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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第2章 死の洗礼

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第24話:高騰する火種と、甘い毒

第24話:高騰する火種と、甘い毒


王都外縁、石炭街。

季節は初夏へと向かっているというのに、この街を覆う空気は冬の真ん中のように冷たく、そして重く沈み込んでいた。


カァン……カァン……と、力のない金槌の音がまばらに響く。

かつては通り全体から立ち上っていた、空を黒く焦がすほどの活気ある排煙は、今やすっかり途絶えていた。建国祭以降、異常なまでの高騰を続ける魔石相場の煽りを受け、中堅から下層の鍛冶工房や硝子工房は、次々と炉の火を落とすことを余儀なくされていたからだ。


第一王子ギリウス派が、防衛と威信の象徴として正規軍の魔法兵器用の魔石を市中から強引に吸い上げ、対抗する次兄のグリード派が、辺境の私兵団を強化するために備蓄物資を天井知らずの価格で買い占めている。

王宮の冷暖房やシャンデリアの輝きが失われることは決してないが、そのしわ寄せはすべて、この泥臭い下部区域へと押し寄せていた。


職人たちは冷え切った金床の前に座り込み、仕事のない手を持て余しながら、恨めしそうに王宮のそびえる丘を見上げている。昨日まで元気に走り回っていた職人の子供たちも、今日はお腹を空かせて路地の隅でうずくまっていた。


(……これが、兄上たちの政治の「結果」だ)

通りを歩きながら、ライルは唇を噛み締めた。

机上の空論と、地図の上で駒を動かすような数万の金貨の応酬。その見えない刃が、この街の生産と活力を根元から切り裂いている。


だが、その死に絶えつつある通りの中で、ただ一軒だけ、猛烈な熱気と黒煙を力強く吐き出し続けている工房があった。


「オラァッ! もっと鞴(ふいご)を踏み込め! 火の温度が二度下がってんぞ!」


ガドのドワーフ工房。

分厚い革暖簾をくぐると、そこは外の冷気が嘘のような灼熱の空間だった。炉の奥では、ライルたちが持ち帰った特級魔石が今も紅蓮の炎を上げ、周囲の休業した工房から仕事を求めて集まってきた若い見習い職人たちが、汗だくになって鉄を打っている。

しかし、その活気すらも、ガドの顔に深く刻まれた険しい皺を伸ばすには至っていなかった。


「……親父さん。鎖帷子の具合は、どうだ?」

カウンターの前に立ったアルドが、申し訳なさそうに声をかけた。


ガドは作業台の上に広げたアルドの『黒鉄の鎖帷子』を睨みつけ、太い指で引きちぎられたリングの跡をなぞった。

「ひどい有様だ。外張りの革鎧は完全にスクラップ、鎖帷子も脇腹から裏腿にかけて、四十箇所以上リングが弾け飛んでる。相手の爪と牙が、的確にお前の重心を崩す場所を狙ってきた証拠だ。……俺が裏地に仕込んだ急所用の鋼板がなけりゃ、今頃お前さんは自慢の腸(はらわた)を森の土にぶち撒けてたところだぜ」


「……返す言葉もねえよ」

アルドがバツの悪そうに頭を掻く。第二層の森狼(フォレストウルフ)の群れに囲まれ、なす術なく引き裂かれた恐怖が、未だにアルドの指先に微かな震えを残していた。


「ドワーフの旦那、修繕費はどのくらいになりそうですか」

セシルが手帳を開き、緊張した面持ちで尋ねた。


ガドは短い溜め息をつき、首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭った。

「通常なら、純銀貨二枚ってところだ。だが……今の王都の相場じゃ、炉を動かすための火魔石が高すぎて、その値段じゃ割に合わねえ。純銀貨三枚はもらわねえと、他の職人たちの払いが滞る。悪いが、負けられねえぞ」


純銀貨三枚。

それは、彼らが第一層で大角兎や牙猪を何十頭も狩り、何週間も泥水をすすってようやく手が届いた大金だ。

だが、セシルは一切の躊躇なく、腰の皮袋から銀貨を取り出してカウンターに並べた。


「……分かりました。それで修繕をお願いします。それと、予備の止血ポーションと、新しい煙幕玉の材料も手配してください」

セシルは銀貨の残りを数えながら、その切れ長の瞳に冷徹な光を宿した。

「痛い出費ですが、この投資は必ず回収します。今の相場なら、森狼の魔石を一つ持ち帰るだけで、純銀貨四枚以上の値がつく。……第二層の素材は、それだけのリターンを生むんです」


その言葉を聞いた瞬間、ガドの金槌を握る手がピタリと止まった。

炉の炎に赤く照らされた老ドワーフの隻眼が、ゆっくりと三人の少年たちに向けられる。その眼差しは、鉄の温度を見極める時よりもはるかに鋭く、そして冷たかった。


「……お前さんたち、第二層の深淵から命からがら逃げ帰ってきたばかりだろ。その傷を見りゃ分かる。あのガランって片目の男が率いる『鉄の顎』と同じ、死の淵の匂いが染み付いてやがる」

ガドは低い声で唸るように言った。

「街の相場が狂ってるのは確かだ。俺の工房の前に並んでる連中も、明日のパンを買うために火を欲しがってる。……だがな、坊主ども。欲に目が眩んだ奴から順番に、あの森の泥に飲まれていくんだ。俺は今まで、その『リターン』とやらを計算して森に入り、死体すら持ち帰れなかった馬鹿な冒険者を、何百人と見てきた」


ガドは太い指で、カウンターに置かれた純銀貨をトンと叩いた。


「相場が上がれば上がるほど、森は冒険者の血を啜る。お前ら、まさかあの森を『計算で支配できる』なんて驕ってねえだろうな?」


図星を突かれたセシルが、ビクッと肩を震わせた。

ガドの言葉は、頭の良すぎるセシルの「帳簿上の計算」が、森の理不尽な暴力の前では無意味であることを的確に指摘していた。


「親父さんの言う通りだ」

ライルが一歩前に出て、ガドの目を真っ直ぐに見返した。

「あの森は、計算で支配なんてできない。僕たちは先日、完全に森狼の掌の上で踊らされて、見逃してもらっただけの『餌』でした。……自分の命の値段も、あの暗闇の恐ろしさも、嫌というほど味わいました」


ライルの瞳には、かつての温室育ちの甘さは微塵もなかった。

だが、恐怖に萎縮しているわけでもない。そこにあったのは、冷徹な自己分析と、強烈な目的意識に裏打ちされた「鋭い光」だった。


(兄上たちの権力闘争のせいで、この街から火が消えようとしている。この国の痛覚を知った王族として、それをただ見過ごすわけにはいかない)


胸の奥で渦巻くその想いを隠し、ライルは一介の平民冒険者として、静かに、だが熱を込めて言葉を紡いだ。


「だからこそ、もう一度行きます。……雲の上の連中の勝手な都合で、親父さんたち職人が火を奪われ、この街が潰されていくのをただ見ているなんてできない。僕たちの手で、本物の火種をここに持ち帰るために」


その光を見たガドは、数秒の沈黙の後、小さく鼻を鳴らして金槌を再び手にした。


「……王宮を恨むガキは腐るほどいるが、自分で泥をかぶって火を取り返しに行こうとする馬鹿はお前さんくらいだ。……いいだろう。明日の夕方までに、この鎖帷子を俺の意地にかけて最高の強度で編み直してやる。死ぬんじゃねえぞ、命知らずの坊主ども」


二日後。

魔物の森、第二層『暗緑の領域』。

太陽の光を完全に拒絶する巨木の樹冠と、足音をすべて吸い込む黒苔の絨毯。

浅瀬の境界線からわずか三十メートル踏み入った場所で、三人は腐葉土と苔の間に身を伏せ、息を完全に殺していた。


「……左前方。距離二十五メートル。大きな気配が一つ。群れじゃない」

ライルが目を閉じ、大気の揺らぎを慎重に読み取って極小の声で告げる。

実際の感覚では四十メートル先にあるように感じる波紋を、先日のセシルとの特訓の成果により、脳内で冷静に補正し、正確な距離を割り出していた。


「目標確認。樹上猿(ツリーモンキー)の単独個体です。……木の実を探して地面に降りていますね」

シダの葉の隙間から覗き込んでいたセシルが、懐中時計を取り出して秒針を見つめた。

「作戦通り、制限時間は『十秒』。仕留めたら即座に解体して境界線へ撤退。血の匂いに別の群れが惹きつけられる前に、確実に離脱します。一秒でも遅れたら、素材を放棄して逃げる。……アルド、ライル。行けますね?」


「ああ」

「当然だ」


セシルの合図と同時。

アルドが音もなく黒苔を蹴り、漆黒の直剣を地面すれすれに低く構えたまま、樹上猿の死角へと滑り込むように突進した。

修繕され、さらに強靭さを増したガド特製の鎖帷子が、アルドの筋肉の動きに合わせて滑らかに擦れ合う。


「ギッ!?」

殺気に気づいた樹上猿が振り返り、迎撃のために自慢の鉤爪を振り上げようとした。

だが、初陣の時のように、アルドは大振りの一撃で自らの隙を晒すような真似はしなかった。アルドは踏み込みの勢いを殺さず、直剣の柄で樹上猿の顎を下から強烈にカチ上げたのだ。


「シィッ!」

脳震盪を起こして体勢を崩した樹上猿の腹部へ、アルドのコンパクトで体重の乗った横薙ぎが走る。


「――風(ウィンド)」

後方で待機していたライルが、呼吸の如き短縮詠唱で、アルドの刃に鋭い突風の加速を付与する。

魔力を抑え込み、暴走スレスレの出力を「刃の推進力」のみに極限まで絞り込んだ、高度な技術。ライルの右腕の魔力回路がチリッと焼けるような熱を持つが、以前のように腕が弾け飛ぶような荒削りな激痛はもうない。


ズシュァァッ!

風の刃を纏った黒角直剣が、樹上猿の強靭な胴体を一瞬で両断した。


「四秒経過!」

セシルが時計を見ながら鋭く告げる。

「解体開始!」


アルドが剣を振り抜いた勢いで反転し、周囲の暗闇への警戒陣形をとる。

入れ替わるようにライルとセシルが死骸に飛びつき、セシルが短装剣で胸骨を的確にこじ開け、ライルが血まみれの魔石を指先で抉り出す。


「八秒! 消臭粉!」

セシルが小瓶の灰色の粉末を両断された肉塊にぶちまけ、強烈なアンモニア臭で血の匂いを強引に上書きする。


「十秒! 撤退!!」


その声とともに、三人は転がる死骸には目もくれず、きた道を全速力で駆け戻った。

背後の暗闇から、遠くで別の魔獣の低い唸り声が聞こえた時には、彼らはすでに太陽の光が微かに差し込む第一層の境界エリアへと抜け出していた。


「……よし」

境界線の安全地帯まで戻り、ライルは血まみれになった純度の高い魔石を、木漏れ日に透かして見つめた。

第一層の魔石とは比べ物にならない、深く、濃密な緑色に輝く結晶。それは彼らの命の危険と引き換えに手に入れた、紛れもない『火種』の塊だった。


「完全な奇襲、最小限の魔力消費、そして十秒以内の離脱。……完璧な連携です」

セシルが手帳にチェックを入れ、ひび割れた眼鏡の奥で満足げに目を細めた。

「この『浅瀬でのヒット・アンド・アウェイ』を徹底すれば、群れに囲まれるリスクを極限までゼロに近づけることができる。……私たちは、第二層で安全に狩る術を、確かに手に入れました」


アルドも黒角直剣の血を布で拭い、ニヤリと笑った。

「なんだ、やり方さえ間違えなけりゃ、案外どうにかなるもんじゃねえか。ガランのおっさんが脅すほど、第二層も無敵じゃねえよ」


その日の夕方。

ギルドの買取カウンターで査定を受けた三人は、押し黙ったまま、目の前に積まれた銀貨を見つめていた。


「……樹上猿の魔石、一つですね。毛皮や爪の素材剥ぎ取りは無しですか」

受付嬢は魔石だけが置かれたトレイを見て確認した後、信じられないものを見るような目で彼らを見つめ直した。

「……ですが、現在の特別相場を適用して、この魔石一つだけで純銀貨四枚になります。受領のサインを」


カウンターの周囲にいる下級冒険者たちや、歴戦のベテランたちも、Eランクの銅プレートを下げた泥だらけの学生たちが手にした異常な額の報酬を見て、嫉妬と羨望の入り混じった視線を向けている。


たった十秒の戦闘。素材の剥ぎ取りすら放棄した、たった一つの魔石。

それだけで、かつて彼らが第一層で泥水にまみれ、二週間以上かけてようやく稼ぎ出した金額の半分を、あっさりと手に入れてしまったのだ。


「魔石一個で……純銀貨、四枚……」

アルドが震える手で、冷たい銀の硬貨を掴み取った。

「おい、セシル。これなら……面倒な解体作業なんて一切やらなくても、魔石だけ抜いて逃げりゃボロ儲けじゃねえか。ポーションだって、ギルドの最高級品が余裕で買えるぞ」


「ええ……。資本の回転速度が、第一層とは比較になりません。このペースで一週間に三回、確実に浅瀬で単独個体を狩り続ければ……」

セシルは手帳の余白に凄まじい勢いで計算式を書き込み、ゴクリと唾を飲んだ。

「一ヶ月で、私たちは王都の中流階級が一生遊んで暮らせるだけの資金を手にします。ガド工房だけじゃない。この狂った相場の中で、石炭街のすべての鍛冶屋に、私たちが火を配ることすら可能になる」


ライルもまた、自分の手のひらを見つめていた。

言葉を削ぎ落とした魔法。研ぎ澄まされた連携。そして、セシルの編み出した「十秒ルール」。

自分たちの工夫と努力が、この狂った王都の相場を出し抜き、確かな「力」と「金」に変換されていく圧倒的な全能感が、ライルの胸の奥を満たし始めていた。


「……明日も、行こう」

ライルは、誰かに背中を押されるように、その言葉を口にしていた。

「ルールさえ守れば、僕たちは死なない。深追いをせず、浅瀬で十秒以内に狩る。そのルールを完璧に守り続ければ……僕たちは、この国を変えられるかもしれないんだ」


純銀貨の冷たい輝きと、第二層での鮮やかな成功体験。

それは、恐怖を麻痺させ、彼らの冷静な判断力を少しずつ、だが確実に狂わせていく「甘い毒」だった。


ガランが言った「決して深追いするな」「森の養分になる」という警告。

彼らはそれを守っているつもりだった。自分たちは賢く、理性的で、決して欲に溺れることはないのだと。

だが、彼らは気づいていなかった。


『十秒で狩れる』という自信こそが。

『自分たちは第二層をコントロールできている』というその驕りこそが。

森の深淵に棲む絶対的な暴威からすれば、最も御しやすく、最も美味しい「無知な獲物の匂い」であることを。


少年たちの足取りは、王宮の政治ゲームを出し抜いたという無邪気な高揚感とともに、取り返しのつかない暗緑の奈落へ向かって、少しずつ、少しずつ、その歩みを早めていた。

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