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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第1章 放課後の冒険者

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第15話:泥の反復と、鋼の研ぎ澄まし

第15話:泥の反復と、鋼の研ぎ澄まし


ドスゥン、と鈍く重い地響きが、初夏の乾いた休耕地を揺るがした。


「……もう一本だ、アルド! 息を吸いすぎるな、腹の底から細く吐きながら沈め!」

ライルの張りのある声が、埃っぽく生暖かい風に乗って響く。


王都南門の外。かつては王都の食糧を支えていたものの、魔獣被害の激化に伴って耕作が放棄された広大な休耕地。茶色くひび割れた土と枯れ草がどこまでも広がるその真ん中で、少年たちの泥まみれの肉体が、照りつける昼下がりの陽光に灼かれていた。


上半身のシャツを脱ぎ捨てたアルドの筋骨逞しい背中には、玉のような汗がびっしりと浮かび、筋繊維が隆起するたびに陽光を反射してぎらぎらと光っている。

両肩に担いでいるのは、農家の廃屋から引きずり出してきた直径四十センチ、長さ二メートルを超える巨大な樫の丸太だった。樹皮が剥がれ、黒ずんだ木肌がアルドの首筋や鎖骨に容赦なく食い込み、ぎしぎしと鈍い軋み音を立てている。


「ふ、ぐぅぅ……っ、せ、千百、十三……っ!」

アルドの太い喉仏が上下し、口の端から白い泡混じりの唾液が垂れた。

太ももの大腿四頭筋が小刻みに痙攣を繰り返し、膝が今にも内側へ折れそうになる。それを必死に両足の指先で土を掴むことでこらえていた。

その赤黒く日焼けした腹部には、数日前に第一層最深部の境界線で大角兎(グレートホーン)の突進を鎖帷子越しに受けてできた、巨大な青黒い打撲痕が、痛々しく赤く鬱血して残っている。息を吸い込むたびに肋骨を締め付ける激痛が走るはずだが、アルドは歯を剥き出しにして、獣のような形相で腰を落とし続けていた。


「踵(かかと)が浮いていますよ、アルド」

少し離れた枯れ木の木陰。平らな岩の上に腰を下ろしたセシルが、膝の上に広げた分厚い手帳から視線を外すことなく、冷ややかな声を飛ばした。

手には細身の羽ペンが握られ、紙面には細かい数字や計算式、そして三人の行動記録が狂いなく几帳面に書き留められている。


「つま先に体重が偏れば、魔獣の突進を受けた瞬間に足首の関節が砕けます。昨日、大角兎の角に鎖帷子のリングを数個弾き飛ばされた根本的な原因は、踏み込みの最後の半歩で踵が地面を掴みきれていなかったからです。重心は常に土踏まずの真上。骨盤を立て、背骨を真っ直ぐに伸ばしたまま沈んでください。……姿勢が崩れましたね。やり直しです、あと五十回追加」


「おまっ……セシル、てめえ……! 帳簿握ってるだけの商人の分際で、涼しい顔して無茶苦茶言いやがって……っ!」

アルドの喉から、呪詛のような呻き声が漏れる。


「帳簿を握っているからこそ、無駄な負債――すなわち治療費と防具の修繕費を計上したくないのですよ」

セシルは眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、手帳のページを指先で弾いた。

「あなたの鎖帷子の破断したリングを、今朝一番で石炭街のドワーフの工房へ持ち込み、修繕してもらうのにいくらかかったか覚えていますか? 純銀貨一枚と銅貨十枚です。あなたが無様に足捌きを誤り、防具の性能に甘えたツケが、そっくりそのまま私たちの共有資産から目減りしているのです。……文句を言う暇があるなら、大腿筋を締めて沈みなさい」


「ぐぬぬ……! 金の話を出されると、一言も言い返せねえのが腹立つぜ……!」

アルドは額に浮き出た血管を怒張させ、泥と枯れ草を踏みしめながら、再びギリギリと音を立てて丸太を担ぎ直した。


そのアルドの隣で、ライルは木陰の端に立ち、腰から抜き放った『軽量鋼の片手剣』を正眼に構えていた。


(……風を、刃に乗せるんじゃない。刃の走る軌道に、風を沿わせるんだ)


ライルは目を閉じ、自身の呼吸を森の微風と同調させるように整えていく。

半月前、第二層の暗緑の領域で森狼(フォレストウルフ)の奇襲を受けた際、ライルは右肩の筋肉を強引に風の推進力で引き裂くようにして剣を跳ね上げた。あの捨て身の一撃は確かに仲間を救い、森狼の胴を切り裂いたが、その代償として右肩の筋組織を破壊し、半月近くも右腕を吊るす羽目になった。

実戦で毎回あんな自爆技を使っていれば、いずれ本当に右肩の関節が外れ、一生剣を握れなくなる。


(僕の身体の器は、まだ兄上たちのような圧倒的な魔力にも、アルドのような頑丈な筋肉にも達していない。だからこそ、無駄を削ぎ落とさなきゃいけないんだ)


ライルはゆっくりと目を開き、前方の空間を見据えた。

筋肉の力で力任せに振ろうとすれば、ドワーフの軽量鋼が持つ密度の重さに身体ごと引っ張られてしまう。

ライルは肩の力を完全に抜き、剣の重心――切っ先から拳一つ分手元に寄ったポイントに意識を集中させた。重力が刃を地面へ引っ張ろうとする自然な落下運動を、肩甲骨の柔らかいスライドで受け止め、水平の「円」の軌道へと滑らかに導いていく。


シュンッ――!

空気を切り裂く音が響く。以前のような、重さに振り回された濁った風切り音ではない。水面に薄氷を走らせるような、鋭く澄んだ高音だった。


「……生活魔法、『風(ウィンド)』」


剣が最速のトップスピードに達し、身体の正中線を通過するコンマ一秒前。

ライルは自身の身体ではなく、剣の峰(背の部分)のわずか数ミリ後ろの空間へ向けて、針の先ほどの極小の気流の塊を解放した。


カッ! と、目に見えない大気の破裂が、刃の背中を後押しする。

ライルの筋肉には、何の反動も負荷もかからない。ただ、自然なスイングの速度だけが、風の助力を得て一瞬にして二倍以上の鋭利な加速へと跳ね上がった。


ピタリ、とライルの身体はブレることなく、右足を半歩踏み出した完璧な姿勢のまま静止した。

右肩に焼け付くような痛みはない。遠心力に持っていかれそうになる感覚も、二度目のレベルアップで強化された下半身の粘りが、綺麗に大地へといなしていた。


「……うん、これだ」

ライルは剣を構え直さず、じっと自分の右手のひらを見つめた。

手のひらに伝わる鋼の冷たさと、微かに残る気流の振動。

以前のような乱暴な突風で相手を吹き飛ばすのではなく、自分の身体と武器の延長線上に、最小限の自然の力を添える感覚。エルフの老人が語っていた「風と対話し、風を味方につける」という教えの断片が、何千回という素振りの反復の果てに、ようやく指先に宿り始めていた。


「素晴らしい精度ですね、ライル」

いつの間にか立ち上がっていたセシルが、手帳を片手に歩み寄り、感嘆の息を漏らした。

「最初の頃の突風と比べれば、消費魔力はおよそ十二分の一。それでいて、刃先にかかる運動エネルギーと切断力は、アルドの直剣の振り下ろしに匹敵します。何より、身体への負荷がほぼゼロだ。……これなら、連続して十回、二十回と振るうことが可能です」


「ありがとう、セシル。でも、まだ止まった空気の中で振っているだけだからね。実戦で、泥毒蛙(マッドトード)の粘液や大角兎の不規則な跳躍を前にして、このタイミングを完璧に合わせられるかどうかは……まだわからない」

ライルは息を整えながら、腰の布で丁寧に刀身の汗を拭った。


二度目のレベルアップ。鋼の武具の一新。ギルドでのEランク昇格。

客観的に見れば、彼らはいっぱしの冒険者としての体裁を整えつつあった。

だが、昨日の夕方、第一層最深部の境界線で垣間見た『第二層の深淵』――樹上猿の狡猾な集団奇襲と、オークの放つ絶対的な暴力の重圧を肌で知った彼らに、慢心など欠片も残っていなかった。


「おい……セシル、ライル……っ!」

ドンガラガッシャァァン! と、凄まじい音を立てて丸太が地面に放り投げられた。

アルドが泥まみれの地面に仰向けに倒れ込み、胸を激しく上下させながら天を仰いで喘いだ。

「ノルマ……終わったぞ……! もう指一本、爪の先一つ動かねえ……! 水をくれ、干からびて死ぬ……!」


「はいはい、お疲れ様でした。熱中症で倒れられては困りますからね」

セシルが苦笑しながら水筒を放ってやると、アルドは起き上がることもできず、寝転がったまま震える手で水筒の蓋を開け、喉を鳴らして泥水のように水を煽った。


「ぷはぁっ……! 生き返った……。くそっ、貴族学校の演習が天国に思えるぜ」

アルドが腕で口元を拭い、泥だらけの顔を歪めて笑った。


地味で、退屈で、過酷極まりない泥の反復。

だが、この乾いた土の味を知る時間こそが、あの真っ黒な森の深淵で、自分たちの首の皮一枚を繋ぎ止める唯一の命綱なのだと、少年たちは誰に教わるでもなく理解していた。


十分間の休憩の間、三人は木陰の乾いた草の上に腰を下ろし、それぞれの装備の点検を始めた。


「……しかし、ドワーフの細工ってのは本当に大したもんだな」

アルドが、膝の上に広げた『黒鉄の鎖帷子』の腹部を指先でなぞりながら、しみじみと呟いた。

今朝直してもらったばかりの修繕箇所。大角兎の角で弾き飛ばされ、無残に穴の空いていた部分には、ドワーフの親父によって新しい鋼のリングが見事に編み込まれ、銀色の継ぎ目が鈍い光を放っている。


「頑丈なのは結構ですが、金属疲労は目に見えない部分に蓄積しますよ」

セシルが自身の腰から『鋼鉄の短装剣(ダーク)』を引き抜き、刃先を陽光にかざして微細な歪みがないかを入念に確認しながら言った。

「アルドの鎖帷子だけでなく、ライルの軽量鋼の剣も、私の短装剣も、第二層の魔獣の分厚い骨や皮と打ち合えば、確実に微細なヒビが入ります。……ギルドで森狼の魔石を換金して手に入れた銀貨二十五枚。そのうちのすでに八枚が、ポーションの補充、解毒薬のストック、そして武具のメンテナンス費用で消えました」


「もう三分の一も消えたのか!?」

アルドが水筒を抱えたまま、目を丸くして叫んだ。

「おいおい、銀貨二十五枚っつったら、俺の親父の領地の平民が半年暮らせる大金だぞ!? なんでそんなあっという間に無くなるんだよ!」


「当たり前です。命を乗せる道具の整備をケチる商人がどこにいますか」

セシルは手帳の収支欄をペン先で鋭く叩いた。

「森狼の魔石が高く売れたからといって、浮かれてはいられません。今の私たちの実力では、第二層に入れば一戦ごとに武具を削られ、傷薬を消費し、収支は常に赤字の危険と隣り合わせです。……確実に利益(生存)を出すためには、被弾そのものをゼロに近づけるしかないのです」


セシルの言葉は厳しかったが、痛烈な真実だった。

ライルは自分の足元を見つめた。王宮から履いてきた上質な牛革のブーツはとっくにボロボロになり、今は下町の露店で買った、底の厚い硬革の作業用ブーツを履いている。その爪先や靴底の隙間にも、休耕地の泥と、森の腐葉土が何重にもこびりついていた。


「ねえ、セシル」

ライルがふと、胸の奥に引っかかっていた疑問を口にした。

「王都の様子は、どうなっている? 建国祭が終わってから、街の空気は少しは落ち着いたのかな」


ライルは昼間、王立学校の敷地内と王宮の自室を往復するだけで、市井の様子を直接見る機会が少ない。

商会のネットワークを持ち、王都の物流の最前線にいるセシルなら、王都の裏側の動きを誰よりも正確に把握しているはずだった。


セシルは手帳から視線を外し、眼鏡の奥の瞳に重い影を落とした。

「……落ち着くどころか、悪化の一途を辿っていますよ」


セシルの声のトーンが、一段低くなった。周囲に誰もいない休耕地であるにもかかわらず、自然と声を潜めている。

「ギリウス殿下が演習で浪費した莫大な魔石の穴埋めのため、魔法省は市中の魔石流通に対して臨時の『国家保安上納金』を課し始めました。実質的な大増税です。おかげで魔石の末端価格は建国祭前の二倍以上に跳ね上がりました」


「二倍……!?」

アルドが息を呑む。


「ええ。その影響を真っ先に受けたのが、王都の下町です。熱源となる魔石が買えず、操業を停止する鍛冶屋や硝子工房、製パン所が続出しています。職人たちは職を失い、夜間営業を取りやめた酒場や宿屋からは明かりが消え、夜の治安は急速に悪化しています。路地裏では、パンを奪い合う平民の暴動寸前の小競り合いが、毎晩のように起きている始末です」


「……酷いな」

アルドが苦々しげに顔を歪め、地面の草を引きちぎった。

「大通りで派手に炎を打ち上げて、隣国をビビらせましたってドヤ顔しといて、足元の民草の生活をぶっ壊してんじゃ世話ねえぜ。貴族の連中は、誰も文句を言わねえのかよ」


「言えるはずがありません。演習の大成功で、ギリウス殿下の王位継承における発言権は過去最高に高まっていますからね。貴族院の古株連中や中央の大貴族は、次の国王の覚えをめでたくしようと、殿下の機嫌取りに必死です」

セシルは乾いた冷笑を漏らした。

「一方で、グリード殿下の動きも極めてキナ臭くなっています。兄の失政によって生まれた民衆や商人たちの不満を裏で巧みに煽り、自らの派閥に取り込もうとしている。新興貴族や地方領主たちに声をかけ、私兵団の武装強化を名目に、秘密裏に武器や物資を買い占めていますよ。……王都の地下では、目に見えない巨大な亀裂が、日々音を立てて広がっています」


ライルの胸の奥で、冷たい鉛の塊がズシリと沈み込んだ。


王宮の晩餐で見た、二人の兄の姿が鮮明に蘇る。

黄金の刺繍を施した豪奢な外套をまとい、数万の金貨をまるでチェスの駒のように動かしていた長兄ギリウス。

その向かいで、冷徹な瞳で血と鉄の現実を説き、自らの私兵団を正規軍に組み込もうと画策していた次兄グリード。

彼らが安全で豪華な王城の密室で繰り広げている権力闘争のツケは、すべてこうして、街の灯りを奪われ、明日のパンに怯える平民たちへと容赦なく降りかかっているのだ。


(……僕は、どうなんだ?)


ライルは、泥のついた自分の手のひらをじっと見つめた。

自分は第三王子でありながら、兄たちの暴走を止めることもできず、王宮の晩餐では無害な愚弟の仮面を被って沈黙を守っている。

放課後になれば冒険者気取りで森へ出かけ、泥まみれになって小銭を稼ぎ、自己満足の「成長」に浸っているだけではないのか。

自分がこうして休耕地で呑気に素振りをしている間にも、王都の路地裏では子供たちが暗闇の中で凍えている。自分のこの無力さと沈黙そのものが、兄たちの理不尽な搾取に加担しているのと同じではないのか――。


重い自己嫌悪と無力感が、黒い泥のようにライルの心を覆い尽くそうとした。

その時だった。


「――何を湿気た面をしてるんですか、ライル」


冷徹で、容赦のない声が、ライルの沈んだ思考をバッサリと切り裂いた。


顔を上げると、セシルが立っていた。

眼鏡の奥にある切れ長の瞳が、絶対零度の厳しさと、その奥にある痛いほどの真剣さを湛えて、ライルを真正面から射抜いていた。


「セシル……」


「あなたが王族としての良心に苛まれ、国の行く末に心を痛めるのは勝手ですがね」

セシルは手帳を懐にしまい、腰の短装剣のベルトをグッと締め直した。

「金貨数万枚の国家予算を動かす兄君たちと、今の自分を比べるなど……思い上がりも甚だしいですよ」


「思い、上がり……?」

ライルが呆然と呟くと、セシルは冷たく首を横に振った。


「そうです。今の私たちは何者ですか? 第二層の森狼一頭に腕を食われ、肩の筋肉を壊し、命からがら逃げ帰ってきただけの、哀れなEランクの駆け出し冒険者ですよ。……違いますか?」


セシルは一歩前に踏み出し、ライルの足元の泥を指差した。

「国家の治安や民の困窮を憂う前に、まずは目の前の大角兎の角を、鎖帷子に触れさせずに躱す技術を身につけなさい。自分の身一つ守れず、森の浅瀬で犬死にするかもしれない未熟者が、国を救うだの民を助けるだのと……傲慢以外の何物でもありません」


「……っ」

ライルの胸に、セシルの言葉が刃のように突き刺さる。


「兄君たちに怒りを覚えるなら、結構なことです」

セシルの声音が、わずかに熱を帯びた。

「ですが、無力な正義感ほど無価値なものはありません。あの理不尽を叩き潰したいなら、兄君たちの敷いた盤上を根底からひっくり返したいなら……今はただ、目の前の泥をすすりなさい。自分の足元の泥を支配できない人間に、王都の石畳を動かすことなど金輪際不可能です」


セシルの言葉は容赦がなかった。

だが、その言葉の裏側には、「お前を王宮の無力な道化で終わらせるつもりはない」という、商人の息子の冷徹で強固な覚悟が込められていた。


「……セシルの言う通りだぜ、ライル」

いつの間にか起き上がっていたアルドが、泥まみれの太い手で、ライルの肩をバシィン! と力強く叩いた。

「俺たちのやっていることは、王宮の連中から見りゃただの泥遊びかもしれねえ。だがよ、俺の腕の筋肉も、お前の風の太刀筋も、この泥の中でしか手に入らなかった本物だろ。……小さくて上等じゃねえか。泥水をすすって、すすって、すするだけすすって……いつかあいつらの玉座を、泥まみれの足で蹴っ飛ばしてやろうぜ」


「アルド……」


ライルは二人の親友の顔を見回した。

痛む腕を隠して冷徹な論理でブレーキを踏み続けるセシルと、全身に青痣を作りながら獰猛な笑みを浮かべるアルド。


胸の奥に渦巻いていた暗い靄が、嘘のように消え去っていった。

(……そうだ。僕は、また焦って背伸びをしようとしていた)


ライルは深く息を吸い込み、肺いっぱいに休耕地の乾いた空気を取り込んだ。

王宮の豪奢な晩餐で交わされる金貨数万枚の話に惑わされるな。

今、自分たちが立っているのは、この茶色い土の上だ。

自分たちの強さは、誰かから与えられた肩書でも、税として巻き上げた金でもない。

自分の筋肉を痛め、骨を軋ませ、親友たちと背中を預け合って掴み取る、この「一歩」の積み重ねの中にしかないのだ。


「……ありがとう、二人とも」

ライルは顔を上げ、しっかりと二人を見据えた。

その瞳から迷いは完全に消え去り、静かで澄んだ決意の光が宿っていた。


「目が覚めたよ。……僕たちには、僕たちの戦い方がある」

ライルは軽量鋼の片手剣を抜き放ち、切っ先を青空へと向けた。

「行こう、アルド。セシル。……泥の反復の続きだ」


「へっ、そうこなくっちゃな!」

アルドが木剣を拾い上げ、獰猛な笑みを浮かべて身構えた。

「さっきの素振りの成果、俺の身体で試してみな! 躱せなかったら、今度は俺が丸太でお前をぶっ飛ばすからな!」


「望むところだ。……セシル、記録をお願い」

「ええ、喜んで。……手帳のページが尽きるまで、あなたたちの無様な失敗を記録し続けてあげますよ」

セシルが眼鏡を光らせ、羽ペンを構えた。


「行くぞッ!!」


アルドの咆哮とともに、模擬戦が幕を開けた。

アルドの巨体が、大角兎の突進を模した猛烈なスピードで腐葉土を蹴り破り、ライルの懐へと一直線に肉薄してくる。木剣とはいえ、アルドの圧倒的な質量と腕力が乗った切っ先は、直撃すれば骨を砕く威力を持っている。


ライルは目を凝らし、アルドの重心の揺らぎを見据えた。

(……右肩がわずかに沈んでいる。斜め下からの突き上げだ)


激突のコンマ五秒前。

ライルは左足を踏み出し、身体を半歩だけ横へ滑らせた。

だが、アルドの木剣の切っ先は、まるで吸い付くようにライルの進路を塞ぐように軌道を変えてくる。


「生活魔法――『風(ウィンド)』」


ライルはアルドの木剣に向けて魔法を放ったのではない。

自らの左の腰骨の脇へ向けて、極小の突風を斜め後ろへ炸裂させた。

ドンッ! と、目に見えない大気のクッションがライルの身体を真横へと弾き飛ばす。


バシュッ! と、アルドの木剣がライルの胸元の布地をわずか一ミリかすめて空を切った。


空振りし、一瞬だけ体勢が前のめりになったアルドの無防備な側頭部。

そこへ向けて、気流の加速に乗ったライルの軽量鋼の剣が、完璧な水平の弧を描いて閃いた。


シュンッ――!

風を沿わせた刃が、アルドの首筋のわずか数ミリ手前で、ピタリと静止した。


「……参った」

アルドが木剣を降ろし、息を呑んだまま苦笑いを浮かべた。

「今の風……相手の武器を逸らすんじゃなくて、自分の身体を強制的に横へスライドさせやがったな。あんな動き、人間ができるわけねえだろ」


「相手の質量が大きい時は、相手を動かすより自分を動かした方が、必要な魔力が少なくて済むんだ」

ライルは剣を収め、汗を拭いながら笑った。

「エルフの言葉を思い出したんだよ。風を支配するんじゃない、風に乗るんだってね」


「……合格点、ですね」

木陰からセシルの冷静な声が響いた。

「回避から反撃までのタイムラグ、コンマ四秒。これなら、大角兎の角に鎖帷子を触れさせることなく、首を刎ねることができます。……ただし、今の機動は足腰の関節に強烈な遠心力がかかります。連続使用は三回が限度ですね」


「了解だ。……もう一本、行こうか!」

「おうよ! 次は俺がその風の軌道を読んで、木剣を叩き落としてやる!」


休耕地に、三人の少年たちの明るい怒号と、大地を蹴る力強い足音が何度も、何度も響き渡った。

転び、泥にまみれ、擦り傷を作りながら、彼らは手探りで、しかし確実に、自分たちだけの「生き残るための戦術」を編み上げていく。


王都の空を焦がした、中身のない虚飾の魔法の炎よりも。

王宮の豪奢な晩餐会で語られる、数万枚の金貨の話よりも。

この休耕地の泥にまみれ、親友たちと汗を流して掴み取る一握りの成長こそが、今のライルにとって、世界の何よりも尊く、確かな真実だった。


その日の夕暮れ。

王都の南門をくぐる三人の影は、全身が乾いた泥と汗で真っ白になっていた。

だが、その足取りには、朝方の迷いや焦りは微塵もなかった。


「……明日も、放課後は休耕地ですね」

セシルが手帳を鞄にしまい、少しだけ疲れた顔で言った。

「アルドの体幹の安定度は八割五分に達しました。ライルの風による緊急回避も、実戦投入の目処が立ちました。……ですが、まだ足りません。境界線エリアで、生きた大角兎を相手にこの連携を完全に再現できるようになるまで、あと最低でも三日は必要です」


「おうよ! 三日でも四日でも付き合ってやるぜ! あの森狼の群れに、もう二度とセシルに噛みつかせねえためならな!」

アルドが白い歯を見せて笑う。


ライルは夕日に染まる王都の街並みを見上げた。

街灯の火が落ち、少しずつ薄暗い夜の闇へと沈んでいく王都。

その中央にそびえ立つ、冷たく巨大な白亜の王城を見つめながら、ライルは胸元に下げたEランクの銅プレートを、制服の内側からそっと握りしめた。


(見ていてください、ギリウス兄上、グリード兄上)


冷たい金属の感触が、ライルの手のひらに確かな重みを与えてくれる。


(あなたたちがどれだけ空の上で炎を燃やそうと、どれだけ盤の上で金を動かそうと……僕は、この大地に這いつくばって、誰にも折られない本物の『鋼の力』を手に入れてみせます)


十七歳の少年たちの放課後は、まだ始まったばかりだった。

森の深淵へ挑むための、泥臭く、しかし決して揺らぐことのない準備の日々が、静かに、そして力強く続いていく。

皆様からのご意見・ご感想をお聞かせください。

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