第22話:狩人の包囲網
第22話:狩人の包囲網
王立貴族階級学校の裏庭に潜む旧厩舎。そのさらに裏手にある鬱蒼とした雑木林の中で、ライルは目を閉じ、右手の軽量鋼の剣を静かに構えていた。
「……ッ!」
ライルが短く息を吐き出すと同時。
「――風」
極限まで圧縮した短い起動句とともに、剣の峰の背後に爆発的な突風が巻き起こり、刃が空気を切り裂いて不可視の速度で振り抜かれた。
シュバァァンッ!
標的に見立てていた太い樫の枝が、何の抵抗もなく斜めに両断され、ドサリと地面に落ちる。
「……威力と速度は申し分ありません。ですが、発動までにまだ『コンマ二秒』の遅れがある。それに、魔力の放出量が荒すぎて、右腕の筋肉が反動に負けかけていますよ」
少し離れた切り株に座り、手帳にタイムを記録していたセシルが、眼鏡を押し上げながら指摘した。
「わかってる。……でも、これ以上言葉を削ると、魔力が暴走して腕の内側から破裂しそうになるんだ」
ライルは剣を下ろし、焼け付くように熱を持った右腕の魔力回路を左手で強く押さえた。
樹上猿との初戦から数日。放課後の限られた時間を使って、ライルは『短縮詠唱』の感覚を身体に叩き込む特訓を続けていた。
「生活魔法」という安全なパイプを外し、魔力を直接大気に叩きつける感覚。威力は跳ね上がったが、それはじゃじゃ馬の手綱を素手で握りしめるような、極めて危険で繊細な作業だった。
「焦る必要はねえよ、ライル。あの猿どもを真っ二つにしただけでも、十分すぎる威力だ」
傍らで、黒角直剣の手入れをしていたアルドが笑う。
「俺だって、この黒角の重さに完全に慣れたわけじゃねえ。……だが、今日はいける気がするぜ。準備は整ったんだろ?」
「ええ。ですが、問題は魔法の短縮だけではありません。ライル、索敵の訓練を」
セシルは懐から、小石の入った革袋を取り出し、背後の茂みへ向かって力一杯投げ込んだ。
ガサリッ。
数十メートル先で、落ちた小石が葉を揺らす音が鳴る。
「今の音源、距離と方角は?」
セシルが間髪入れずに問う。
「……右斜め前。距離は、三十……いや、四十メートルくらい……」
ライルは目を閉じ、大気の揺らぎを追いかけて答える。
セシルは手帳を開き、事前に巻き尺で測っておいた林の地形図と照らし合わせた。
「不正解です。実際は二十五メートルの地点。……あなたの感知は、実際の距離より『遠く』に錯覚する傾向が強い。魔力のノイズが濃いほど、波紋の伝わり方が歪むからです」
「二十五メートル……そんなにズレてたのか」
ライルは愕然として目を開けた。
「魔獣の突進における十五メートルの誤差は、即ち私たちの死です」
セシルは容赦なく告げた。
「正確な距離など測れなくてもいい。ですが、『波の揺らぎがこの程度なら、自分たちが思っている以上に敵は近い』という感覚の補正だけは、常に頭の片隅に置いてください。……では、実践にいきましょう。目標は第二層の境界付近での『ヒット・アンド・アウェイ』です」
三人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。
目指すは再び、あの暗緑の深淵。
魔物の森、第二層『暗緑の領域』。
黒ずんだ苔の絨毯を踏みしめ、太陽の光を完全に拒絶する巨木群の隙間へと足を踏み入れた瞬間、再びあの暴力的な魔力の重圧が三人を包み込んだ。
肺の奥を焼くような大気の淀み。
ライルは荒れ狂う魔力のノイズを「背景」として受け流し、神経を極限まで研ぎ澄ませた。
(……風下からは、何も来ない)
ライルは目を閉じ、肌を撫でる冷たい空気の流れに意識を溶かす。
(右前方……シダの群生の奥。大気との摩擦音が大きい。樹上猿じゃない。四足歩行の……獣の気配が一つ。……距離は……)
ライルは先ほどのセシルの忠告を思い出した。
自分の感覚では四十メートル以上離れているように感じる。だが、この濃密な魔力の中では波紋が遠く感じるのだ。
「……右前方。おそらく、二十メートルから三十メートルの間。獣の気配が一つ。……数ははっきりしないけど、まとまった大きな揺れはない」
ライルが極小の声で告げると、アルドとセシルが即座に身を低くした。
「森狼の『はぐれ』かもしれませんね」
セシルの目が冷徹な光を帯びる。
「単独なら今の私たちの敵ではない。アルドが正面から叩き潰し、十秒で魔石を抜いて撤退します」
三人は足音を完全に殺し、黒苔の上を滑るようにして右前方へと間合いを詰めていった。
シダの葉の隙間から、灰色の体毛に覆われた巨大な狼の背中が見えた。大人の人間ほどの体高があり、鋭い牙の間からは熱い吐息が白い糸を引いている。ライルの予測した通り、距離はおよそ二十五メートル地点だった。
獲物の匂いを探っているのか、地面に鼻をこすりつけており、こちらには全く気づいていない。
「……もらったぜ」
アルドが黒角直剣を両手で構え、一気にシダの群生を突き破って跳躍した。
「シィィッ!」
アルドの剛腕から放たれた漆黒の刃が、無防備な森狼の首筋めがけて大上段から振り下ろされる。
奇襲は完璧だった。アルドの踏み込みにも、刃の軌道にも、一切の迷いはなかった。
だが――。
「グルルルルッ!」
振り下ろされる直前。まるで背中に目がついているかのように、森狼は不自然なほど滑らかな動きで真横へと跳躍し、アルドの必殺の一撃を紙一重で回避したのだ。
ズガァァァンッ!
黒角直剣が黒苔の地面を深く抉り、土塊が爆発するように飛び散る。
「なっ……!?」
アルドが驚愕に目を見開いた。
回避した森狼は、アルドへ反撃するそぶりすら見せず、そのまま後方の深い暗闇へと向かって駆け出し――天を仰いで、長く、甲高い遠吠えを上げた。
アォォォォォォーーッ!!
その声は、森の深淵へと不気味に木霊し、すぐに別の遠吠えが『三方向』から重なるようにして響き返してきた。
「――ッ! アルド、下がれ! 罠だ!!」
ライルが血相を変えて叫んだ。
ライルの曖昧な魔力感知が、今になって強烈な警鐘を鳴らし始めていた。
(一頭じゃない……! 僕たちがさっきまで『風下』だと思って安心していた方向……匂いが届かない場所の暗がりから、いくつもの気配が、一気に距離を詰めてきてる!)
ガサリ、ガサリ、と。
周囲の巨大な木の根の陰から、あるいは背丈ほどもある茂みの中から、灰色の影が次々と姿を現した。
一頭、二頭、三頭……先ほどの囮を含めて、全部で六頭。
森狼の本格的な群れ(パック)。
「囲まれた……!」
セシルが背中合わせになるよう陣形を縮め、短装剣を構えながらギリリと奥歯を噛み締めた。
「こちらの接近を完全に感知した上で、一頭を囮にして私たちを深く誘い込んだんだ。……知能が高すぎる。まるで訓練された軍隊の包囲網じゃないか……!」
「へっ、上等だ! 何頭いようが、正面から叩き斬ってやる!」
アルドが地面から剣を引き抜き、正面からじりじりと間合いを詰めてくる群れのリーダー格――一回り体格の大きな森狼へ向けて踏み込もうとした。
「待てアルド、突出するな!」
ライルの制止より早く、アルドが動いた。
だが、森狼たちは第一層の猪や兎のように、直線的な突進などしてこなかった。
アルドが正面のリーダー格へ向けて剣を振りかぶった瞬間、リーダー格はスッと後方へステップを踏んで間合いを外し、それと完全に同期する形で、アルドの『左右の死角』にいた二頭が、音もなく跳躍してアルドの脇腹と太ももへ同時に牙を剥いたのだ。
「――土!」
ライルは咄嗟に指先を向け、アルドの右側から迫る森狼の着地点に、鋭い岩のスパイクを隆起させた。
「ギャウッ!」
右の森狼は足を岩に削られて体勢を崩すが、左から迫るもう一頭の牙が、アルドの左太ももに深々と突き刺さろうとする。
「クソッ!」
アルドは振り下ろそうとした直剣の軌道を強引に捻り曲げ、下からカチ上げるようにして左の森狼の顎を狙った。
「――風」
ライルが短い呼気とともに魔力を直結させ、アルドの剣の峰に爆発的な突風を沿わせる。
シュバァァァンッ!!
風の加速を得た黒角の刃が、森狼の硬い頭蓋骨を、文字通り豆腐のように両断した。
悲鳴を上げる間もなく、一頭の森狼が真っ二つに裂けて血の雨を降らせる。
「っしゃあ! 見たか、こいつの切れ味を!」
アルドが雄叫びを上げた。
だが、その歓喜は一瞬で凍りついた。
仲間が目の前で両断されたというのに、残りの五頭の森狼は、怯むどころか一切の感情を揺らさなかった。
彼らはアルドが大振りの一撃を放ち、剣が上空へと振り切られて「完全に無防備になった」そのコンマ一秒の隙を、待っていたのだ。
「グルルルッ!」
リーダー格の短い指示のような唸り声。
直後、背後の茂みに身を潜めていた四頭目と五頭目が、陣形の要であるセシルとライルへ向けて、全く足音を立てずに背後から襲いかかってきた。
「ライル、後ろです!」
セシルが叫び、逆手に持った短装剣でライルへの奇襲を弾き飛ばそうとする。
ガギィッ! と刃と牙が激突し、火花が散る。左腕を庇いながらの迎撃では力が足りず、セシルは大きく体勢を崩して後ろへよろめいた。
(防ぎきれない……!)
ライルは背後に迫る五頭目の牙を視界の端に捉え、咄嗟に魔力を足元へ集中させた。
「――風!」
足元に極小の突風を爆発させ、自らの身体を横方向へと強引にスライドさせる緊急回避。
ガチィッ! と、ライルが先ほどまでいた空間の空気を、森狼の牙が虚しく噛み砕く。
だが、緊急回避で陣形が完全にバラバラに分断されてしまった。
「ちぃッ! 囲むな、クソ犬どもが!」
アルドが孤立した状態で、三頭の森狼に周囲をぐるぐると旋回され、完全に足を止められていた。
正面のリーダー格を睨めば、背後の二頭が足首や裏腿を狙って飛びかかってくる。振り向いて剣を振れば、今度はリーダー格が背中を狙う。
ドワーフの『黒角直剣』がどれほど凄まじい威力を誇ろうと、当たらない刃では意味がない。鋭い牙が掠るたびに、アルドの外張りの革鎧が引き裂かれ、その下にある『黒鉄の鎖帷子』のリングがパラパラと悲鳴を上げて弾け飛んでいく。
「……息が、合わなすぎる」
地面を転がって体勢を立て直したライルは、絶望的な気分で包囲網の動きを見ていた。
彼らの連携は、ライルたち三人とは次元が違った。視線を交わすことも、鳴き声で合図することもなく、互いの死角と獲物の隙を完璧に共有している。彼らにとって群れ全体が「一つの巨大な生き物」なのだ。
「ライル、アルド! 西へ後退しないでください!」
セシルが血相を変えて叫んだ。
「奴ら、私たちの退路を『第一層の境界線』から遠ざけるように、ジリジリと立ち位置を誘導しています! このままでは森の深淵に引きずり込まれますよ!」
言われてハッとした。
森狼たちは、決定的な致命傷を避けながら、アルドとライルが回避行動をとる方向を、意図的に『西(第二層の奥)』へと誘導していたのだ。
(僕たちは、最初から最後まで、こいつらの掌の上で踊らされていただけなのか……!)
「もう、出し惜しみはしません! 二人とも、目を閉じて息を止めて!」
セシルが懐から、黒いソフトボール大の玉を二つ同時に取り出し、両手の力一杯に足元の黒苔へ叩きつけた。
パァァァンッ!!
激しい破裂音とともに、真赤な煙が爆発的に周囲数十メートルを覆い尽くした。
単なる煙幕ではない。石炭街の職人たちから買い集めた乾燥薬草と、強烈な刺激を持つ赤唐辛子の粉末、そして硫黄を配合した、セシル特製の『催涙煙幕玉』だ。
「キャィィィンッ!?」
「グルルォォォッ!!」
人間の何十倍もの嗅覚と優れた視力を持つ森狼たちにとって、その粉塵は文字通り致命的な劇薬だった。
粘膜を焼かれた群れが、統率を完全に失って地面をのたうち回る。
「今です! 東へ! 第一層へ向かって全速力で走れ!!」
セシルが袖で口元を覆いながら叫ぶ。
アルドもライルも、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、ただひたすらに東――光の差す方向へ向かって、泥にまみれながら死に物狂いで駆け出した。
背後からは、目を潰されたリーダー格の森狼が、悔しさに満ちた遠吠えを上げているのが聞こえた。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
第一層の境界エリアを抜け、見慣れた休耕地の入り口まで逃げ延びた三人は、そのまま土の上に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
全身が汗と泥で汚れ、肺が千切れるように痛い。
ライルの右腕は、短縮詠唱の過剰な魔力負荷によって、火傷を負ったように熱を持っていた。
アルドは、外張りの革鎧をズタズタに引き裂かれ、その下にあるメイン防具の『黒鉄の鎖帷子』も無数のリングを失ってひどく損傷していた。ガドの急所鋼板がなければ、今頃内臓を引きずり出されていただろう。
「……助かっ、た……」
アルドが大の字になって、暮れゆく王都の空を見上げた。鎖帷子の破片がチャリンと虚しい音を立てる。
「なんだよ、あれ……。一頭を一刀両断にしたのに、奴ら、ピクリとも怯みやがらねえ……。むしろ、俺の剣の隙を正確に突いてきやがった。……あれが、第二層の本当の狩りなのかよ……」
「……ええ」
セシルは泥だらけのまま座り込み、残りが一つとなった煙幕玉の小袋を悔しそうに握りしめていた。
「彼らはただの獣ではなく、戦術を理解した一つの『軍隊』です。単体での力押しや、少々の魔法の工夫程度でどうにかなる相手ではありませんでした。……私の驕りです。第二層を、あまりにも舐めすぎていた」
ライルは自分の両手を見つめた。
言葉を削ぎ落とし、威力を上げた風の魔法。
だが、どれだけ鋭い刃や魔法を用意しようと、この森の暴力は、そんな「個人の力」を群れの知恵と連携で容易に飲み込んでしまうのだ。
「……僕たちは、まだ何も分かっていなかったんだ」
ライルは力なく呟いた。
「第一層での成功は、ただの子供の砂遊びだった。……あそこは、僕たちみたいな人間が『狩り』に行く場所じゃない。僕たちが『狩られる』側の、本物の死の領域だ」
王都近郊の森、第二層。
そこに待ち受けていたのは、英雄譚のような劇的な勝利ではなく、冷酷で機械的な「捕食」という圧倒的な現実だった。
少年たちは、自分たちの足元に広がる絶望的なまでの実力差を、今度こそ骨の髄まで思い知らされていた。
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