第26話:暴走の代償と、泥を舐める生還
第26話:暴走の代償と、泥を舐める生還
ドクン、と。
ライルの耳の奥で、自身の心臓が跳ねる音だけが異様に大きく響いていた。
視界を完全に覆い尽くすのは、灰褐色の剛毛と、黄金色に濁った魔獣の瞳。
仰向けに押し倒されたライルの胸ぐらに乗しかかるリーダー格の森狼の体重は、小柄な少年の肋骨を容易く軋ませ、肺から空気を容赦なく絞り出していた。
開かれた巨大な顎から滴る、生温かい涎。それがライルの頬に落ちるたび、腐った肉と血の強烈な悪臭が鼻腔を突き刺す。
(……死ぬ)
理屈ではなく、生物としての絶対的な本能がそう告げていた。
喉元に押し当てられた牙は、あと数ミリ押し込まれればライルの頸動脈を容易く引き裂く。だが、森狼はすぐに噛み砕くことはせず、自らの完璧な狩りの成果を誇示し、獲物が恐怖と絶望に染まるのを「味わって」いるようだった。
「ライル……ッ! 逃げろ、ライルゥゥッ!!」
数メートル先で、アルドが血の混じった絶叫を上げていた。
大金を投じて修繕したばかりの『黒鉄の鎖帷子』と、その上に纏った新調の硬革鎧。その防御力のおかげで両脚を瞬時に切断されることだけは免れたアルドだったが、事態は絶望的だった。
二頭の森狼に左右から完全に体重を掛けられ、地面に縫い付けられている。ガドが裏地に仕込んだ急所用の鋼板が、凄まじい顎の力でギリギリとひしゃげる嫌な音が響いていた。
その奥の巨木の根元では、セシルが微動だにせず倒れ伏していた。
死角から撥ね飛ばされた際、受け身を取る暇すらなかったのだろう。真新しかった銀縁眼鏡は粉々に砕け散り、額から流れる血が美しい銀髪を赤く染めている。彼の命綱である戦術手帳も、泥の中に放り出されたままだ。
完全に、詰んだ。
セシルの編み出した「十秒ルール」も、ライルの「索敵」も、すべてはこの上位捕食者たちに逆利用されただけの、滑稽な子供のお遊戯だったのだ。
(どうする? ……風の短縮詠唱か?)
ライルは恐怖で凍りつきそうになる思考を、必死に回した。
だが、コンマ二秒の遅れすら、今の状況では致命的すぎる。喉元の牙から逃れるために呪文を口にした瞬間、その声帯の震えを感知した森狼の顎が閉じるのが先だ。
剣を振る空間もない。身動き一つ取れない。
(なら……安全装置を、全部、捨てる)
王立貴族階級学校の初等科で、宮廷魔術師が青ざめた顔で語っていた警告が脳裏をよぎった。
『決して、術式(言葉)を介さずに魔力を放出してはなりません。それは蛇口のない高圧の水道管に穴を開けるようなものです。暴走した魔力は外界に出る前に、まず術者自身の肉体を内側から破壊します』
ライルは、黄金色の瞳で見下ろしてくる森狼の顎を睨み返した。
王族として生まれ持った、底なしの莫大な魔力。それを今まで「生活魔法」という極小の枠に押し込め、最近になってようやく「短縮詠唱」というギリギリの制御で大気に繋げていた。
それを今、すべて放棄する。
形などどうでもいい。魔法とすら呼べない、ただの魔力の『爆発』でいい。
(……やれるもんなら、やってみろッ!!)
ライルは喉元に牙を突き立てられている状態のまま、黒苔の地面に押し付けられていた右手に、自身の体内にある全魔力の半分以上を、一切の制御をかけずに強引に叩き込んだ。
バキィッ!!
ライルの右腕の内部で、何かが致命的に破裂する鈍い音が鳴った。
「ガァァァァァァァァァァッ!!?」
それは森狼の悲鳴ではない。ライル自身の口から迸った、想像を絶する激痛による絶叫だった。
制御を失った高密度の魔力が、ライルの右腕の魔力回路を、筋繊維を、毛細血管を、内側から文字通り「焼き切り」ながら暴走した。皮膚の下で無数の血管が破裂し、右腕全体がドス黒い紫斑に染まり上がる。
だが、その代償として生み出された『無詠唱の魔力爆発』は、第二層の理不尽な暴力をねじ伏せるだけの絶対的な質量を持っていた。
ドバァァァァァァンッ!!!
ライルの右の手のひらから、圧縮された大気の塊が大爆発を起こした。
刃のような鋭い風ではない。ただ純粋に、巨大な質量の『壁』が至近距離で弾け飛んだような、大質量の衝撃波。
「ギ、キャァァァァァァァッ!?」
ライルの上に乗しかかっていたリーダー格の森狼は、その暴発をゼロ距離で顔面に直撃された。
巨大な獣の強靭な顎の骨がへし折れる不快な音が響き、数百キロはある巨体が、まるで枯れ葉のように上空へと吹き飛ばされる。
それだけではない。暴走した衝撃波は周囲の黒苔を円形に吹き飛ばし、アルドを押さえつけていた二頭の森狼すらも、突風に巻き込まれて数メートル横へと横転させた。
「……あ、ぐ、ぅ……ッ」
ライルもまた、自らの引き起こした衝撃波の反作用を受け、地面をバウンドするように転がった。
右腕の感覚は、完全に消失していた。肩から先が焼け焦げた木切れにでもすり替わったかのように、一切動かない。激痛すら通り越し、ただひどい熱と痺れだけが脳を焼いている。
だが、森狼たちの「完璧な群れの統率」は、リーダー格の突然の敗北と未知の爆発によって、確かに数秒間だけ完全に瓦解した。
「アルド!! セシルを!! 走れェェェッ!!」
血反吐を撒き散らしながら、ライルは這いつくばったまま叫んだ。
その声に、アルドが弾かれたように跳ね起きた。
両脚の革鎧はズタズタに引き裂かれ、黒鉄の鎖が皮膚に食い込んで血を流していたが、アルドは痛みなど感じていないかのように、凄まじい膂力で黒苔を蹴り飛ばした。
「オラァァァッ!!」
アルドは巨木の根元に倒れていたセシルの首根っこを左手で掴み上げると、右手に持った黒角直剣で、態勢を立て直そうとした森狼の一頭を力任せに殴り飛ばした。刃の向きなど関係ない、ただ道を開けるための鉄塊としての殴打。
「ライル! 立て!!」
アルドがセシルを小脇に抱えたまま、ライルの胸ぐらを掴んで強引に引き起こす。
「……走る……!」
ライルはだらりと垂れ下がったままの右腕を引き摺り、アルドの背中を追って、狂ったように走り出した。
背後から、顔面を粉砕されたリーダー格の凄絶な断末魔と、混乱から立ち直りかけた群れの怒りに満ちた咆哮が響き渡る。
「ガアァァァッ!!」
「アォォォォォォッ!!」
魔獣たちが追ってくる気配がした。
だが、彼らは第一層から来た闖入者を深く追撃することはしなかった。顔面を吹き飛ばされ、瀕死の重傷を負ったリーダー格の強烈な血の匂いが、他の魔獣たち(あるいは同族)の新たな捕食の対象へと変わったからだ。
第二層では、怪我をした者は群れの長であろうと、即座に「餌」に降格する。その残酷な生態系のシステムが、皮肉にも三人の少年たちの命を繋ぎ止めていた。
どれくらい走っただろうか。
肺が破け、口の中から鉄の味が消えなくなった頃、彼らの頭上を覆っていた黒い巨木群の圧迫感が急に薄れ、木漏れ日が腐葉土を照らす「第一層」の領域へと転がり込んだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
安全圏である第一層の休耕地の跡地に倒れ込んだ瞬間、三人は糸が切れた操り人形のように、泥まみれの地面に崩れ落ちた。
アルドはセシルを地面に下ろすと、大の字になって天を仰ぎ、喉の奥からヒューヒューという引き攣った呼吸音を漏らした。
彼の新しい硬革鎧は見る影もなくボロボロに引き裂かれ、高価な黒鉄の鎖帷子も至る所のリングが弾け飛び、ひどく歪んでいた。
「……ライ、ル……」
アルドが首だけを動かして、横で丸くなっているライルを見た。
ライルは、自分の右腕を左手で抱え込むようにして、黒い土の上にうずくまり、声にならない呻き声を上げていた。
アドレナリンが切れ、完全に破壊された魔力回路から発せられる絶望的な激痛が、遅れてライルの脳髄を直接殴りつけ始めていたのだ。
服の袖を引き裂いて露わになった右腕は、凄惨な有様だった。
火傷のように皮膚全体がドス黒く変色し、皮膚の下を通る血管が破裂して不気味な網目模様を浮かび上がらせている。筋肉の繊維が内側から断裂しており、指先は微かな痙攣を繰り返すだけで、自力で動かすことは一切不可能だった。
「……あ、ぁぁ……っ、ぁ……!」
ライルは奥歯を強く噛み締め、痛みに耐えようとしたが、生理的な涙と脂汗が泥まみれの顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
「ポーションだ……! ギルドで買った、特級の……!」
アルドが這いずるようにしてセシルの腰の皮袋を探り、緑色の液体の入った小瓶を取り出した。
アルドは震える手で蓋を外し、ライルの右腕に直接振りかけ、残りをライルの口に強引に流し込んだ。
ジュウゥゥッ、と嫌な音を立ててポーションの治癒魔力が浸透していく。
皮膚の表面の傷と、破裂した血管はゆっくりと塞がっていったが、黒ずんだ紫斑と、だらりと垂れ下がった神経と筋肉の断裂が元に戻る気配はなかった。
特級ポーションは「肉体の外傷」を治すものであり、魔法の暴走によって焼け切れた「魔力回路の損傷」までは修復できないのだ。
「……腕が、動かない……。指の感覚も、ない……」
ライルは治癒薬の苦味にむせながら、泥に塗れた自らの右腕を見つめて、虚ろな声で呟いた。
「嘘だろ……。あの高いポーションだぞ……?」
アルドが絶望的な顔で、空になった小瓶とライルの腕を交互に見比べる。
その傍らで、「……う、ん……」と、気絶していたセシルが微かに呻き声を上げて目を覚ました。
セシルはひどい脳震盪を起こしているらしく、焦点の定まらない目で周囲を見渡し、粉々に砕けた眼鏡のツルだけが残った顔をしかめた。
セシルはゆっくりと上体を起こし、ズタズタになったアルドの脚と、黒く変色して動かなくなったライルの右腕を見て、息を呑んだ。
そして、自分が戦術データを書き込んだ手帳も、採集用の短剣も、すべて森の奥に落としてきたことに気づいた。
「私たちは……」
セシルの唇が、小刻みに震えた。
「十秒ルールは……私たちのシステムは……」
「……あいつらには、全部見透かされてた。俺たちは狩りをしてたんじゃねえ。……向こうの都合のいい餌場に、毎日通わされてただけだったんだ」
アルドが、泥まみれの拳で地面を強く殴りつけた。
「ガランのおっさんの言う通りだった。……俺たちは、何も分かってなかったんだ」
純銀貨の輝きに麻痺していた彼らの「驕り」は、今、冷酷な現実によって完全に粉砕された。
自分たちのシステムなど、森の絶対的な生態系の前では、ただの幼稚な錯覚に過ぎなかった。
手に入れたのは、何もかもを見透かされた上での完全な敗北。
失ったのは、大金を投じて修繕した鎖帷子と新調した革鎧、高価な特級治癒薬、セシルが積み上げた戦術データ、そして……ライルの右腕の機能。
(……これが、本物の痛覚)
ライルは、泥の味と血の匂いが混ざった口の中で、静かに絶望を噛み締めた。
(王宮を抜け出して、本物の火種を持ち帰る? ……ふざけるな。僕たちはまだ、自分の身の丈すら分かっていなかった、ただの馬鹿な子供じゃないか……!)
木漏れ日が差し込む第一層の安全な空の下で、三人の少年たちは誰一人立ち上がることができず、ただ圧倒的な無力感と後悔に打ちのめされ、泥の底に這いつくばっていた。
「死の洗礼」は、英雄的な劇的さなど微塵も伴わず、ただ凄惨で、ひどくみじめな敗北の味として、彼らの心に決定的な傷を刻み込んだのだった。
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