第28話:焼け焦げた腕と、灰の街の底で
第28話:焼け焦げた腕と、灰の街の底で
王都下部支部に併設された、薄暗くカビ臭い共同治癒院。
窓を叩く冷たい初夏の雨音が、鼓膜にへばりつくように響き続けていた。
「……う、あ……」
粗末な木製のベッドの上で、アルドが苦鳴を漏らしながら寝返りを打とうとして、激痛に顔を歪めた。
彼の両脚には分厚い包帯が巻かれ、強い薬草の匂いが漂っている。高位神官による一瞬の『治癒魔術』など受けられるはずもなく、彼らがなけなしの銅貨をはたいて受けられたのは、見習い術師による最低限の止血と、気休め程度の薬草の塗布だけだった。
数日前まで彼を包んでいた堅牢な黒鉄の鎖帷子と革鎧は、無惨な鉄屑とボロ布に成り果て、部屋の隅に放り投げられている。
その隣のベッドでは、セシルが膝を抱えるようにしてうずくまっていた。
砕けた眼鏡の代わりに、額から左目にかけて痛々しい眼帯と包帯が巻かれている。肉体的な外傷は脳震盪と打撲だけだったが、彼の精神が受けたダメージはアルド以上に深刻だった。
「……確率論では、あり得ない。いや、母集団のデータが間違っていたのか? 索敵の範囲設定? それとも、魔力波紋の地中透過率の計算ミス……? どうして、風下にいなかった……?」
セシルは虚ろな目で宙を見つめ、血の気の引いた唇で、ブツブツと終わりのない計算を反芻し続けている。
彼がすべてを懸けて構築した『十秒ルール』という完璧なシステム。それが、知性を持たない獣だと見下していた森の捕食者たちに完全に解析され、あまつさえ「狩りの逆利用」にまで使われたという事実が、彼のプライドと理性を根底から粉砕していた。
そして、部屋の一番奥のベッド。
ライルは、天井の木目をただ静かに見つめていた。
首から太い布で吊られた右腕には、添え木と包帯が厳重に巻かれている。
だが、その内側では今もなお、焼け火箸を骨の髄にねじ込まれているような、絶望的な激痛が脈打っていた。
ライルは、まだ動かせる左手の人差し指をそっと立てた。
(……『風』)
生活魔法の、最も基礎的な微風の呪文。
いつもなら、指先に心地よい小さな風の渦が生まれるはずだった。
しかし、魔力を練り上げようとした瞬間、右腕の破壊された魔力回路がショートを起こしたように激しく弾け、ライルの全身が痙攣するほどの痛みが走った。
「ッ……ぐ、ぅ……!」
風は起きない。ただ、焼け焦げた右腕の奥深くで、バチッという嫌な耳鳴りと絶望的な激痛が走るだけだった。
王族として生まれ持った莫大な魔力は、安全装置をすべて投げ捨てて強引に暴発させた代償として、自らの肉体という「器」を完全に破壊していた。今のライルは、指先にそよ風すら起こせない、文字通りの「無能力者」になり果てていた。
「……ライル」
ふと、隣のベッドからかすれた声がした。
アルドだった。彼は天井を見つめたまま、絞り出すように言った。
「……俺、もう駄目かもしれねえ」
ライルは目を見開いた。
武門の三男として生まれ、どんなに傷だらけになっても立ち上がり、「絶対に最強の剣士になってやる」と笑っていたアルド。その彼の口から、信じられないほど弱々しい言葉が零れ落ちたのだ。
「あいつら……森狼の群れが飛び出してきた時、俺、頭が真っ白になった。剣を振るどころか、小便ちびりそうになって、ただ噛み砕かれるのを待つしかできなかった。……ガドの親父が仕込んでくれた鋼板がなけりゃ、俺は最初に死んでた。俺には……才能なんて、何もねえんだ」
アルドは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「純銀貨の束を見て、自分が強くなったって勘違いしてただけだ。……あの森の奥底じゃ、俺なんてただの柔らかい肉の塊だったんだよ……!」
アルドの涙声が、カビ臭い部屋に響く。
セシルはそれに答えることもなく、ただ震える手で自身の包帯を掻きむしりながら、意味をなさない計算式を呟き続けていた。
パーティは、完全に崩壊していた。
(……僕のせいだ)
ライルは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(僕が、自分たちの力を過信した。王宮の政治を出し抜いて、自分たちの手でこの街を救えるなんて……そんな思い上がりが、二人をこんな目に遭わせたんだ)
ライルは激痛の走る身体を無理やり動かし、ベッドから立ち上がった。
「……ライル? どこに行くんだよ」
「ガドの親父さんのところだ。……壊した鎖帷子を持って、謝りに行かなくちゃいけない」
ライルは部屋の隅に転がっていた、ズタズタの『黒鉄の鎖帷子』を左手一本で引きずり上げた。ひどく重かった。
「馬鹿か! その腕じゃまともに歩けねえだろ!」
「行くんだ」
ライルは振り返り、アルドの目を真っ直ぐに見た。
「僕たちは負けた。その事実から目を背けたら、本当にここで終わりだ」
ライルは、左肩に鉄屑のようになった鎖帷子を担ぎ、よろめく足取りで病室を出た。
外に出ると、冷たい雨が容赦なくライルの身体を打ち据えた。泥濘んだ王都の路地を、右腕を引きずりながら、ただひたすらに石炭街へと向かって歩き続けた。
石炭街は、死に絶えようとしていた。
数日前までは、かろうじて金槌の音が響いていた通りも、今は完全に沈黙している。
王宮の派閥闘争――ギリウス派とグリード派による魔石の異常な買い占めは留まるところを知らず、市井の魔石価格はついに暴動が起きる一歩手前まで高騰していた。
炉に火を入れられなくなった職人たちは、虚ろな目で雨の降る空を眺め、道端には餓えで動けなくなった老人や子供たちが身を寄せ合っている。
これが、兄たちの政治の「痛覚」だ。
玉座の間で動く数万枚の金貨の裏側で、確実に人が死んでいく現場。
ライルはその光景を、かつては「王族としての使命感」で見下ろしていた。だが今は違う。自らもすべてを失い、泥に塗れ、絶望的な痛みと無力感を抱えた「底辺の人間」として、この光景の中に立っていた。
ガドのドワーフ工房の前に辿り着く。
猛烈な熱気と黒煙を吐き出していたはずのあの工房すらも、今日は火が落ちており、薄暗く冷え切っていた。
重い革暖簾をくぐると、ガドは火の気のない冷たい炉の前に座り込み、煙管を咥えていた。
「……親父さん」
ライルの声に、ガドがゆっくりと隻眼を向けた。
怪我だらけで右腕を吊り、雨と泥にまみれた小柄な少年の姿を見ても、老ドワーフの顔には驚きはなかった。まるで、最初からこうなることが分かっていたかのような、静かで冷ややかな目だった。
ドンッ。
ライルは左肩に担いでいた鎖帷子の残骸を、作業台の上に置いた。
「……親父さんが徹夜で編み直してくれた帷子を、こんな鉄屑にしてしまった。……すまない」
ライルは、深く頭を下げた。
「稼いだ銀貨も、全部失った。修繕費の未払い分も、今は払えない。……本当に、すまない」
ガランに言われた通りだった。
森をコントロールできるという思い上がり。自分たちは特別だという驕り。
その結果が、この鉄屑だ。
ガドは作業台の前に立ち、無残に引き裂かれ、ひしゃげた鎖帷子を太い指で撫でた。
「……脇腹から裏腿にかけての集中攻撃。しかも、ただ噛み付いたんじゃねえ、仕込んでおいた急所用の鋼板ごと、万力で圧し潰すような噛み合い方だ」
ガドは煙管の煙をふぅっと吐き出した。
「第二層の森狼の群れか。しかも、頭の回るリーダー格が率いる、統率の取れた殺戮陣形だ。……俺の鋼板がなけりゃ、坊主のダチは腰から下を完全に食い千切られてたな」
「……ああ。親父さんの仕事が、アルドの命を繋いでくれた」
「だが、お前さんはその右腕を完全に潰された。もう一人の眼鏡の坊主も、まともな状態じゃねえだろうな」
ガランの言葉と同じように、ガドもまた、彼らの甘さを的確に抉ってきた。
「お前さんたち、この数日、第二層の浅瀬で荒稼ぎして随分と羽振りが良かったそうじゃねえか。ギルドの連中が噂してたぜ。頭のいいガキどもが、森を出し抜いてボロ儲けしてるってな」
ガドは冷たくなった金床をコンと叩いた。
「俺は言ったはずだ。相場が上がれば上がるほど、森は冒険者の血を啜る。……自分の身の丈を知らねえ奴から順番に、あの森の泥に飲まれていくんだとな」
ライルは唇を噛み締め、何も言い返せなかった。
反論の余地などない。自分たちは完全に浮かれ、そして完全に敗北したのだ。
「……親父さんの言う通りだ。僕たちは馬鹿だった。自分たちの力で、この狂った王都の相場をどうにかできるなんて……本物の火種を持ち帰って、この街を救うなんて、ただの思い上がりだった」
ライルの目から、泥水に混じって悔し涙がボロボロと溢れ落ちた。
「僕は……ただの無力な子供だ。魔法も使えなくなった、ただの出涸らしだ……っ!」
激痛と自己嫌悪が、ライルの小さな肩を激しく震わせる。
その時だった。
ガドの太くゴツゴツとした手が、ライルの泥まみれの頭の上に、ドンッと重く乗せられた。
「……勘違いするな、坊主」
ガドの声は、先程までの冷ややかさが消え、ひどく低く、凄みのある熱を帯びていた。
ライルがハッと顔を上げると、ガドの隻眼が、ライルの目を真っ直ぐに射抜いていた。
「俺は、お前らの浅はかさを笑っちゃいるが……『逃げ帰ってきたこと』を責めた覚えは一度もねえぞ」
「え……?」
「いいか。自分の身の丈を知らずに死んでいった馬鹿は、この街に何千人といる。だがな……」
ガドは、作業台の上のひしゃげた鎖帷子を力強く叩いた。
「お前らは、第二層の絶望的な罠にハマりながら、仲間の手を離さず、泥水をすすって、自分の足で生きてこの街まで帰ってきた。……俺の打った帷子をこんな鉄屑にしちまうほどの地獄から、命だけは繋いで這い戻ってきたんだ」
ガドは煙管を灰皿に叩きつけ、ライルの胸を指差した。
「それは『敗北』じゃねえ。……冒険者としての、本物の『第一歩』だ」
ライルの心臓が、大きく跳ねた。
「頭のいい計算も、金で買った防具も、最後には何の役にも立たねえ。本当に信じられるのは、その腕に刻まれた『痛覚』と、生き汚く這いずる覚悟だけだ。……お前さんは今、ようやくこの灰色の街の底辺の連中と同じ『泥の味』を知ったんだよ」
ガドの言葉は、慰めではなかった。
ただ、底辺を生きる者としての強烈な事実の肯定だった。
王族としての高みから見下ろした「救済」ではない。
すべてを失い、絶望的な痛みを知った者だけが持つ、這い上がるための権利。
「……親父、さん……」
ライルは、焼け焦げた右腕を押さえながら、その場に崩れ落ちるようにして泣いた。
子供のように声を上げて、泥まみれの床に涙をこぼした。
自分は王族などではない。
玉座の兄たちとは違う。
痛みを知り、絶望を知り、それでも生きて帰ってきた、泥まみれの冒険者だ。
「……泣くのは今日で終わりにしろ」
ガドは冷たくなった炉の前に立ち上がり、残っていた僅かな屑魔石を放り込んで、鞴を踏み始めた。
「腕が動かねえなら、動かせるようになるまで足掻け。金がねえなら、第一層のドブさらいからやり直せ」
ガドは炎の上がり始めた炉を背に、ニヤリと笑って言った。
「……てめえで自分のことを『出涸らし』だって言うならな。その底辺を這いずる、出涸らしの意地ってやつを見せてみろ」
ボウッ、と。
冷え切っていた工房の炉に、小さな、だが確かな赤い火が灯った。
その火の暖かさを感じながら、ライルは泥に塗れた顔を上げた。
右腕の激痛は消えない。喪失感も消えない。
だが、胸の奥底で完全に折れかけていた心柱に、ひとすじの、決して消えることのない強靭な鋼の芯が通ったのを感じていた。
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