第12話:森狼の包囲網と、空を焦がす虚飾
第12話:森狼の包囲網と、空を焦がす虚飾
ブンッ! と、空気を重く叩き切る音が旧厩舎の裏手に響いた。
「――おわっ!?」
ライルは踏み込んだ右足で踏ん張ろうとしたが、真新しい『鋼鉄の片手剣』の遠心力に身体ごと前方へ引っ張られ、たまらず半歩、無様に足が流れた。
肩の関節がギリッと嫌な音を立て、危うく地面に手をつきそうになるのを、腹筋に力を込めてどうにか堪える。
「いてて……」
ライルは肩を回しながら、苦虫を噛み潰したような顔で剣の柄を見つめた。
ドワーフの『軽量鋼』で打たれているとはいえ、学校から支給された量産品の鉄剣とは比べ物にならない密度と重量だ。昨日の二度目のレベルアップで体幹そのものは強化されていたため、アルドが初めて鋼を振った時のように「完全に転倒する」ことだけは免れたが、新しい重心に身体の感覚が全くついていっていない。初めて手に取ってドワーフの親父の前で振った時はしっかりと振れていたはずなのに。あの時は戦闘後のレベルアップと高揚感とで偶々上手く触れてただけなのか。
「はははっ! ようこそ『重すぎる鋼鉄』の世界へ!」
背後から、巨大な鋼鉄の直剣を背負ったアルドが豪快に笑いながら近づいてきた。
「ステータスが上がったからって、いきなり名剣士になれるわけじゃねえんだ。その重てえ切っ先に振られるんじゃなく、腰の捻りで剣の重さを『先導』してやるんだよ。……ま、俺もまだ百発百中じゃねえけどな」
「身をもって痛感したよ。頭でわかっていても、いざ振ると筋肉の使い方が全然違う」
ライルは息を吐き、剣をゆっくりと鞘に収めた。
実践でこれを不用意に振り回せば、確実に体勢を崩して喉笛を噛みちぎられる。当面は風の魔法で相手の体勢を崩し、最小限の動きで「重さを叩きつける」立ち回りに徹するしかない。
「お二人とも、武具の品評会は済みましたか」
旧厩舎の入り口から、セシルが歩み寄ってきた。
彼もまた、鈍く光る『黒鉄の鎖帷子』を着込み、その上から森の暗がりに溶け込む深緑色の丈夫な革コートを羽織っている。腰には、刺突に特化した分厚い鋼鉄の短装剣。
三人の少年たちは、全員が鋼の武具を身にまとい、かつてないほどの重装備に身を包んでいた。
「王宮の様子は、どうでした?」
セシルの問いに、ライルは少しだけ顔を曇らせた。
「……最悪だよ。今日は建国祭の初日で、本来なら学校も休講になって街中でパレードがあるはずなのに。大通りは第一騎士団に完全封鎖されていて、民衆は家から出ることも許されていない。全部、今夜の『魔法演習』のためだ」
ライルは王城の中庭の方角を見やった。
「中庭には、王都中から強引に巻き上げた魔石が山のように積まれている。今夜、日が落ちたと同時に、あれを全部燃やして空に巨大な炎を打ち上げる気だ」
「飢えた民の命の石を燃やして打ち上げる、見栄の塊のような花火ですか。反吐が出ますね」
セシルが冷たく吐き捨て、自身の眼鏡を押し上げた。
「……行きましょうか。王宮の安全な箱庭で狂った火遊びが始まる前に、私たちは私たちの仕事(死線)に向かいましょう」
「ああ。……第二層だ」
ライルが力強く頷き、三人は王都の防壁を越えて、西に広がる魔物の森へと足を踏み入れた。
王都から三キロ。
第一層の最深部を抜け、彼らはついに『その境界』へと辿り着いた。
「……ここから先が、第二層か」
アルドが息を呑む。
太陽の光を完全に拒絶する、真っ黒な森の壁。一歩足を踏み入れると、大気の質が劇的に変わった。
肌にまとわりつくような濃密な魔力が、粘り気を持って皮膚を押さえつけてくる。肺に吸い込む空気すら重く感じられ、強烈な獣の体臭と、古い血の匂いが風に乗って鼻腔を突いた。
『暗緑の領域』。
足元には腐葉土ではなく、魔力を吸って黒く変色した苔が絨毯のように広がり、見上げるほどの巨木たちが陽光を奪い合うように枝葉を複雑に絡み合わせている。
「ライル。感知の具合は?」
セシルが背中合わせになりながら、短装剣を抜いて小声で尋ねた。
ライルは目を閉じ、意識を周囲の風へと溶け込ませようとした。
だが――。
(……ノイズが、多すぎる!)
ライルは思わず顔をしかめた。第一層とは比べ物にならないほど空間の魔力濃度が高いため、大気そのものが常にビリビリと波打っているのだ。嵐の海で小石の波紋を探すようなもので、風の乱れを正確に読み取ることが極めて困難だった。
「駄目だ、感知精度が落ちてる! 周囲の魔力が濃すぎて、正確な位置が……!」
ライルが言いかけた、その瞬間だった。
ガサッ。
右斜め前方のシダの群生が、不自然に揺れた。
それと全く同時に、左後方の木の幹から、乾いた爪の音が微かに響く。
「……囲まれています!」
セシルが鋭く叫んだ。
暗がりの中から、音もなく姿を現したのは――三頭の巨大な狼だった。
体長は優に二メートルを超え、筋肉の隆起した灰褐色の体毛には、周囲の魔力を帯びて微かに緑色の燐光が走っている。
第二層の狩人、『森狼』。
「グルルルル……」
低い唸り声が、三方向から同時に響く。
角兎や牙猪のような、怒りに任せた単調な突進ではない。彼らは明らかに高度な知能を持ち、三人の『退路』と『死角』を完璧に塞ぐ陣形を組んでから姿を現したのだ。
「三匹……最初から連携する気満々かよ」
アルドが鋼鉄の直剣を両手で構え、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「動かないでください。背中を向けた瞬間、あるいは陣形を崩した瞬間に、一斉に飛びかかってきます」
セシルの声も、かつてないほど緊張で張り詰めていた。
森狼たちの黄色い瞳が、獲物を値踏みするように三人を舐め回す。
そして、群れのリーダー格と思われる一際大きな個体が、短く「ワンッ!」と吠えた。
それを合図に、三頭の森狼が全く同時に、しかも異なる軌道で跳躍した。
「来るぞッ!」
アルドが叫ぶ。
正面からアルドの喉笛を狙って飛び込んできた一頭。
アルドは下半身を深く沈み込ませ、鋼鉄の剣を横に振るのではなく、斜め下からカチ上げる『槍衾』の応用で迎え撃った。
ガギィィンッ!
森狼の分厚い顎の骨と鋼鉄が激突し、火花が散る。
(重えッ! 第一層の魔獣とは、筋力の桁が違う!)
アルドの腕力が悲鳴を上げる。レベルアップした肉体と鋼の重量をもってしても、森狼の突進の質量を完全には殺しきれず、ブーツの底がズルズルと数十センチも後ろに押し込まれた。
だが、アルドが正面の個体を必死に食い止めているその隙に、二頭目が最後尾のセシルへと回り込んでいた。
強靭な顎が、セシルの首筋を噛み砕こうと迫る。
「セシル!」
ライルが援護しようとしたが、それより早くセシルが動いた。
「――舐めるな!」
セシルは回避を諦め、噛みつかれる直前に自らの左腕(硬革のプロテクターを重ね着した部分)を、森狼の口の中へ強引に押し込んだのだ。
「ガアァァッ!」
森狼の牙がプロテクターと鎖帷子を貫通し、セシルの左腕の肉に深く食い込む。
「ぐあぁッ……!」
セシルは激痛に顔を歪ませながらも、肉を噛ませて動きの止まった森狼の眼球へ向けて、右手に握りしめた鋼鉄の短装剣を、渾身の力で突き入れた。
ズブッ!
「キャウンッ!?」
ドワーフの鋭い刃が眼球から脳髄へと達し、森狼が絶命して崩れ落ちる。だがその質量に押し潰され、セシルもまた血まみれの左腕を押さえて地面に倒れ込んだ。
「やりました、が……っ、腕が……!」
「よくやったセシル! あとは僕が!」
ライルは叫び、三頭目の――リーダー格の森狼へ振り向いた。
リーダー格はアルドやセシルではなく、最も防御が薄いと見たライルの背後、頭上の木の枝から音もなく飛び降りてきていた。
(上かッ!)
ライルは咄嗟に剣を振ろうとした。だが、昼間に厩舎の裏で体勢を崩した感覚が脳裏をよぎる。
今、この重い剣を上段に向けて振れば、遠心力で確実に体勢が崩れ、斬り損ねた瞬間に喉を噛みちぎられる。
(なら、風で『刃』を無理やり走らせる!)
ライルは腰を深く落とし、鋼の剣を握る右手そのものに、爆発的な『風の推進力』を付与した。
「生活魔法――『風』ッ!」
ドンッ! と空気が弾け、ライルの右腕が風の爆発によって強制的に上空へと跳ね上げられた。
筋肉の力ではなく、魔法の力で強引に引き上げられた鋼の刃。
姿勢は滅茶苦茶で、右肩の関節が外れんばかりの激痛を訴える。だが、風に背中を押されたドワーフの軽量鋼は、恐ろしい速度で落下してくる森狼の胴体を捉えた。
「はぁぁッ!」
ズバァァンッ!
綺麗な一刀両断ではない。刃の角度が浅く、分厚い皮と肋骨にガリガリと引っかかる嫌な感触があった。
だが、風の推進力と鋼の殺意は、強引にその肉を抉り、森狼の腹部を大きく切り裂いた。
「ギャウッ……!」
内臓を撒き散らしながら、リーダー格の森狼が地面に激突し、ピクピクと痙攣したのち、完全に息絶えた。
それを見た一頭目(アルドに押し勝とうとしていた個体)が、形勢不利と悟るや否や、鳴き声一つ上げずに素早く森の暗がりへと逃げ去っていった。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
ライルは右肩を押さえ、剣を杖代わりにして荒い息を吐き出した。
静寂が戻った暗緑の森。
足元には、二頭の巨大な森狼の死骸。
アルドは疲労で膝をつき、セシルは左腕からおびただしい血を流して顔面を蒼白にしている。
「……勝った、のか」
アルドが、信じられないものを見るように自分の手と鋼の剣を見つめた。
「薄氷を踏むような、泥臭い勝利ですがね……っ」
セシルが傷薬を取り出しながら、苦痛に顔を歪めて笑った。
「左腕は肉を抉られました。ですが……私の投資した鋼の武器は、確実に第二層の魔獣の命を奪った」
ライルは自分の右腕を見つめた。
剣を振るう技術はまだ全く足りていない。魔法で強引に腕を動かさなければ、今頃死んでいたのは自分の方だ。
それでも、彼らは第二層の魔獣の連携を、自分たちの血と知恵と、泥臭い工夫で打ち破ったのだ。
「すごいな、僕たち……」
ライルが呟いた、その時だった。
カッ――!
突然、森の樹冠を突き抜けるほどの、強烈な赤い閃光が西の空を照らし出した。
夕暮れなどではない。真昼の太陽を凝縮したかのような、圧倒的で暴力的な光量。
「なんだ、ありゃ……!?」
アルドが空を見上げる。
ドドォォォォンッ!!
少し遅れて、大気を物理的に震わせるほどの凄まじい爆音が、王都の方角から響いてきた。
空が、燃えていた。
王城の中庭から打ち上げられた莫大な魔力が、夜空を真紅の炎で覆い尽くしているのだ。ギリウスによる『大規模魔法演習』の始まりだった。
「……狂ってる」
セシルが、夜空を焦がす炎を見上げて血を吐くように言った。
「あの一発の炎のために……どれだけの民が明日飢えるのか、あの王族たちは想像すらしていない」
赤い光に照らされた暗緑の森の中で、ライルは静かに、だがかつてないほどの強い力で、血塗れの鋼の剣を握りしめた。
「……綺麗だな」
ライルの口から出たのは、思いがけない言葉だった。
「空を焦がすあの炎は、きっと王都のどこから見ても圧倒的に美しくて、強大に見えるんだろう」
ライルは空から視線を下ろし、目の前に転がる森狼の死骸と、血と泥にまみれたアルドとセシルを見た。
「でも、あんなものはただの『虚飾』だ。熱も、痛みも、命の重さも伴わない、見栄を張るだけの花火だ」
ライルの瞳の奥で、静かで青い怒りの炎が燃え上がっていた。
「僕たちの手の中にあるこの泥と血の匂いの方が、あんな空の炎なんかより、よっぽど本物だ」
三人の少年たちは、空を焦がす巨大な狂気を見上げながら、静かに息を整えた。
王宮の温室で守られていた出涸らしの王子は、もうここにはいない。
森の深淵で血を流し、本物の死線を知った彼らの心には、巨大な理不尽の炎をいつか必ず叩き落としてやるという、冷たくて重い『鋼の覚悟』が完全に鋳造されていた。
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