第27話:冷徹な帰還と、銀の札
第27話:冷徹な帰還と、銀の札
魔物の森から王都へ続く街道を、三つの影が亡霊のように重い足を引きずりながら歩いていた。
太陽はすでに西の空の稜線へ沈みかけ、長く伸びた彼らの影が、ひび割れた土気色の地面に黒々と這い付いている。
ライルは一歩足を踏み出すたびに、右肩から爪先へと雷が落ちたような激痛が走り、その度に視界が白く明滅した。
無理な無詠唱と全魔力の放出によって内部から爆発を起こした右腕は、完全に感覚を失っていた。皮膚の表面は焼け焦げた木炭のようにドス黒く変色し、皮下で無数に破裂した毛細血管が不気味な網目模様を浮かび上がらせている。左手で抱え込むようにして支えていなければ、肩の関節から千切れて泥の中に落ちてしまいそうな、ひどくおぞましい重量感だけがあった。
「……はぁっ、はぁっ……」
隣を歩くアルドもまた、荒く乾いた呼吸を繰り返し、限界をとっくに超えた身体を無理やり動かしていた。
大金を投じてガドに修繕してもらったばかりの『黒鉄の鎖帷子』は、至る所のリングが破断し、森狼の無慈悲な爪によってひどく歪んでいる。ガドが裏地に仕込んでくれた急所用の鋼板すらも、獣の凄まじい顎の力でひしゃげ、アルド自身の肋骨を圧迫していた。杖代わりに突き立てた黒角直剣に縋るようにして歩を進める彼の足元には、一歩ごとに血の混じった泥の足跡が残されている。
そのアルドが左腕で抱え込むようにして支えているのは、脳震盪を起こし、焦点の合わない目で虚空を見つめ続けているセシルだった。
粉々に砕けた銀縁眼鏡の残骸が額に食い込み、美しい銀髪は泥と血でどす黒く固まっている。だが、セシルにとっての真の致命傷は、肉体的なダメージではなかった。
「……十秒、だ。……いや、違う……風下に気配はなかったはずだ……地中? いつから……いつから彼らは潜伏していた……?」
セシルはうわ言のように、森で起きた絶望的な数秒間の出来事を反芻し続けていた。
彼がすべてを賭けて構築し、実際に莫大な純銀貨を生み出していた完璧な『十秒ルール』。それが、知性のない野獣だと見下していた森の捕食者たちに、完全に解析され、逆利用されていたという事実。
自分たちのシステムが、単なる「都合の良い餌が来る合図」として扱われていたという屈辱と恐怖が、セシルの理性を粉々に打ち砕いていた。
王都の外門に辿り着いた時、夕闇に沈む巨大な石造りの城壁は、彼らを拒絶するように冷たくそびえ立っていた。
槍を持った門兵が、泥と血にまみれた彼らの凄惨な姿を見て一瞬顔をしかめたが、すぐに興味を失って視線を外した。
彼らに駆け寄って怪我の具合を尋ねる者などいない。下層の冒険者が手酷い怪我をして帰ってくることなど、この王都においては、路地の吹き溜まりで野垂れ死ぬドブネズミを見るのと同じくらい、ありふれた日常風景に過ぎないのだ。
外門を抜け、彼らは足を引きずりながら石炭街のメインストリートの横を通った。
数日前、ライルが「この街の職人たちに本物の火種(魔石)を持ち帰る」と固く決意した場所だ。
だが、現在の石炭街は、数日前よりもさらに暗く、冷え切っていた。かろうじて火を保っていたはずのいくつかの中堅工房すらも、さらに高騰した魔石相場に耐えきれず、完全に煙突の煙を絶やしていた。
道の片隅では、仕事を失った職人の子供たちが、虚ろな目で通り過ぎる大人たちを眺めている。
(……僕が、彼らを救うだなんて)
ライルは、焼け焦げた右腕の激痛に耐えながら、自嘲の笑みを漏らしそうになった。
(どの口が言ったんだ。自分の命すらまともに管理できない、魔獣の手の上で踊らされていただけの馬鹿な子供が……!)
彼らは無言のまま、王都下部支部の冒険者ギルドへと向かった。
軋む重い木扉を押し開けると、そこは昨日までと何も変わらない、安酒と汗と、錆びた鉄の匂いが充満する喧騒の空間だった。
「おや、坊やたち。今日は随分と派手にやられたみたいだね」
買取カウンターに寄りかかっていた、革鎧姿の下級冒険者の男が、ライルたちの姿を見てニヤニヤと意地悪く笑った。
昨日までは、Eランクの銅プレートを下げた学生たちが毎日純銀貨を稼ぎ出す姿に、嫉妬と羨望の目を向けていた連中だ。
「最近、第二層の浅瀬で特級魔石を荒稼ぎしてるって噂で持ちきりだったけどよ。どうやら、森の奥の連中に『高すぎる授業料』を払わされたって顔だな。……で、今日の獲物(お宝)は?」
ライルたちは何も答えなかった。
獲物など、何一つない。
セシルの命綱であった戦術手帳も、予備の短装剣も、いざという時のための特級ポーションの空き瓶すらも、すべて暗緑の森の奥の、あの絶望的な黒苔の絨毯の上に置いてきた。今の彼らの懐にあるのは、全財産を投じて修繕した装備の「残骸」と、ギルドの宿屋に泊まる程度の数枚の銅貨だけだった。
「……アルド。ギルドの治癒院へ行きましょう。ライルの腕を、少しでも早く神官に見せないと……」
セシルが焦点の合わない目のまま、ひび割れた声を出した。
「馬鹿言え。ただの切り傷じゃねえ、特級ポーションの治癒魔力を浴びても全く塞がらなかった傷だぞ」
アルドが、吐き捨てるように言った。
「治癒院の高位神官に『欠損再生』に近い奇跡の魔術を頼めば、最低でも金貨が数枚飛ぶ。……今の俺たちに、そんな大金がどこにあるんだよ」
事実だった。
この数日間で稼ぎ出した莫大な純銀貨は、すべて装備の修繕と特級治癒薬の購入への「再投資」に消えていた。「明日も確実に同じペースで稼げる」という前提で資金を回した結果、彼らの手元には、現金が全く残っていなかったのだ。
どうすればいい。
このままではライルの右腕は腐り落ち、アルドの傷も化膿し、パーティは完全に終わる。
重苦しい絶望が三人を押し潰そうとした、その時だった。
バンッ!!
ギルドの重厚な木扉が、金属製の蝶番が悲鳴を上げるほどの凄まじい勢いで蹴り開けられた。
一階の酒場スペースを埋め尽していた百人近い冒険者たちの喧騒が、まるで首を絞められたように一瞬にして静まり返る。
扉の枠に寄りかかるようにして立っていたのは、大柄な隻眼の男――Cランクパーティ『鉄の顎』のリーダー、ベテラン冒険者のガランだった。
だが、その姿は異様を極めていた。
常に背中に背負い、彼らの武の象徴であったはずの無骨な巨大戦斧は、柄の中腹から無惨にへし折れている。自慢の厚い胸当ては、まるで巨大な爪で引き裂かれたように紙切れのごとくひしゃげ、ガラン自身の脇腹から大量の血が滲み出していた。
そして何より、彼が肩を貸し、引きずるようにして支えていた大柄な盾持ちの男は――左腕が、肩の付け根から完全に「食いちぎられて」おり、どす黒い血がギルドの床にボタボタと滴り落ちていたのだ。
「おい……嘘だろ、ガランの旦那のパーティが、やられたぞ……!」
「治癒術師を呼べ!! 早く奥から連れてこい!!」
静寂は一瞬でパニックへと変わり、ギルドの職員たちが慌てて駆け寄る。彼らは手慣れた動きで、出血多量で意識を失っている盾持ちの男を、奥の緊急処置室へと担ぎ込んでいく。
強烈な血の匂いと、内臓が露出したような生々しい死の気配が、ギルド内を完全に支配した。
ガランは、処置室へと消えていく長年の相棒を無言で見送ると、自身の脇腹の傷を押さえることもなく、血まみれの重いブーツの音を響かせながら、受付カウンターへと向かって歩き出した。
その道筋は、偶然にも、泥と血に塗れて立ち尽くすライルたち三人の真横を通っていた。
ガランの隻眼が、幽鬼のような姿になったライルたちを捉えた。
昨日、「お前らの腸は森の肥やしになる」「お前らのお遊戯は机上の空論だ」と冷酷に警告してきた男。その予言通りに無惨に敗北し、すべてを失って逃げ帰ってきた自分たちを、彼は「だから言っただろうが」と嘲笑うだろうとライルは思った。
だが、ガランの瞳には、嘲りも、怒りも、愚か者に対する憐れみすらも、一切浮かんでいなかった。
そこにあったのは、ただ底知れぬ疲労と、人間の感情のすべてを削り落とし、諦めきったような真っ暗な「虚無」だけだった。
ガランはライルたちを一瞥しただけで無言のまま通り過ぎると、受付カウンターの前に立ち、血と泥に塗れた太い指を、ひしゃげた胸当ての懐へと入れた。
そして、無造作に「それ」を取り出し、傷だらけの木製カウンターの上に放り投げた。
チャリン。
乾いた、ひどく冷たく、そして重い金属音が、静まり返ったギルド内に響き渡った。
それは、幾つもの獣の鋭い爪痕が刻印され、赤黒い血がこびりついた、銀色の認識票だった。
昨日、ガランの後ろの席に座り、魔法の杖を丁寧に手入れしながら、静かに微笑んでいた中年の女魔術師。彼女の首に下がっていたものだ。
「……Cランク、魔術師のマリアだ。第二層の中腹、『泥濘の沼地』で森狼の特大の群れに捕捉された」
ガランの声は、ひどく事務的で、感情の起伏が一切感じられなかった。
「殿を引き受けたマリアが足をやられ、沼の底に引きずり込まれた。俺たちに回収できたのは、これだけだ。……死亡手続きを頼む」
受付嬢は悲鳴を上げることも、涙を流すこともなく、ただ沈痛な面持ちで小さく頷き、分厚いギルドの登録台帳を開いて、マリアの名前に一本の黒い横線を引いた。
「受理いたしました。……彼女の遺産と、この認識票は、どちらのご遺族へお送りしましょうか?」
「身寄りのない女だ。プレートは溶かして銀にして、裏通りの教会の孤児院にでも寄付してやってくれ」
それだけ言うと、ガランは手続きの紙に血塗れのサインを残し、カウンターに背を向けた。
仲間の死を悼む涙もない。自分たちの力を過信したことへの後悔も、森の魔獣に対する復讐を誓う怒号もない。
ただ「死んだ」というデータをギルドに報告し、事務処理を終わらせただけ。
それが、第二層という底なしの深淵を長年生き抜いてきたプロフェッショナルたちの、あまりにも冷酷で、あまりにも生々しい日常の光景だった。
ライルは、カウンターの上に転がる銀の札から、どうしても目を離すことができなかった。
あの中には、かつて生きて呼吸をし、仲間と酒を飲み、笑い合っていた人間の、すべての人生が詰まっている。それが今、ただの数グラムの金属片として溶かされようとしている。
(……僕が、あと三秒決断をためらっていたら)
ライルは、動かない右腕を左手で強く抱きしめ、奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばった。
(アルドとセシルも、あの冷たい銀の札になっていたんだ)
ガランが、よろめくような重い足取りでギルドの出口へと向かい、ライルたちの横を再び通り過ぎようとした時。
ガランの足が、ふと止まった。
血走った隻眼の視線が、ライルの焼け焦げた右腕と、アルドのひしゃげた鎖帷子に向けられる。
数秒の、鉛のように重い沈黙。
やがて、ガランはひび割れた唇を微かに開いた。
「……死ななかったか、坊主」
その声には、昨日のような強烈な威圧感も、相手を見下すような響きもなかった。
ただ、同じ「理不尽な死の顎」から抜け出してきた者同士の、ひどく乾いた、そして残酷な事実だけを告げる響きがあった。
「あの森は……頭のいい計算なんかじゃ、絶対に支配できねえんだよ。生きて帰れたなら、その右腕の痛みと一緒に、骨の髄まで叩き込んどけ。俺たち冒険者にできるのは、ただ運良く生き残って……他人の札を拾って帰ってくることだけだ」
ガランはそれだけ言い残し、夕闇の迫る王都の冷たい通りへと消えていった。
静寂が戻ったギルドの中で、ライルたち三人は、足の裏が床に張り付いたように動けなかった。
周囲の冒険者たちも、もはや彼らを嘲笑う気力を失い、ただそれぞれが持つジョッキの酒を無言で煽っている。
自分たちの「十秒ルール」がどれほど浅はかなものだったか。
少しばかりの成功体験で、自分たちが森をコントロールし、相場を操作し、ひいてはこの腐りきった国すらも変えられるなどと驕っていたことが、どれほど愚かなことだったのか。
「……帰ろう」
ライルが、肺の底から搾り出すような声で言った。
「僕たちは……最初からやり直さなきゃいけないんだ。このままじゃ、本当に誰も守れない。ただの……宮廷から逃げ出してきただけの、無力な出涸らしのままだ」
悔し涙すら出なかった。
ただ、自分たちの底なしの無力感と、王宮という絶対的な安全地帯で育ってきた「甘さ」に対する激しい自己嫌悪だけが、彼らの胸の奥を黒く、ドロドロと塗りつぶしていた。
王宮の玉座の間では、今日も数万の金貨が飛び交い、兄たちが机上の空論で国の未来を語り合っているだろう。
だが、この泥臭い現場には、金で買えない命があり、どんな緻密な計算をも嘲笑う圧倒的な暴力があり、そして決して消えることのない「痛覚」があるのだ。
ライルは、焼け焦げた右腕の激痛を、魔法で散らすことも、気を失って逃げることもなく、真正面からその身に刻み込んだ。
この腕の痛みを忘れない限り、自分はもう二度と、あんな浅ましい驕りに支配されることはない。
ギルドの窓の外、灰色の空から、冷たい初夏の雨が降り始めていた。
石畳を濡らす雨音は、どこまでも冷たく、彼らが味わった敗北の味は、どこまでも苦く、泥臭かった。
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