第14話:境界の鍛錬と、王冠の影
第14話:境界の鍛錬と、王冠の影
「――ライル。お前はまた、どこかへ魂を飛ばしているようだな」
晩餐の間の冷え切った空気を切り裂くように、父王ガイルの低く濁った声が響いた。
磨き上げられた大理石の床。天井から降り注ぐ何十個もの魔石シャンデリアの強烈な光は、影すら作らぬほどに室内を白々と照らし出している。大テーブルの上には、平民が一生かかっても口にできないような極上の料理――香草で臭みを消した仔羊のローストや、遠方の領地から氷温保存で運ばれた珍しい果実が銀食器に盛られていた。
だが、ライルの口の中にある肉の味は、砂を噛むようにパサついていた。
「申し訳ありません、父上。少し、学問の思索に耽っておりました」
ライルは完璧な「無害で凡庸な三男」の仮面を被り、スープのスプーンを置いて恭しく頭を下げた。
「ふん、出涸らしは相変わらず机上の空論がお好きなようで」
長兄ギリウスが、ワイングラスを揺らしながら冷ややかに笑う。彼の金髪はシャンデリアの光を反射して輝き、その顔には数週間前の『建国祭』で見せた大規模魔法演習の大成功による、揺るぎない自信が満ち溢れていた。
「父上。先の魔法演習の成功により、隣国の国境軍は完全に沈黙いたしました。王都の夜空を焦がしたあの炎は、我がベルクンド王国の武の象徴として十全に機能しております。魔法ギルドとの連携をさらに強固なものとするため、来期の魔法省の予算を三割増額すべきかと存じます」
「馬鹿馬鹿しい。一夜の打ち上げ花火に数万の金貨を燃やし、その補填のために民の税を引き上げようというのですか」
向かいの席から、次兄グリードが鼻で笑いながら肉を切り分けるナイフを置いた。
「威信などという実体のないもののために国庫を空にするくらいなら、我が派閥の息がかかった辺境の私兵団を正規軍に組み込み、国境線の防衛拠点を五つ増設すべきです。血と鉄こそが、最も確実な国の土台ですよ。空で派手に油を燃やす暇があるなら、泥臭く槍の穂先を研ぎ澄ませるべきだ」
「野蛮な私兵など、王国の誇りを汚すだけだ」
「誇りで腹が膨れるなら、誰も苦労はしませんよ、兄上」
バチバチと、目に見えない火花が大理石の床の上で激しく交錯する。
相変わらずの、権力と予算を巡る終わりのない椅子取りゲーム。
ギリウスの背後には魔法ギルドと伝統的な大貴族がつき、グリードの背後には新興の武門貴族と商業ギルドが連なっている。彼らが一つ言葉を発するたびに、金貨数万枚という途方もない富と、何千人もの命が盤上の駒のように動かされていくのだ。
(……兄上たちは、強いな)
ライルはテーブルの下で、そっと右肩を押さえた。
半月前、第二層の森狼との死闘で痛めた筋繊維は、セシルの錬金傷薬と若さによる回復力でどうにか完治していた。だが、無理に風の魔法で肉体を引っ張り上げたあの時の焼け付くような痛みの記憶は、未だに骨の髄にこびりついている。
自分は、命を懸けて泥水をすすり、やっとの思いで銀貨二十五枚を稼ぎ出した。
それが自分たちの世界のすべてであり、命の値段だった。
だが、兄たちが息を吐くように動かしている金貨数万枚という金は、銀貨に換算すれば数百万枚にも及ぶ。この王宮という巨大な城の中で、自分が森で得た鋼の剣の重みなど、吹けば飛ぶような塵芥に等しいのではないか。
(兄上たちは天才だ。莫大な魔力と、政治の才能、そして人を動かす圧倒的なカリスマがある。それに比べて、僕は……)
ライルの胸の奥に、暗く冷たい葛藤が渦巻く。
このまま森で泥遊びを続けて、一体何になるのだろう。王座を巡る巨大な濁流の前では、自分の歩みなど、あまりにも遅く、ちっぽけすぎるのではないか。
「……ライル」
不意に、グリードが鋭い視線を向けてきた。
「お前、最近また妙な臭いがするな。いくら学問が好きだからといって、埃っぽい書庫やカビ臭い温室にばかり引きこもっているから、そんな陰気な土の臭いが染み付くんだ。少しは外の空気を吸ったらどうだ」
「……ご忠告、感謝いたします。グリード兄上」
ライルは静かに頭を下げた。
陰気な臭い。
それは、数日前に第一層で狩った角兎の血の匂いであり、命を懸けて這いつくばった腐葉土の匂いだ。
(……ちっぽけでいいさ)
ライルは、テーブルの下で固く拳を握りしめた。
(兄上たちの見ている世界がどれだけ巨大でも……僕は、この手で掴んだ泥の感触だけを信じる。ここから、一歩ずつ進むしかないんだ)
翌日の放課後。
王都から西へ三キロ。魔物の森、第一層最深部『境界エリア』。
鬱蒼とした木々の合間から差し込むわずかな木漏れ日を遮るように、猛烈な突進の地響きが轟いた。
「シィィッ!」
赤褐色の体毛を持つ大角兎が、分厚い腐葉土を大きく蹴り上げながら、低く鋭い黒角を突き出して一直線に突進してくる。
「アルド、正面だ!」
後衛からライルが鋭く指示を飛ばす。
「おうよッ!」
アルドは腰を深く落とし、ドワーフ製の鋼鉄の直剣を両手で構えた。
だが、正面から完全に受け止めるだけの筋力と技術は、まだ彼にはない。あの森狼の突進に押し負け、セシルに肉を噛ませてしまった時の苦い記憶が、アルドの脳裏をよぎる。
突進が激突する寸前。
アルドは右足を踏ん張ってわずかに身体を捻り、角の軌道を逸らそうとした。
だが、身体の反応がほんのわずかに遅れる。
ガギィィッ! と、甲高い嫌な音が響いた。
大角兎の黒角の先端が、アルドの腹部を覆う『黒鉄の鎖帷子』をまともに擦り抜けたのだ。
激しい摩擦の火花が散り、鎖帷子のリングが数個、引きちぎれるように弾け飛ぶ。
「ぐっ……!」
アルドは衝撃で息を詰まらせたが、鎖帷子が肉への直接の貫通を防いでくれたおかげで、どうにか踏みとどまった。
彼の鎖帷子は、買ってからまだそれほど日が経っていないというのに、すでに全身が無数の擦り傷や凹みでボロボロになっていた。森狼の鋭い爪で抉られた跡、牙猪の頭突きでひしゃげた跡、そして今の大角兎の角の傷。
それは決して誇れるような勲章ではない。身のこなしが未熟で攻撃を完全に躱しきれず、結局は防具の頑丈さに頼って泥臭く耐え凌いでいるという、未熟さの証明そのものだった。
「この野郎ッ!」
アルドは痛む腹部を無視し、体勢を崩した大角兎の無防備な側頭部へ向けて、鋼の剣を力任せに振り下ろした。
丹田に力を込め、下半身の粘りで重い刀身を強引に落とす。
ズガァァァンッ!
重い鋼の刃が大角兎の首の骨を叩き折り、巨体が地面を跳ねてピクピクと痙攣したのち、動かなくなった。
「……はぁっ、はぁっ……。くそっ、やっぱりまだ角を完全に躱しきれねえ……」
アルドは剣を引き抜き、破片が飛び散った自分の腹部の鎖帷子を手で押さえた。
命は助かったものの、衝撃で皮膚の下はひどい内出血を起こしているはずだ。
「アルド。また防具を痛めましたね」
少し離れた大樹の陰から、セシルが歩み寄ってきた。
彼の左腕にはまだ布がしっかりと巻かれ、森狼に抉られた生々しい傷跡が残っている。腰には新調した鋼の短装剣を吊るし、手帳を広げながら不満げに眉をひそめていた。
「すまねえ……。頭じゃ斜めに受け流すつもりだったんだが、踏み込みが一瞬遅れちまった」
「鎖帷子は魔法の盾ではありませんよ。金属疲労が溜まれば、次は角が鎖を突き破ってあなたの腹わたを引きずり出します。……ドワーフの旦那のところで修繕してもらう費用、あなたの取り分から差し引きますからね」
「勘弁してくれよ、セシル……」
アルドが情けない声を上げるが、セシルの表情は真剣そのものだった。
「ライルの指示のタイミングは完璧でした。しかし、前衛の反応速度が追いついていない。……やはり、休耕地での素振り程度では、生きた魔獣の突進を見切る動体視力もステップも、根本的に足りていません」
セシルは手帳にペンを走らせ、小さくため息をついた。
「怪我が治ってからの半月、この第一層最深部で陣形の確認と連携の確認を繰り返してきましたが……私たちの実力は、まだ第一層の魔獣を『事故を起こさずに狩る』ことすら覚束ないのが現状です」
「……僕の魔法も、まだまだだ」
ライルが自身の『軽量鋼の片手剣』を鞘に収めながら、悔しそうに拳を握りしめた。
二度目のレベルアップを果たし、軽量鋼の剣を手に入れたライルだったが、剣を振る技術は素人に毛が生えた程度だ。
大角兎の突進に対して、本来なら風の魔法で相手の重心をもっと大きく崩してやるべきだったのに、放った風は相手の角をほんの数センチ逸らしただけに留まった。
結果として、アルドに重い一撃を受け止めさせる羽目になってしまったのだ。
「ライル、魔力感知の試行はどうですか。少しは感覚を掴めましたか」
セシルが視線を向ける。
ライルは目を閉じ、周囲の大気へと意識を傾けた。
ここから西へわずか十数メートル進めば、太陽の光を完全に拒絶する『第二層(暗緑の領域)』の黒々とした森が口を開けている。
大気の質は境界線を境に劇的に変わり、濃密な魔力が皮膚にまとわりつくように重く淀んでいた。
半月前の森狼との死闘の際、ライルはこの濃密な魔力のノイズに圧倒され、感知能力を完全に狂わされた。
空間全体がビリビリと波打っているため、第一層のように「風の乱れ」を素直に拾い上げることができなかったのだ。
(……力で探ろうとするな。背景と同化させるんだ)
ライルは額にじわりと冷汗を浮かべながら、必死に意識のピントを合わせようとした。
荒れ狂う波の音の中から、特定の魚の跳ねる音を聞き分けるような手探りの感覚。
魔力の濃度差に意識を削られ、頭の芯がジリジリと熱を帯びていく。
「……何か、いる」
ライルは目を閉じたまま、かすれた声で絞り出した。
「位置と数は?」
セシルが小声で問い、短装剣の柄に手をかける。アルドも息を殺して剣を握り直した。
「……たぶん、あっちの黒い森の奥……距離は、五十メートルくらいはあると思う。……でも、はっきりとは掴めない」
ライルの眉間に深い皺が寄る。
「数は……一匹や二匹じゃない。もっといる……複数だ。木の上を、カサカサと移動しているような……嫌な気配がする」
以前のように「まったく何も感じ取れない」という絶望的な盲目状態からは脱していた。
だが、その精度は依然として極めて曖昧だ。何頭いて、どんな魔獣で、正確にどこにいるのかまでは、どうしても霧の向こうの影のようにぼやけて判別できない。
その時だった。
ギィヤァァァッ!!
暗緑の森の奥深くから、耳をつんざくような甲高い鳴き声が響き渡った。
続いて、バキバキッ! ドサッ! と、樹上が激しく揺れ、何者かが激突する破壊音が木霊する。
「……何が起きてるんだ?」
アルドが喉を鳴らし、木々の隙間を凝視した。
薄暗い深淵の木の上で、灰色の影が何重にも蠢いているのが見えた。
小柄だが異常に長い腕を持つ猿のような魔獣の群れ――『樹上猿』だ。
その群れが、枝の上から一斉に何頭も飛び降り、下を通りかかった大きな獲物を袋叩きにしている。
生々しい肉の裂ける音と、骨が砕かれる鈍い音が、境界線のこちら側にまで風に乗って運ばれてきた。
「……見ましたか」
セシルが青ざめた顔で、手帳を胸元に引き寄せた。
「ライルが感知したあの『複数の気配』……樹上猿の群れでしたね。あんなものが頭上から雨のように降ってくれば、今の私たちの陣形など一瞬で崩壊します」
さらにその直後。
ズシン……、ズシン……。
地面の奥底から、腹に響くような重い足音が響いてきた。
樹上猿たちが獲物を貪っていた場所へ向けて、巨木をバリバリと薙ぎ倒しながら、大人の背丈の二倍はある巨大な影が近づいていく。
豚のような醜悪な顔面と、丸太のように太い腕に握られた巨大な石斧。
「オークだ……」
アルドが息を呑み、思わず半歩後ずさった。
樹上猿たちは、その巨影が近づいてくるや否や、獲物の肉を放り出して蜘蛛の子を散らすように樹上へと逃げ去っていった。
オークは残された獲物の死骸を巨大な手で無造作に掴み上げると、骨ごとバリバリと音を立てて咀嚼し始めた。
圧倒的な、暴力の生態系。
第一層のような「小銭稼ぎの魔獣」などそこには一匹もいない。生きるか死ぬかの純粋な殺し合いが、日常の風景としてあの暗闇の中で繰り広げられていた。
「……ライル。あなたの曖昧な感知でも、十分に役に立ちましたよ」
セシルが震える手で眼鏡を押し上げ、乾いた声で言った。
「もしあなたが『何か複数の気配がいる』と教えてくれなければ、私たちは今頃、あの樹上猿とオークの縄張り争いの真ん中に呑気に足を踏み入れていたかもしれない。……そうすれば、確実に全滅でした」
「ああ……」
ライルは額の汗を拭い、深く息を吐き出した。
感知の精度が上がったからこそ、痛烈に理解できた。
自分たちの実力など、あの第二層の深淵から見れば、いまだに「ただの赤子」に過ぎないのだということを。
半月前、森狼の群れを退けたのは、奇跡以外の何物でもなかったのだ。
セシルが腕を犠牲にし、ライルが右肩の筋肉を壊す覚悟で風を撃ち、アルドが死に物狂いで剣を振り下ろしたから、たまたま生き残れただけ。
あの戦いを「自分たちの実力」だと勘違いして再び第二層に挑んでいれば、今頃はオークの胃袋の中に収まっていただろう。
「……やっぱり、第二層はまだ早いな」
アルドが、ボロボロになった鎖帷子を見下ろしながら、ポツリと呟いた。
悔しそうではあったが、その瞳に以前のような無謀な慢心は微塵もなかった。
「鋼の剣を持って、鎖帷子を着て、Eランクになった。でも……俺の腕前は、第一層の大角兎相手に防具を削られなきゃ勝てねえレベルだ。あんなオークの石斧を受けたら、鎖帷子ごと身体を真っ二つに叩き割られるぜ」
「同感です」
セシルもまた、短装剣を鞘に収め、冷徹に頷いた。
「私たちは少し、焦りすぎていたのかもしれません。二度目のレベルアップを果たしたからといって、身体の基礎が急激に英雄のそれに変わるわけではない。……今の私たちに必要なのは、背伸びをして深淵に挑むことではなく、この境界線で、死なないための『本物の技術』を反復することです」
ライルは二人の言葉を聞きながら、西の暗い森の奥をじっと見つめていた。
王宮の晩餐で見た、ギリウスとグリードの姿が脳裏に蘇る。
彼らは国家の予算を動かし、軍隊を指揮し、圧倒的な才能と権力で世界を動かしている。
それに比べて、自分たちはどうだ。
森の浅瀬で大角兎一匹に防具を壊され、遠くから響く魔獣の足音に怯え、泥にまみれて手探りの魔法を必死に試している。
あまりにも小さく、あまりにも無様で、あまりにも遅い歩みだ。
だが――。
(……それでも、僕は焦らない)
ライルは胸の奥で、静かに呟いた。
兄たちが王座の上から見下ろしている世界は、確かに巨大で眩しい。
だが、彼らは大地を踏みしめて走ったこともなければ、魔獣の吐息の生々しい熱さを肌で感じたこともない。
誰かが作った安全な温室の中で、他人の命と金を動かしているだけだ。
自分たちのこの泥だらけの歩みは、ひどく遅いかもしれない。
防具は傷だらけになり、魔法の感知はまだぼやけていて、剣の腕も未熟だ。
だが、この足で腐葉土を踏みしめ、この腕で鋼の重さを知り、親友たちと背中を預け合って掴み取る経験だけは、誰にも奪えない自分だけの「本物の力」だ。
「……アルド、セシル」
ライルが二人の顔を見た。
「なんだい、ライル」
「大角兎の解体を終えたら、もう一回、休耕地へ戻ろう」
ライルは穏やかに、だが確かな芯のある声で言った。
「アルドのステップの踏み込みと、僕の風のタイミングを合わせる練習だ。大角兎の角を、鎖帷子に触れさせずに躱せるようになるまで……何度でも、泥まみれになってやろう」
アルドは一瞬驚いたように目を見張ったが、やがて獰猛で爽快な笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「へっ! 言ってくれるぜ、王子様! いいとも、泥水ならいくらでもすすってやるよ! あのオークの首を、この鋼の剣でへし折るその日までな!」
「やれやれ……。暗くなる前に、ノルマをこなしてくださいよ」
セシルもまた、眼鏡の奥で呆れたように、だが嬉しそうに目を細めた。
「手帳のページはいくらでもあります。あなたたちの無様な失敗の記録を、完璧な成功のデータに書き換えるまで、とことん付き合いますから」
夕暮れの光が、深い森の木々の隙間から細く差し込んでくる。
王都の空を焦がしたあの毒々しい虚飾の炎など、もうどこにも見えない。
ただ、静かに暮れゆく自然の光の中を、血と泥にまみれた三人の少年たちが、自分たちの足跡を確かめるようにして歩き出していた。
王宮の誰も知らない場所で、小さな三つの影は、焦ることなく、立ち止まることなく、本物の強さを求めて大地に根を張り続けていた。
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