第11話:欠けた鉄剣と、二度目の熱
第11話:欠けた鉄剣と、二度目の熱
王都ベルクンドが、年に一度の『建国祭』の熱気に包まれ始めた初夏の午後。
大通りには色鮮やかな旗が掲げられ、屋台の骨組みが次々と組み上げられている。だが、本来なら一年で最も活気づくはずのその喧騒には、どこか重苦しく、息を潜めるような暗い影が落ちていた。
建国祭の目玉である第一王子ギリウスの『大規模魔法演習』。その莫大な魔力を賄うため、市井の街灯や商業用の魔石が強引に徴用され続け、街の夜は日を追うごとに暗く、冷え込んでいたからだ。
だが、王都の防壁から西へ三キロ。
魔物の森の第一層最深部、境界エリアに身を置く三人の少年たちにとって、王都の祭りの喧騒など、完全に別の世界の出来事だった。
「シャァァァッ!」
薄暗い樹林の中で、鋭い威嚇音が空気を切り裂いた。
赤褐色の体毛に、普通の角兎よりも一回り太く長い漆黒の角を持つ変異種――『大角兎』。
第一層と第二層の境界付近にのみ姿を現す、第一層の主とも言える厄介な個体だ。それが今、二匹同時にアルドへと向かって弾丸のような突進を仕掛けていた。
「来やがれッ!」
アルドは逃げずに腰を落とし、ドワーフの鋼鉄剣を正眼に構えた。
だが、二匹の連携は森狼のそれに近く、恐ろしく狡猾だった。一匹目がアルドの剣の軌道を引きつけるように正面から跳躍し、もう一匹が腐葉土を蹴ってアルドの死角――右斜め後方へと回り込む。
「くっ……!」
アルドは正面の一匹を鋼鉄の剣で弾き飛ばしたが、背後から迫る二匹目の黒角を剣で捌くことは物理的に間に合わなかった。
ガギィィンッ! と、甲高い金属音が森に響いた。
大角兎の必殺の黒角は、アルドの脇腹を直撃した。
だが、その角はアルドの内臓を貫くことはできなかった。彼が身につけている『黒鉄の鎖帷子』が、強烈な刺突の威力を金属の網目で分散し、ガッチリと受け止めたのだ。
「ぐおっ……重てえな、クソウサギがッ!」
アルドは肋骨が軋む痛みに顔をしかめながらも、踏みとどまって剣の柄で大角兎の脳天を殴りつけた。
アルドの着ている黒鉄の鎖帷子は、購入してからまだ数週間しか経っていないというのに、すでに無数の擦り傷や小さな凹みでボロボロになっていた。
それは決して鎖帷子の品質が悪いからではない。アルドの剣術と体捌きがまだ未熟であり、「避けきれない致命傷を、防具の性能に頼って強引に受けている」という、未熟さゆえの泥臭い戦い方の証明だった。
「ライル、今だ!」
アルドが叫ぶ。
「生活魔法――『風』!」
アルドの背後から飛び出したライルが、吹き飛ばされて空中で体勢を立て直そうとしていたもう一匹の大角兎の顔面へ向けて、的確に風の塊を叩きつけた。
以前のような乱暴な突風ではない。魔力を薄く広げ、相手の呼吸のタイミングに合わせた『息継ぎを邪魔する風』だ。
「ギ、キュッ……!?」
空中で不自然に呼吸を乱された大角兎が、無防備な腹をさらけ出して落下してくる。
ライルはそこへ、使い古した鉄の片手剣を突き出した。
ガキッ!
嫌な音がした。
ライルの鉄剣は、大角兎の柔らかい腹部を裂いたものの、その奥にある魔力で硬化した肋骨に斜めから激突してしまったのだ。
「シィィッ!」
致命傷を免れた大角兎が、反撃とばかりに後足でライルの腕を蹴り飛ばす。
「痛っ……!」
ライルは剣を握ったまま後方へよろめいた。
彼の視線の先で、安物の鉄剣の刃が大きく欠け、半月状の『刃こぼれ』がはっきりと見て取れた。
(くそっ……剣が限界だ!)
毎日のスライム狩りや、牙猪の骨と打ち合ってきた安物の鉄剣。こまめに砥石で手入れはしていたものの、金属疲労はすでに限界を超え、今にも真っ二つに折れそうな悲鳴を上げていた。
着地した大角兎が、剣を刃こぼれさせて隙だらけになったライルへと再び突進の構えを見せる。
その時だった。
「……ふっ!」
短い呼気とともに、横合いの岩陰からセシルが飛び出してきた。
手には商人の護身用短剣。彼はライルと大角兎の射線に強引に割り込み、外套を大きく翻して大角兎の視界を一瞬だけ遮った。
ビリィッ!
大角兎の角がセシルの外套をかすめ、古い布地がまた一つ無残に引き裂かれる。
セシルの外套は、すでにアルドの鎖帷子以上に悲惨な状態だった。至る所が破け、夜な夜なセシル自身が針と糸で縫い直した不恰好な「継ぎ接ぎ」だらけになっている。防御力など皆無の布切れだ。一歩間違えれば、あの泥毒蛙の時のように命を落としている。
だが、セシルのその「命懸けの目隠し」が稼いだコンマ数秒の隙は、反撃には十分すぎる時間だった。
「おらァァッ!」
背後から駆けつけたアルドの鋼鉄の剣が、大上段から見事な遠心力を伴って振り下ろされ、大角兎の首を正確に刎ね飛ばした。
「はぁっ、はぁっ……」
「……終わった、か」
二匹の大角兎が沈黙し、静まり返った森の中で、三人の荒い息遣いだけが響き渡る。
その瞬間だった。
――ゾクンッ。
ライルの背骨の奥深く、腰のあたりから首筋へ向けて、熱く煮えたぎるような『雫』が強烈な勢いで駆け上がった。
「――っ!」
ライルは思わず片膝をつき、自身の胸を強く押さえた。
血管を巡る血液が沸騰したかのような熱。だがそれは決して不快なものではなく、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げ、身体の『器』そのものがミシミシと音を立てて拡張していくような、圧倒的な全能感だった。
「……っ、ふぅぅ……。来ましたね、また」
隣で短剣を下ろしたセシルも、ひどく熱に浮かされたような顔で、自身の震える手を見つめていた。
「二度目の、レベルアップ。……前回の角兎の時よりも、遥かに熱くて、重い」
「おう。俺もだ」
アルドが鋼鉄の剣を肩に担ぎ、汗まみれの顔でニヤリと笑った。
「筋肉の繊維が、さっきより一回り太く編み直されたような気分だぜ。……この感覚があるから、森の死線はやめられねえ」
ライルはゆっくりと立ち上がった。
一度目のレベルアップの時は、「身体が軽くなる」という表面的な変化だった。だが今回は違う。体内に巡る魔力の総量が明確に底上げされ、身体の軸が大地に深く根を張ったような確かな安定感があった。
「さて、感慨に浸っている場合ではありませんよ」
セシルが破けた外套の袖を気にしながら、大角兎の解体を始めた。
「この『大角兎の黒角』は、魔法の触媒として第一層の素材の中でも最高値で取引されます。二匹分……これに、泥毒蛙の毒袋の売却益と、ここ二週間の地道な貯金を合わせれば」
セシルは血まみれの短剣を草で拭い、眼鏡の奥で商人としての鋭い光を瞬かせた。
「ようやく……本当にようやく、届きました。目標額に」
「マジか!」
アルドが目を見開いた。
「ええ。アルドの防具を見れば分かる通り、いくら鍛えても限界はあります。ライルの鉄剣はもう今にも折れそうですし、私のこの継ぎ接ぎだらけの外套も、次に爪を立てられれば肉まで持っていかれます」
セシルは立ち上がり、二人の顔を見回した。
「……王都に帰ったら、まずはギルドで全素材を換金します。そしてその足で石炭街へ直行し、ライルと私の分の『装備』を揃える。私たちのパーティの装備水準を、完全に第二層の入り口レベルまで引き上げますよ」
「よし、行こう! ギルドで換金して、ドワーフのオヤジのところへ一番乗りだ!」
アルドが弾んだ声で叫び、三人は疲労も忘れて、夕暮れの近づく王都へ向けて歩き出した。
一時間後。
王都の南門をくぐり、冒険者ギルド王都下部支部で素材の換金手続きを無事に終えた三人は、石炭街へと向かう大通りを歩いていた。
セシルが抱える厚手の革袋の中には、純銀貨が十六枚。
アルドが最初の装備を買った時の全財産(十枚)をさらに超える、途方もない大金だ。
だが、石炭街へ向かう彼らの明るい足取りは、街の中心部に近づくにつれて不自然に重くなっていった。
「……なんだよ、これ」
アルドが、大通りを見渡して顔をしかめた。
明日はついに、建国祭の初日だ。
本来であれば、大通りの等間隔に設置された巨大な魔石の街灯が煌々と灯り、夜通しで出店が並び、前夜祭の歓声が響き渡っているはずだった。
しかし、大通りは薄気味悪いほどの暗闇に包まれていた。街灯は一つ残らず火が落ちており、商店の窓から漏れる微かなランプの光だけが、石畳を弱々しく照らしている。
行き交う人々の顔は暗く、祭りの高揚感など微塵もない。
武装した第一騎士団の兵士たちが、等間隔で街角に立ち、「演習用の魔石供出に感謝する! 明日の夜空を照らすギリウス殿下の魔法の威光を楽しみにせよ!」と、拡声魔道具で空々しい宣言を繰り返していた。
「……街の灯りを全部奪っておいて、何が祭りの前夜祭だ」
アルドが忌々しげに地面に唾を吐く。
「ギリウス殿下は、本気で市中の高純度魔石を根こそぎ徴用したようですね。……あれでは、夜間に操業する工房も、明かりを頼りにする内職の平民たちも、今日明日のパンの金すら稼げませんよ」
セシルが冷ややかな声で分析する。
「王族の権威を示すための魔法演習。その実態は、自分たちの足元の民の首を絞めているだけだ」
ライルの胸の奥で、ズキリと重い痛みが走った。
セシルが大切に抱えている革袋の中の『銀貨十六枚』。自分たちが泥まみれになって稼いだ大金だが、兄のギリウスが明日の夜空にただの見世物として燃やし尽くそうとしている魔石の総額は、その何万倍という額なのだ。
ライルは無意識のうちに、己の拳を強く握りしめていた。
石炭街のドワーフ工房へ向かう足取りは、いつの間にか重く、怒りを孕んだものに変わっていた。
「おう、来たな坊主ども」
石炭街の一番大きなドワーフ工房。
凄まじい熱気と金属音の中、店番をしていた筋骨隆々のドワーフが、ライルたちの顔を見てニヤリと笑った。
「アルドの坊主。鎖帷子が随分と傷だらけじゃねえか。だが、俺の打った鋼の剣には振り回されずに済むようになったみたいだな」
「へっ、まだまだ筋肉痛との戦いだけどな」
セシルが前に進み出た。
カウンターの上に、重い革袋をズン! と置く。
「この間と同じ『黒鉄の鎖帷子』を二着。それと……私の護身用の武器も買い替えたい」
セシルは自身の腰にある鉄の短剣を外し、カウンターに置いた。
「第二層へ行くなら、この商人の護身用玩具では心もとない。魔獣の分厚い皮や筋肉を貫通できる、刺突に特化した鋼の短装剣を一本」
ドワーフは腕を組み、ニヤリと笑った。
「わかってるじゃねえか。第二層じゃ、中途半端な鉄の斬撃は致命傷にならねえからな」
さらにセシルはライルを指差す。
「そして彼に合う、少し軽くて取り回しの良い『鋼鉄の片手剣』を」
「魔法使いの坊主に、鋼の剣か。お前さん、最初に来た時より魔力の通り道がかなり太くなってるな。……いいだろう」
ドワーフが店の奥から持ってきたのは、刀身がわずかに細く、鍔の意匠が洗練された一振りの片手剣だった。
「ドワーフの『軽量鋼』で打った剣だ。純粋な破壊力じゃアルドの剣には劣るが、風の魔法と連動させるなら、こっちの方が圧倒的に振りが速い」
ライルはその剣の柄を握り、店の前のわずかな空き地で軽く一閃してみた。
ブンッ! と、刃が空気を切り裂く鋭い音が響く。
数週間前、アルドが初めて鋼の剣を振った時、彼は遠心力に持っていかれて無様に転倒していた。今のライルも、量産品の鉄剣とは比べ物にならないズシリとした重量を感じている。
だが、ライルの身体は微塵もブレなかった。
踏み込んだ足は大地に根を張ったように安定し、剣の遠心力を、背筋から腰にかけての体幹が完璧に殺し切っていた。
(……身体が、持っていかれない)
ライルは自身の両手を見つめ、目を見開いた。
先ほどの二度目のレベルアップ。あれは単なる魔力や体力の回復ではない。肉体の設計図そのものが、この重い鋼鉄を振るうのに相応しい強度へと、明確に書き換えられていたのだ。
「いただきます」
ライルは深く頷いた。
鎖帷子二着と、刺突用の鋼鉄の短装剣、そしてライルの軽量鋼の剣。
セシルの革袋から出された銀貨十六枚の全財産は、綺麗に消えてなくなった。
だが、彼らが身にまとった装備は、もはや「木っ端の初心者」のそれではない。鈍く光る黒鉄の鎖帷子と、殺意を帯びた鋼の刃。
三人の少年たちはついに、森の第二層へ足を踏み入れるための『最低限の絶対条件』をクリアしたのだ。
その日の深夜。
冒険者としての服を脱ぎ、王宮の室内着に着替えたライルは、自室のバルコニーから王都の街並みを見下ろしていた。
街灯の消えた王都は、まるで死んだように静まり返っている。
だが、ライルの背後――ベルクンド王城の巨大な中庭では、全く別の光景が広がっていた。
そこには、第一騎士団の魔法士たちが数百人規模で動員され、直径五十メートルにも及ぶ巨大な『複合魔法陣』を地面にチョークと銀の粉で描き出している真っ最中だった。
魔法陣の要所要所には、大人の頭ほどもある巨大な高純度の魔石が、何十個も惜しげもなく設置されている。市中から強引に巻き上げられた、街の灯りとなるはずだった命の石だ。
『戦わずして勝つ王者の戦術です』
晩餐の席で、長兄ギリウスが涼しい顔で言い放った言葉が脳裏に蘇る。
明日の夜、この魔法陣から空へ向かって、圧倒的な規模の『火炎球』が打ち上げられる。
それは隣国への牽制であり、同時に、次兄グリードや他の貴族たちに対する「自分の王位継承は盤石である」という権威の誇示だ。
その一瞬の見栄のために、王都の民は暗闇に震え、今日のパンを我慢している。
ライルは欄干を強く握りしめた。
二度目のレベルアップを果たし、鋼の剣を手に入れた。
だが、今ここで僕が鋼の剣を抜いて中庭に飛び降り、兄の魔法演習をぶち壊したところで、何になる? 反逆罪で捕らえられ、処刑されるだけだ。
「……力。圧倒的な、理不尽を塗り潰せるだけの本物の力が、要る」
ライルは暗闇の王都を見つめたまま、静かに呟いた。
「第二層へ行こう。……兄上たちのこの狂ったお遊戯を、根底からひっくり返せるだけの力を、あの森の深淵で手に入れるんだ」
明日は建国祭。
王都の空が狂ったような魔法の炎で照らされるその時。
ちっぽけな三人の少年たちは、王都に背を向け、真の死線が待つ『暗緑の領域(第二層)』へとその足を踏み入れることになる。
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