第13話:肉の代償と、銀貨二十五枚の証明
第13話:肉の代償と、銀貨二十五枚の証明
王都の夜空を焦がす異常な魔力の炎が、深い樹冠の隙間から毒々しい赤光となって森の底に降り注いでいた。
だが、その虚飾の光を見上げ、静かに息を整えられたのは、極限の死闘による強烈な興奮状態が持続していた、ほんの十数秒間のことだった。
「……ぐ、っ、あぁぁ……!」
プツリと緊張の糸が切れた瞬間。セシルが声にならない絶叫を漏らし、血だまりの中に崩れ落ちた。
「セシル!」
ライルが慌てて駆け寄る。
無理もない。左腕の硬革プロテクターごと森狼の牙に抉られた傷口は、絶望的なほど深かった。黒鉄の鎖帷子は牙の貫通こそ防いだものの、強烈な咬合力によって肉がミンチ状にすり潰され、裂けた皮膚の奥から白っぽい筋組織すら見え隠れしている。普通の十七歳の少年なら、痛みのあまりショック死していてもおかしくない重傷だ。
「アルド、彼を押さえていてくれ! 今すぐ止血する!」
ライルは震える手で自身の鞄を漁り、小さな陶器の小瓶を取り出した。コルクの栓を歯で強引に引き抜く。
第一層の最深部で稼いだ資金を元手に、セシル自身が「命に対する最低限の保険」として商会経由で仕入れていた、中級の錬金傷薬だった。
「おうっ……! 歯ァ食いしばれよセシル!」
アルドが青ざめた顔で、もだえ苦しむセシルの肩と無事な右腕をガッチリと地面に押さえ込む。
「……っ、早く、して、ください……血が……!」
セシルは痛みに耐えるために丸めた布切れを口に咥え、目を固く閉じて首を振った。
ライルが傷口にドロリとした緑色の薬液を注ぎ込む。
ジュウゥゥッ! と、傷口から微かな白煙が上がり、細胞が強制的に熱を持って結合していく嫌な音が響いた。
「んぐぅぅぅッ!!」
セシルが眼球が飛び出さんばかりに見開き、全身をビクンと激しく跳ねさせる。アルドが必死にそれを押さえつけ、三分ほど経過してようやく、薬効によって傷口の出血が治まり、醜い赤黒いかさぶたが形成された。
「……はぁっ、はぁっ……。なんとか、肉は繋がったようですね。ですが、左腕は当分使い物になりません……」
セシルが口に咥えていた布を吐き出し、脂汗まみれの顔で力なく笑った。
「全く。商会の跡取りの腕にこんな醜い傷跡を残すなど、資産価値の下落もいいところです。……高くつきましたよ、第二層の授業料は」
「生きてるだけで丸儲けだろ。……お前が腕を食わせてくれなきゃ、今頃三人とも喉を掻き切られてた」
アルドがホッと息を吐きながら、自身の水筒をセシルの口元へ運んでやった。
「ライル。あなたの右肩は?」
息を整えたセシルが、今度はライルの方を見て尋ねた。
ライルは自分の右肩を左手で押さえ、ゆっくりと首を振った。
「……折れてはいないと思う。でも、風の魔法で強引に筋肉を引っ張って剣を振ったから、筋繊維か関節の筋がおかしくなってる。剣を握ることはできるけど、さっきみたいにフルスイングするのは、当分無理だ」
ズキズキと、心臓の拍動に合わせて右肩の奥で焼け付くような痛みが走っている。王宮の温室で本を読んでいただけの出涸らし王子が、生まれて初めて味わう「肉体の破壊」の感覚だった。
「満身創痍、ですね」
セシルが眼鏡の泥を無事な右手で拭いながら、周囲を見渡した。
「私が重傷、ライルが右肩負傷。まともに戦闘可能なのはアルドただ一人。……すぐに王都へ帰還します。長居すれば、この血の匂いに惹かれて次の群れがやってくる」
「ああ。解体は俺が急いでやる。お前らは警戒だけしててくれ」
アルドが腰の短刀を抜き、二頭の森狼の死骸に取り付いた。
第一層の角兎や牙猪とは違い、森狼の皮は恐ろしく強靭で、関節の構造も複雑だ。アルドは血と泥にまみれながら、必死の形相で胸を裂き、心臓の奥から大人の拳ほどもある巨大な魔石を抉り出した。
その魔石は、微かに緑色の燐光を放ち、まるで命そのもののようにドクドクと熱を帯びている。第一層の魔獣のそれとは、宿している魔力密度が根本的に違っていた。
「……すげえ。こんな石、見たことねえぞ」
「第二層の魔石です。ギルドに持ち込めば、間違いなく高値がつきます。……毛皮も剥ぎたいところですが、時間がありません。魔石と、証明部位である『右耳』だけを切り取って、ずらかりますよ」
セシルの冷静な指示に従い、アルドは素早く必要な部位だけを切り取り、皮袋に押し込んだ。
西の空では、相変わらず王城から打ち上げられる莫大な魔力の炎が、夜空を毒々しい赤に染め上げている。
だが、その赤い光は分厚い樹冠に遮られ、彼らの足元を照らすことはない。三人は、セシルが用意していた「獣避けの臭い袋(強烈なアンモニア臭がする)」を身体に擦り付け、血の匂いを誤魔化しながら、暗闇の森を這うようにして王都への帰路についた。
一歩、また一歩と、腐葉土を踏みしめる度に、疲労と痛みが全身の神経を削り取っていく。
ライルは右肩の激痛に歯を食いしばり、アルドはセシルの身体を半分担ぐようにして、ぬかるんだ斜面を登り続けた。
周囲の暗闇からは、時折得体の知れない獣の鳴き声が響き、その度に三人は息を殺して木の陰に身を潜めた。
「……なぁ、ライル」
暗闇の中、荒い息を吐きながらアルドがポツリと口を開いた。
「なんだい」
「俺さ、鋼鉄の剣を買って、Eランクの銅プレートをもらって。少しだけ、自分が強くなったような気でいたんだ。……でも、違ったな」
アルドの瞳には、かつてないほどの深い反省と、己の無力さへの悔しさが滲んでいた。
「森狼の突進、受けるのが精一杯で、全然弾き返せなかった。セシルに肉を噛ませなきゃ、俺はあの場で食い殺されてた。……重い鋼を持ってるだけの、ただのガキだったんだ、俺は」
その言葉に、ライルは少しだけ歩みを緩めた。
「……アルドだけじゃない。僕だって、教わった通りに風の魔法を撃つことしかできなかった。魔力が濃い場所での感知も使い物にならなかったし、最後は自爆覚悟の力技だ。……僕たちは、第二層の入り口で、ただ運良く生き残っただけだ」
ライルは、肩の痛みを通して、自分たちの「現在地」を骨の髄まで理解していた。
レベルアップでステータスが上がろうと、高い鋼の武器を買おうと、それだけで魔法のように英雄になれるわけではない。経験、技術、そしてどんな状況でも冷静に判断できる心。それらが決定的に不足している。
「落ち込んでいる暇があったら、足を動かしてください」
セシルが、アルドの肩に寄りかかりながら、かすれた声で言った。
「私たちは無様でした。ですが……逃げずに、戦い抜いて、勝ったんです。第一層のスライムを千匹狩るより、あの死線の数分間の方が、よほど私たちの『資産』になった。……生き残って持ち帰った教訓ほど、価値の高い情報はありません」
「セシル……」
「次行く時は、必ず私の指示に従って動く陣形を構築しますよ。それから、魔獣の生態についての事前学習も足りていなかった。私の落ち度です。ギルドの資料室に籠もって、第二層の魔獣の行動パターンをすべて頭に叩き込みます」
セシルは痛む左腕をかばいながら、眼鏡の奥で決して消えない理性の光を燃やしていた。
「……へっ、違いねえ。次は絶対に、お前らに怪我なんかさせねえ。俺が全部、鋼の剣で弾き返してやる」
アルドが力強く頷き、再びセシルを担ぎ直して前を向く。
ライルは二人の背中を見つめながら、自然と口元に笑みが浮かぶのを感じていた。
身体はボロボロで、服は血と泥にまみれ、王宮のベッドの温もりとは無縁の痛みに満ちた暗闇の中。
それでも、この二人と肩を並べて歩く泥まみれの道が、ライルには何よりも誇らしく、愛おしく思えたのだ。
(僕たちは、絶対に強くなる。……誰よりも泥臭く、誰よりも確実に)
やがて、長い長い森の行軍を抜け、王都を囲む防壁の巨大なシルエットが、闇夜の中に浮かび上がった。
王都の街は、狂騒と暗闇が入り混じる異様な空気に包まれていた。
空には相変わらずギリウスが打ち上げた真紅の炎が煌々と輝いているが、街灯の魔石をすべて奪われた大通りは薄暗く、炎の不気味な影だけが石畳の上で蠢いている。
三人の少年たちは、その大通りの端を這うようにして進み、冒険者ギルド王都下部支部へと滑り込んだ。
ギルドの中もまた、いつもとは様子が違っていた。
建国祭の喧騒を避けるためか、あるいは街の暗さに当てられたのか、たむろしている冒険者の数は少なく、どこか淀んだ空気が漂っている。
「……本日の買い取り窓口は、間もなく終了ですが」
カウンターの奥から、いつもの無愛想な受付嬢が事務的な声で告げた。
だが、カウンターの前に立った三人の姿――血と泥にまみれ、セシルは腕を吊り、ライルは肩を引きずっているその凄惨な様子を見た瞬間、彼女のペンを握る手がピタリと止まった。
「……何か、厄介なものにでも巻き込まれましたか。それとも、身の程知らずにも強敵に喧嘩を売ったか」
受付嬢の声のトーンが、わずかに低くなる。
「ええ……少しばかり、好奇心がすぎましてね」
セシルが青白い顔のまま、無事な右手で腰の皮袋を解き、カウンターの上にドサリと中身をぶちまけた。
ゴトリ、と重い音を立てて転がり出たのは、微かに緑色の燐光を放つ、巨大な魔石が二つ。
そして、証明部位として切り取られた、灰褐色の体毛に覆われた森狼の右耳が二つ。
「なっ……」
周囲のテーブルで酒を飲んでいたベテランの冒険者たちが、椅子を蹴倒して立ち上がった。
受付嬢の目は、信じられないものを見るように限界まで見開かれていた。
彼女は震える手で魔石に触れ、魔道具のルーペを取り出してその純度を確認する。そして、信じられないというように、目の前の満身創痍の少年たちを交互に見つめた。
「『森狼』の魔石……しかも、欠けのない完全な状態が二つ。……これを、貴方たちだけで狩ったというのですか」
「運が良かっただけです」
ライルが静かに答える。
「一人は腕を噛まれ、僕は肩を痛め、もう一人は剣の重さに振り回された。……本当に、生き残ったのは運が良かっただけです。でも、逃げずに、僕たちの力で倒しました」
受付嬢はしばらくの間、息を呑んだままライルたちの瞳の奥を覗き込んでいた。
かつて「ママのところに帰りなさい」と見下した、貴族の学生の遊び。だが、目の前に立つ少年たちの瞳に宿っているのは、本物の死線を潜り抜け、命の重さを知った者だけが持つ、暗くて重い光だった。
「……馬鹿な子供たちです」
受付嬢は小さく息を吐き、だがその口元には、呆れとも賞賛ともつかない微かな笑みが浮かんでいた。
「Eランクの分際で第二層の魔獣を狩るなど、ギルドの推奨する安全基準から完全に逸脱しています。次同じことをすれば、間違いなく死ぬでしょう。……ですが、貴方たちが持ち帰ったこの成果は、本物です」
彼女は素早く計算機を弾き、カウンターの下から重い皮袋を取り出した。
「森狼の魔石二つと、討伐証明部位。状態は極めて良好。……査定額は、純銀貨二十五枚。加えて、Dランク相当の魔獣を討伐したことによる、特別貢献ポイントを付与します」
銀貨二十五枚。
鋼鉄の武具を全員分揃えた時の金額をさらに大きく上回る、莫大な報酬。
だが、その輝かしい銀貨の重みを受け取った三人に、かつてのような「小銭を手に入れて無邪気に喜ぶ」ような様子は一切なかった。
「……セシル。この金で、最高級のポーションと傷薬を買えるだけ買ってくれ。それと、解毒薬と、第二層の地図の詳細な写しもだ」
アルドが、銀貨の入った袋をそのままセシルの無事な手に押し付けた。
「俺たちの命の値段だ。出し惜しみはしねえ」
「ええ、分かっています。傷が治り次第、徹底的にアイテムの拡充と情報収集を図ります。……このままでは、森の王にはなれませんからね」
セシルもまた、重い銀貨の袋をしっかりと抱え込んだ。
「報告、感謝します。……死なないでくださいよ、坊やたち」
背中を向けて歩き出した三人に、受付嬢が初めて「一人の冒険者に対する敬意」を込めた声で労いの言葉をかけた。
ライルは振り返らずに、右手を軽く上げてそれに応えた。
翌日。
ベルクンド王立貴族階級学校は、建国祭の初日の興奮も冷めやらぬまま、異様な熱気に包まれていた。
「見たか!? 昨夜のギリウス殿下の炎!」
「ああ、王都の夜空が真昼のように明るくなった! 隣国への凄まじい威圧になったはずだ。やはり次代の王はギリウス殿下しかおられない!」
豪華な装飾が施された大食堂では、貴族の生徒たちが昨夜の『大規模魔法演習』の話題で持ちきりだった。
彼らは優雅に紅茶を傾けながら、自分たちの派閥の強大さを誇示し合い、見え透いたお世辞と賞賛を大声で交わし合っている。その誰もが、あの一瞬の炎のために、どれほどの平民が街灯を奪われ、暗闇の中で凍えていたかなど想像すらしていない。
その大食堂の最も端、陽の当たらない窓際のテーブルに、三人の少年が静かに座っていた。
ライルは制服の右肩の下に分厚い湿布と包帯を巻き、腕を動かさないように庇っている。
セシルは左腕を三角巾で吊り、それを隠すように大きめの外套を羽織っていた。
アルドは全身の激しい筋肉痛と打撲の疲労で、テーブルに突っ伏して泥のように眠っている。
「……すごい熱狂ぶりですね。魔法の威光、万歳といったところですか」
セシルが右手だけで器用にスープの匙を動かしながら、周囲の貴族たちを冷ややかに一瞥した。
「ああ。……でも、不思議と腹は立たないんだ」
ライルは、左手で持ったパンをかじりながら、穏やかな声で言った。
「彼らが褒め称えているあの炎は、誰かの血を流して得たものじゃない。ただ権力で集めた魔石を燃やしただけの、安全な箱庭の中の『消費』だ。……僕たちが昨日の夜、暗闇の中で感じたあの重さに比べたら、ひどく軽くて、空っぽに見える」
ライルの言葉に、セシルも小さく笑って頷いた。
「同感です。……私たちはもう、あの箱庭には戻れない。あんな空っぽの熱狂で満たされるには、本物の死線の味を知りすぎてしまった」
三人の少年たちは、周囲の貴族たちが放つ華やかな熱狂の真ん中で、全く別の世界を生きていた。
制服の下に隠された生々しい傷跡と、重い鋼鉄の感触を知った筋肉。そして、森の深淵で自分たちの命と引き換えに手に入れた銀貨二十五枚の重み。
(待っていろ、第二層)
ライルは窓の外、遠くに見える魔物の森の方角を見つめた。
傷が癒え、セシルの指示で完璧な準備が整ったら、またあの泥濘の中へ飛び込もう。
王宮の空虚な炎ではなく、大地に這いつくばって掴み取る本物の炎を、いつか必ず自分たちの手で燃え上がらせるために。
少年たちの静かで、しかし決して消えることのない鋼の決意が、王宮の昼下がりの光の中で静かに研ぎ澄まされていた。
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