第23話:銀の認識票(ドッグタグ)と狂乱の相場
第23話:銀の認識票と狂乱の相場
王都下部支部、冒険者ギルド。
鉄の錆、安いエール、そして血と汗が入り混じったむせ返るようなその空間に、重い木扉を押し開けて三人の少年が転がり込んできた。
ボロボロに引き裂かれた革鎧と、リングが弾け飛んだ無残な鎖帷子。泥と煤で汚れた顔。そして、死の淵を覗き込んできた者特有の、焦点の定まらない虚ろな瞳。
喧騒に包まれていた一階の酒場スペースが、彼らの姿を見た瞬間にわずかに静まったが、「ああ、また無茶をしたガキどもか」「森狼の縄張りにでも踏み込んだな」とすぐに興味を失い、再び卑猥な冗談とジョッキのぶつかる音に包まれた。
ギルドにおいて、血に塗れて這い戻ってくる駆け出しの姿など、毎日見飽きた退屈な日常風景に過ぎないのだ。
三人は壁際の空いている丸テーブルに倒れ込むようにして座った。
「……本日の収支報告です」
セシルが、震える手で懐から手帳を取り出し、ひしゃげた羽ペンを走らせた。
「討伐した樹上猿五匹、および森狼一頭の素材回収、ゼロ。使用した特製催涙煙幕玉、二つ。アルドの革鎧の外張り完全損壊、および黒鉄の鎖帷子の広範囲なリング欠損によるドワーフ工房での修繕費の予測……。差し引きで、純銀貨五枚以上の『完全な赤字』です」
「……わりぃ」
アルドがテーブルに突っ伏したまま、呻くように言った。
「俺が調子に乗って、最初の一頭に飛びかかったせいだ。あそこで慎重に様子を見ていれば……」
「いいえ。あの群れは、私たちが境界線を越えた直後から、すでに風下で陣形を組んでいました。アルドが突っ込まなくても、結果は同じです」
セシルは羽ペンを置き、両手で顔を覆った。いつも整っている彼の銀髪も、今は泥と汗で額にへばりついている。
「私の計算が甘かった。ギルドの資料室で得た情報を過信し、魔獣をただの『個体のデータ』としてしか見ていなかった。あの森の本当の恐ろしさは、個人の武力や魔法の威力ではなく、群れ全体が一つの生き物のように連動する『軍隊としての戦術』にあったのに」
ライルも無言のまま、自分の右腕をさすっていた。
言葉を削ぎ落とした風の刃は、確かに通用した。だが、群れを相手にする以上、いくら自分の魔法の威力が上がろうと、前衛であるアルドが死角から噛み砕かれれば、パーティは一瞬で全滅する。
個人の魔力など、あの森のシステムの前ではあまりにも無力だった。
「――お前ら、第二層の『暗緑』に足を踏み入れたな?」
不意に、頭上から太くしゃがれた声が降ってきた。
見上げると、そこには丸太のような腕に無数の獣の爪痕(古傷)を刻んだ、大柄な男が立っていた。
背中にはドワーフ製とは異なる無骨で巨大な戦斧を背負い、左目は白濁して潰れている。首元で鈍い光を放っているのは、Eランクの銅やDランクの鉄ではない――歴戦の熟練冒険者であることを示す『Cランク』の銀色の認識票だ。
「……あんたは」
アルドが顔を上げる。
「俺は『鉄の顎』のリーダー、ガランだ。……お前らみたいな学生あがりのひよっこが、生意気にも銅のプレートをぶら下げてうろついてるのは見かけてたがな」
ガランはドンッ、と三人のテーブルに、泡立つエールの木製ジョッキを三つ乱暴に置いた。
「飲め。狼の小便と泥の臭いが染み付いてて、こっちまで酒が不味くなる」
ライルたちは戸惑いながらも、極度の喉の渇きに抗えず、出された安酒(子供でも飲めるほど水で薄められたものだった)を胃に流し込んだ。
ガランはアルドのボロボロになった鎖帷子と、革鎧の裂け目をじっと見下ろした。
「喉元や胸の急所ではなく、脇腹とアキレス腱、それから裏腿の関節を的確に削るように狙われた裂け目だ。……森狼の連携に囲まれたな?」
「……なぜ、分かるんですか」
ライルが驚いて尋ねると、ガランは鼻で笑った。
「第二層を主戦場にしてりゃ、防具の傷跡一つで相手の動きが手に取るように分かるようになる。……それにしても、驚いたぜ。あの連中の包囲網に完全に入り込んで、誰一人欠けずに、自分の足でこのギルドに帰ってきやがった。大した悪運だ」
ガランは空いている椅子にどっかと腰を下ろし、一つしかない右目で三人を見据えた。
「お前ら、煙幕か悪臭玉を使って強引に逃げたんだろ? 賢い判断だ。もしあそこで、欲を出して倒した狼の魔石を抜こうと三秒立ち止まっていれば、今頃お前らの腸は、黒苔の上で狼どもの晩飯になってた」
「三秒……」
セシルが息を呑む。
「そうだ。いいか、学生上がりの坊主ども。第二層で生き残るための『鉄則』を一つだけ教えてやる」
ガランは身を乗り出し、太い指を三人の前に突き出した。
「『決して、深追いするな』。そして――『仲間が暗闇に引きずり込まれたら、三秒で見捨てろ』だ」
その冷酷な言葉に、ライルとアルドは息を止めた。
「見捨てろ、だって……?」
アルドが思わずテーブルに身を乗り出し、声を荒げた。
「ふざけるな! 仲間を見捨てて逃げるくらいなら、冒険者になんて――」
「なるな。なら今すぐギルドのプレートをへし折って、お上品な学校の温室に帰れ」
ガランの隻眼が、氷のように冷たくアルドを射抜いた。アルドの怒声は、歴戦の殺気に当てられて喉の奥で完全に凍りついた。
ガランは自分の首元にかかっている、幾つもの爪痕が刻まれた『Cランクの銀の認識票』を指先で弾いた。
チャリン、と鈍く重い音が鳴る。
「なぜCランク以上のプレートが、わざわざ目立つ首飾りの形になっているか分かるか? ……第二層より深い場所で死んだ奴の『死体』は、絶対に持ち帰れないからだ」
ガランの声は、酒場の喧騒の中でも異様に通る、低く重い響きを持っていた。
「魔獣の巣に引きずり込まれた仲間の肉を取り返そうとすれば、残りのメンバーも全員死ぬ。だから俺たちは、仲間が喰われているその隙に、首元からこの『銀の札』だけを引き千切って逃げるんだ。……それが、第二層の戦い方だ」
ライルの背筋に、冷たい氷の柱をねじ込まれたような悪寒が走った。
冒険者の死とは、英雄譚にあるような美しい犠牲ではない。
ただ泥の中で魔獣の胃袋に収まり、銀の札一枚という「事務的なデータ」に還元されるだけの、絶対的な無だ。
「……あの森の奥じゃ、俺たちは狩人じゃねえ。ただの『餌』だ。その自覚を持てない奴から、順番に森の肥やしになる」
ガランは立ち上がり、背中の巨大な戦斧を揺らした。
「まあ、初陣で死ななかったその悪運と逃げ足だけは褒めてやるよ。生きてりゃ、いつか銀の札を首に下げる日も来るだろうさ」
ガランは背を向け、奥のテーブルで騒いでいる自身のパーティ――大柄な盾持ちや、魔法の杖を立てかけた女魔術師たちが待つ『鉄の顎』の席へと戻っていった。
取り残されたテーブルには、重く、陰惨な沈黙だけが落ちていた。
「……仲間を、三秒で見捨てる」
アルドが自分の両手を握りしめ、ギリッと歯を鳴らした。
「そんなこと、俺にできるわけがねえ……」
「ええ。私も、計算上はそれが最も合理的だと理解できますが……実際にライルやあなたが狼に引きずり込まれた時、背を向けて逃げられる自信はありません」
セシルは静かに手帳を閉じ、冷たくなったエールのジョッキを見つめた。
ライルは自分の胸元にある、Eランクの真新しい『銅のプレート』を服の上からそっと握った。
王宮の兄たちは、数万人の兵士を「盤上の駒」として平然と切り捨てる。
そして、この泥臭いギルドのベテランたちもまた、生き残るために仲間を「銀の札」として切り捨てる覚悟を持っている。
(……僕はどうだ?)
ライルは自問した。
もしあそこで、アルドの足が森狼の牙に捕まっていたら。自分は風の魔法で援護を諦め、彼を見捨てて逃げることができただろうか。
答えは「否」だ。絶対に、見捨てることなどできなかっただろう。自分たちはまだ、「部活」の延長線上にある甘い感情から抜け出せていない。
だが、沈黙を破ったのは、そんな彼らの感傷を吹き飛ばすような、ギルドの受付カウンターからの大きなどよめきだった。
「おい、マジかよ! 今週から第二層指定の魔石の買い取り価格が、また二倍に跳ね上がってるぞ!」
「二倍だと!? じゃあ、森狼の魔石一つで、銀貨三枚は下らねえじゃねえか!」
ライルたちは弾かれたように顔を上げた。
セシルが慌てて立ち上がり、カウンターの掲示板へと小走りで向かう。数分後、戻ってきたセシルの顔は、驚愕と計算の光で青ざめていた。
「……ライル、アルド。王都の燃料危機が、ついに限界を超えたようです」
セシルは手帳に新しい数字を書き込みながら、声を潜めて言った。
「第一王子派が正規軍の維持費として市中の魔石を吸い上げ続け、次兄のグリード殿下が私兵団の冬営準備として買い占めを加速させている。結果、ガド工房のようなごく一部の互助会を除く市井の鍛冶屋やパン屋の炉が、相次いで完全に停止しました」
「相場が跳ね上がったってことか」
アルドが身を乗り出す。
「ええ。純度の高い第二層の魔石――私たちがさっき蹴り捨ててきた樹上猿や森狼の魔石は今、一つで平民の家族が半月は暮らせるほどの異常な高値で取引されています」
セシルは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「ガランの言う『深追いするな』は絶対に正しい。ですが……今の相場なら、森狼の魔石を二つ持ち帰るだけで、アルドの鎖帷子を新品の硬鋼に新調し、私たちのポーションを最高級品に買い替えても、まだ釣りが来ます」
「……」
アルドが息を呑む音が聞こえた。
ライルもまた、胸の奥で黒い炎がチリチリと燃え上がるのを感じた。
王宮の温室で震えているだけだった自分たちが、もし第二層の魔石を持ち帰れば。
冷え切った街の炉に火を灯し、兄たちの作った理不尽な相場すら、自分たちの腕一つでひっくり返せるかもしれないのだ。
「……明日は、休耕地で陣形の再確認だ」
ライルは絞り出すように言った。
「でも、明後日は……もう一度、境界を越えよう。僕たちはまだ、逃げてばかりの『餌』で終わるわけにはいかない」
「ああ、分かってる」
アルドが力強く頷く。セシルも無言で手帳を叩いた。
ギルドの外に出ると、王都の夜風がひどく冷たかった。
消えた街灯のせいで、通りは足元も見えないほどの暗闇に包まれている。
ライルは振り返り、王都の防壁の向こう――西の夜空に広がる、巨大な黒い森の輪郭を見つめた。
狂乱する魔石の相場という「欲」が、死の恐怖を上書きしようとしている。それはまさに、ガランが警告した「森の養分になる奴の条件」そのものだった。
だが、その誘惑に抗うには、彼らはすでに泥の味を知りすぎていた。
少年たちの心に、無自覚な功名心と、危険な「驕り」の種が、静かに、だが確実に芽吹き始めていた。
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