上げるのだ。
(……ここも同じだ。森の魔獣が、兄さんたちに変わるだけだ)
ライルは、動かない右腕を庇いながら、左手で静かに、だが決意を込めて窓枠を握り締めた。
魔力回路が焼き切れ、物理的な戦闘力を失ったからこそ見えた、もう一つの「泥臭い戦場」。
玉座の虚飾を根底から揺るがすための、極秘の『情報戦』の火蓋が、今、静かに切って落とされた
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