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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第2章 死の洗礼

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第25話:銀貨の重さと、薄れゆく境界線

第25話:銀貨の重さと、薄れゆく境界線


薄暗い下部支部の冒険者ギルドは、その日も安酒と血の匂い、そして終わりのない喧騒に満ちていた。

だが、その一角にある丸テーブルだけは、周囲の薄汚れた空気から浮き上がっているかのような、異質な熱を帯びていた。


「……本日の収支報告です」

セシルが、新品の革装丁の手帳を開き、滑らかな書き味の高級な羽ペンを走らせた。

「討伐対象、第二層浅瀬における森狼(フォレストウルフ)の単独個体、一頭。および樹上猿(ツリーモンキー)の単独個体、二匹。三度のエンカウントすべてにおいて『十秒ルール』を完全遂行し、魔石のみを解体・回収して即時離脱。……本日の純利益、驚異の純銀貨十三枚です」


テーブルの中央に、無造作に積み上げられた銀貨の山が鈍い光を放っている。

一ヶ月前、第一層でスライムを狩っては銅貨を数え、泥水のようなスープを啜っていた彼らからすれば、幻覚としか思えないような莫大な富だ。


「っしゃあ……! 三日で純銀貨三十枚を突破したぜ!」

アルドがテーブルの下で拳を握り締め、興奮を抑えきれない声で唸った。

彼の身体を包んでいるのは、かつての傷だらけだった安物の革鎧ではない。ガド工房が徹夜で修繕し、破断した箇所に幾重にも補強のリングを噛ませて編み直してくれた堅牢な『黒鉄の鎖帷子』。そして、その上にギルドの武具屋で新調した、分厚く上質な艶消し黒の硬革鎧(ハードレザー)だ。


「凄まじいペースです。王都の燃料危機が深刻化するのに比例して、第二層の魔石の買取価格はまだ上がり続けている」

セシルは銀髪をかき上げ、ひび割れ一つない新品の銀縁眼鏡の奥で、計算の光を鋭く輝かせた。

「この資金があれば、私のポーションもすべて治癒院の特級品で揃えられます。……私たちの稼ぎの速度は、第一層を這いずり回っていた頃とは比較になりません」


「ああ。……僕たちのやり方は、間違っていなかったんだ」

ライルもまた、テーブルの上の銀貨を見つめながら静かに頷いた。


右手の平を開閉する。

以前は無理な魔力放出をするたびに、内側から筋肉が弾け飛ぶような激痛に襲われていた右腕は、今では微かな熱を持つ程度にまで適応していた。

「生活魔法」という安全装置を外し、魔力を直接大気に叩きつけて風の刃を形成する『短縮詠唱』。実践を重ねるごとに、ライルの身体は王族としての莫大な魔力出力を、極限まで圧縮して剣に纏わせる技術を完璧に覚え込ませていた。


(兄上たちの権力闘争に、僕たちが出涸らしとして潰される必要なんてない)

ライルは冷たい銀貨に触れ、その確かな質量を確かめた。

(僕たちには力がある。この暗闇から本物の火種を持ち帰り、下町の職人たちを救うことができる……この力さえあれば、誰も見捨てることなく、この狂った王都を変えられるはずなんだ)


「……おい、学生あがりの坊主ども」


不意に、背後から掛けられたしゃがれ声が、三人の熱を帯びた空気を冷ややかに断ち切った。

振り返ると、そこには巨大な戦斧を背負い、首元に傷だらけの銀の認識票(ドッグタグ)を下げた隻眼の男――Cランクパーティ『鉄の顎』のリーダー、ガランが立っていた。


ガランは片手にジョッキを持ったまま、テーブルの上に積まれた純銀貨の山と、アルドの真新しい外張りの革鎧を、値踏みするようにじっと見下ろした。


「……景気がいいじゃねえか。最近、受付の嬢ちゃんたちが『Eランクの銅プレートを下げたガキどもが、連日、第二層の特級魔石だけを無傷で納品してくる』って噂してたが、お前らのことだったか」


「ガランさん……」

ライルが身構えようとするのを、セシルが手で制した。


「ええ、私たちです。ですが、無茶はしていませんよ」

セシルは羽ペンを置き、冷静にガランの隻眼を見返した。

「あなたが教えてくれた『深追いするな』という鉄則は、極めて厳格に守らせていただいています。私たちは第二層の境界線から三十メートル以上奥には絶対に踏み込まず、エンカウントした単独個体を十秒以内に処理し、魔石だけを抜いて即座に離脱している。……群れに囲まれるリスクを極限まで排除した、最も合理的な狩りのシステムです」


セシルの言葉には、自分たちの編み出した戦術に対する絶対の自信が満ちていた。

論理的であり、データに基づき、実際に莫大な利益を出し続けている完璧な証明(システム)。


だが、それを聞いたガランの顔に浮かんだのは、感心でも称賛でもなかった。

彼の分厚い唇の端が、ひどく歪で、嘲るような形に吊り上がったのだ。


「……『十秒以内に処理して、即座に離脱』だぁ?」

ガランは腹の底から響くような低い声で、嗤った。

「あぁ、なるほど。そりゃあ素晴らしい『お遊戯(ゲーム)』だ。お前らみたいな頭のいい学校の坊ちゃんが考えそうな、綺麗で安全な机上の空論だな」


「机上の空論ではありません。現に私たちは、この方法で――」


「お前らが『第二層をコントロールできてる』って勘違いしてるのは、たまたまお前らが『端っこ』で遊んでるのを、森の連中が見逃してやってるだけだってことに気づいてねえのか?」

ガランの隻眼が、氷のように冷たくセシルを射抜いた。

セシルの言葉が、喉の奥で詰まる。


ガランはジョッキの底をドンッ、とテーブルに叩きつけた。


「いいか、坊主ども。第二層の魔獣ってのはな、第一層の馬鹿な猪みたいに『見つけたからとりあえず突っ込む』ような単純な獣じゃねえんだよ。奴らは観察し、学習し、そして『狩りの効率』を常に計算してる」

ガランは太い指で、テーブルの上の純銀貨を一つ弾き飛ばした。

「毎日同じ境界線に現れては、十秒だけ暴れて、魔石だけを抜いて風のように逃げていく妙なガキども。……奴らがその『規則正しい動き』を、都合のいい狩りのパターンとして学習してねえと、なぜ言い切れる?」


ライルの背筋に、冷たい悪寒が走った。

ガランの言葉は、彼らが「完璧だ」と信じて疑わなかったシステムそのものを、根底から否定するものだった。


「お前らが『浅瀬で安全に狩りをしてる』つもりになってる間にな、森の奥の本当の捕食者たちは、お前らの『逃げ帰る方向』も『十秒という限界時間』も、全部データとして腹の中に溜め込んでるんだよ」

ガランはアルドの真新しい硬革鎧をトンと叩いた。

「防具を整えたくらいで、無敵になったと勘違いするな。森が本気で牙を剥いた時、その自慢のルールごと、お前らの腸(はらわた)は黒苔の肥やしになる。……死にたくなきゃ、今日を限りに第二層から足を洗え」


ガランはそれだけ言い捨てると、再び背を向け、喧騒の中へと消えていった。


取り残されたテーブルには、重く、嫌な沈黙が落ちていた。


「……負け惜しみだろ」

アルドが、吐き捨てるように言った。

「あのおっさん、俺たちが自分らより効率よく稼いでるのが気に入らねえだけだ。俺たちの『十秒ルール』は完璧だ。あいつらが学習する前に仕留めて逃げてりゃ、問題ねえ」


「……計算上は、アルドの言う通りです」

セシルもまた、僅かに震える指で眼鏡を押し上げながら、同意した。

「第二層の魔獣の知能が高いとはいえ、十秒という短時間での交戦データだけで、私たちの陣形の致命的な弱点を完璧に解析し、先回りして罠を張るなど……確率論から言えば、限りなくゼロに近い。ガランの言葉は、長年の経験からくる過剰な危機感に過ぎません」


二人の言葉は、論理的で正しかった。

これまでの数日間、一度も危機に陥ることなく、安全に稼ぎ続けてきたという絶対的な「事実」が、彼らの言葉を裏付けている。


だが、ライルの心の中には、泥のように重く、得体の知れない不安がドロドロと渦巻いていた。


(……本当に、僕たちはコントロールできているのか?)


ライルは自分の両手を見つめた。

言葉を削ぎ落とした魔法。それを使えば使うほど、威力が上がれば上がるほど、自分の中の何かが「森の狂気」に同調していくような、不気味な感覚。

「十秒で狩れる」という成功体験が、死への恐怖を麻痺させ、「もっと行ける」「もっと奥の、もっと高価な魔石を」という、果てのない欲求(渇き)へと彼らを駆り立てている。


狂っているのは、王都の魔石相場だけではない。

その相場に踊らされ、死の境界線を反復横跳びしている自分たちの『感覚』こそが、すでに狂い始めているのではないか。


「……ライル? どうしたんですか、顔色が悪いですよ」

セシルの声に、ライルはハッと顔を上げた。


「いや……なんでもない。セシルの言う通りだ、僕たちのルールは機能してる」

ライルは、心の奥底で鳴り響く警鐘を、無理やり銀貨の輝きで押し潰した。

「明日も、予定通り行こう。……あと少し、あと少しこのペースで稼げば、石炭街のすべての炉に火を灯せるだけの魔石が確保できる。そうすれば、一旦第二層からは手を引こう」


「ああ、分かった」

「了解です。明日は念のため、煙幕玉の所持数を倍に増やしておきましょう」


彼らは、ガランの警告を「過剰な脅し」として片付けた。

自分たちは特別で、理性的で、決して欲に溺れて破滅するような馬鹿な冒険者ではないと、心の底から信じていた。


だが、彼らは知らなかったのだ。

彼らが安全だと信じて疑わなかった『浅瀬の境界線』の向こう側――暗緑の深淵の奥底で、彼らが残した血の匂いと、風の魔法の魔力残滓を舐め取りながら、巨大な影が静かに彼らを『査定』し終えていたことを。


翌日。

太陽が真上に昇る、一日のうちで最も明るい時間帯。

だが、魔物の森、第二層『暗緑の領域』は、その日も陰惨な夕闇のような薄暗さに沈み、淀んだ魔力の大気を重く停滞させていた。


「……風下、異常なし。右前方、距離三十メートル。……気配が、一つ」

ライルは黒苔の上に身を伏せ、極限まで研ぎ澄ませた感覚で大気の波紋を読み取った。

いつもと同じ、完璧なプロセス。

風下に群れの伏兵がいないことを確認し、孤立した単独個体だけを標的にする。


「目標確認。……大角兎(ホーンラビット)の突然変異種、でしょうか。第一層の個体より二回り以上大きく、角が黒く濁っています」

シダの隙間から覗き込んだセシルが、懐中時計の蓋をカチリと開けた。

「動きは鈍いですね。……作戦通り、十秒で仕留めて離脱します。アルド、ライル。行けますね?」


「ああ」

「当然だ」


セシルの合図と同時。

アルドが音もなく黒苔を蹴り、漆黒の直剣を地面すれすれに低く構えたまま、変異種の大角兎の死角へと滑り込むように突進した。

十秒で狩るための、寸分の狂いもない完璧な殺意の軌道。


だが。

アルドが踏み込み、黒角直剣を振りかぶろうとした、その瞬間だった。


(……え?)

後方で援護の魔法を練り上げていたライルの全身の毛穴が、一気に爆発するように開いた。


大気の波紋が、狂った。


今まで「一つ」しか感じなかった大角兎の気配の真下――分厚い黒苔の絨毯の『地中』から。

全く感知できなかった五つの巨大な気配が、同時に、爆発的な速度で急浮上してきたのだ。


「アルド!! 止まれ!! 罠だ!!」

ライルが喉が裂けるほどの絶叫を上げた。


しかし、踏み込んだアルドの勢いは急には止まれない。

直後。

アルドの足元の黒苔が、まるで地雷が爆発したかのように、凄まじい勢いで真上へと吹き飛んだ。


「なっ――!?」

土塊と腐葉土を撒き散らしながら、地中から飛び出してきたのは、全身を泥と苔で偽装した巨大な灰色の獣たち――『森狼(フォレストウルフ)』の群れだった。


彼らは、第一層から来た獲物が「単独個体」しか狙わないことを完全に学習していた。

だからこそ、動きの鈍い大角兎を『囮』として配置し、群れの主力は自らの気配と匂いを殺すために、深い泥と苔の中に潜って、獲物が自ら『死地』へと飛び込んでくるのを、何時間も、何時間も、じっと待ち伏せていたのだ。


「ガアァァァッ!!」

泥の中から飛び出した二頭の森狼が、完全に体勢を崩したアルドの両脚を、左右から同時に挟み込むように噛み砕きにくる。


「――土(アース)!!」

ライルが咄嗟に魔力を直結させ、アルドの足元に岩のスパイクを隆起させた。

ガギィッ!

岩の壁が間一髪で森狼の牙を弾き、アルドは辛うじて足を噛み千切られるのを免れたが、弾き飛ばされた衝撃で大きく後方へ吹き飛ばされ、地面を無様に転がった。


「アルド!」

セシルが煙幕玉を握り締め、援護のために飛び出そうとした。


だが、森狼たちの知略は、彼らの小手先の連携を遥かに凌駕していた。

地中から現れたのは、アルドを襲った二頭だけではない。

アルドが吹き飛ばされ、ライルとセシルの『前衛(盾)』が完全に機能しなくなったそのコンマ一秒の隙を突いて。


残りの三頭が、最初から「後衛を殺すため」の完璧な包囲陣形を敷き、ライルとセシルの左右と背後の死角から、音もなく跳躍していたのだ。


「しまっ――」

セシルが振り返るよりも早く。

右の死角から飛びかかってきた森狼の巨体が、セシルの細い身体を軽トラックのような質量で激しく撥ね飛ばした。


「ガァッ……!」

煙幕玉を投げる暇すら与えられず、セシルは巨木の幹に激突し、真新しい眼鏡を粉々に砕いて地面に崩れ落ちた。


「セシル!!」

ライルが絶叫し、右手の剣に風の魔力を纏わせようとした。


だが、遅い。

魔法を起動させるよりも、剣を振り上げるよりも早く。

群れの中で最も巨大な、傷だらけのリーダー格の森狼が、ライルの真正面から、その鋭い牙を剥き出しにして、押し倒すように飛びかかってきた。


ドスゥンッ!!

という鈍い衝撃とともに、ライルは黒苔の上に仰向けに押し倒された。


「……あ、ぁ……」

ライルの視界が、絶望的なまでに巨大な獣の顎で覆い尽くされる。

喉元に押し当てられた鋭い牙。顔に滴り落ちる、獣の生暖かい涎と、泥と血の匂い。

身動き一つ取れない。腕を動かそうとすれば、即座に喉笛を噛み砕かれるという絶対的な死の威圧感が、ライルの全身の自由を完全に奪っていた。


(……やられた)

ライルの頭の中が、真っ白に染まる。


「十秒ルール」。

「安全な浅瀬での狩り」。

「群れを避ける索敵」。

彼らが知恵を絞り、完璧だと信じて疑わなかったそのすべてのシステムが、森の捕食者たちにとっては、自らの獲物を最も確実な罠へと誘い込むための「便利な習性」として逆利用されていたのだ。


『お前らが浅瀬で安全に狩りをしてるつもりになってる間にな、森の奥の本当の捕食者たちは、お前らの動きを全部データとして腹の中に溜め込んでるんだよ』


ガランの冷酷な言葉が、脳裏に蘇る。


リーダー格の森狼は、すぐにライルの喉を噛み砕こうとはしなかった。

ただ、その黄金色の冷酷な瞳で、仰向けになって震える人間の少年を、ゆっくりと、値踏みするように見下ろしている。

それはまるで、「お前たちのお遊戯(ゲーム)は、ここで終わりだ」と宣告するような、圧倒的で知的な捕食者の瞳だった。


「や、やめろ……ッ!」

吹き飛ばされたアルドが、泥まみれになりながら黒角直剣に縋り付いて立ち上がろうとする。

だが、その周囲にはすでに二頭の森狼が立ち塞がり、アルドの動きを完全に封じ込めていた。セシルは巨木の下で気を失い、ピクリとも動かない。


完全に、詰んだ。

計算も、ルールも、金で買った防具も、すべてが意味を為さない絶対的な暴力の結末。


魔物の森、第二層。

少年たちの浅はかな驕りは、この暗緑の深淵が仕掛けた完璧な「死の罠」によって、無残にも噛み砕かれようとしていた。

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