第39話 俺、初めて魔法を成功させる
風邪が治った。
いや、実に長い戦いだった。たった数日寝込んだだけなのだが、千年以上病気とは無縁だった俺にとっては、なかなか貴重な体験だった。
何しろゴーレムだった頃は、疲れることもなければ熱を出すこともなかった。それが人間になった途端、ちょっと体調を崩しただけで動けなくなるのである。
人間って、本当に不便だ。
でも、そのおかげで聖女に看病してもらえたし、リナもお見舞いに来てくれた。
……まあ、悪いことばかりではなかったな。
そして今日。
俺はついに、勉強を再開する許可をもらった。
◇
『アレン、もう本当に大丈夫なんだな?』
朝食を終えた俺に、勇者が尋ねてきた。
俺は全力で頷く。
「だいじょぶ!」
『熱もないし、食欲も戻ってるし……まあ、大丈夫そうか』
勇者は俺の額へ手を当て、納得したように頷いた。
ふっ。
当然だ。
俺はもう完全復活している。
今日から文字の勉強も、身体の練習も、魔法の勉強も再開できるはずだ。
『ただし、無理はするなよ』
分かってる。
何回も言わなくていい。
『お前、放っておいたら一日中練習してそうだからな』
……。
否定できない。
◇
聖女が机の上へ、見覚えのあるものを並べ始めた。
魔法の本。
小さな透明の石。
そして、以前見せてもらった生活魔法の教材だ。
俺は思わず身を乗り出した。
おお。
魔法だ!
ついに再開か!
聖女は俺の反応を見て微笑み、ゆっくり本を開いた。
そこには、小さな光の玉を作り出す魔法が描かれていた。
……。
これは。
もしかして。
今日こそ実際に魔法を使わせてもらえるのか?
◇
『良かったな、アレン』
勇者が笑った。
『母さんが、今日は少しだけ魔法を使う練習をしてもいいってさ』
……!
俺は目を見開いた。
ついに。
ついにこの日が来た!
何百年もゴーレムとして生き、圧倒的な力で勇者たちを何度も全滅させてきた俺が、ようやく魔法の練習を許されたのである。
……。
いや、待て。
何だろう。
こうして考えると、ものすごく情けない。
最強クラスのゴーレムが、一歳児になって小さな光を出す練習で大喜び。
人生、何があるか分からないな。
◇
聖女は俺の前へ座り、両手を見せた。
そして片方の手を開き、指先へ小さな光を灯す。
淡い光が、ふわりと浮かび上がった。
綺麗だ。
以前にも見せてもらった魔法だが、何度見ても不思議な気分になる。
聖女はその光をゆっくり消すと、俺の手を取った。
そして、身体の奥へ意識を向けるように身振りで教えてくれる。
なるほど。
まずは魔力を感じるところからだな。
俺は頷いた。
◇
目を閉じる。
呼吸を整える。
身体の奥へ意識を向ける。
……。
…………。
あった。
以前の練習で感じた、小さな温かさ。
身体の内側に、何かがあるような感覚だ。
ゴーレムだった頃とは違う。
あの時は、コアを中心に魔力が広がっているような感じだった。身体そのものが鉱石だったし、魔力を使うことに何の抵抗もなかった。
でも今は人間だ。
魔力を感じるだけでも、少し集中しなければならない。
俺はゆっくり目を開けた。
「ま……りょく」
聖女が嬉しそうに頷いた。
◇
『じゃあ、今度はそれを指先へ動かしてみよう』
勇者が通訳してくれた。
なるほど。
魔力を動かす。
今まで禁止されていた練習だ。
俺は少し緊張した。
聖女が俺の手を包み、もう一度ゆっくり説明してくれる。
必要なのは、本当に少しだけ。
光を作ることよりも、魔力を安全に動かすことが大切らしい。
俺は頷いた。
分かってる。
ゴーレム時代みたいに、何となく大量の魔力を使ったりはしない。
あの頃は何度も失敗したからな。
……いや。
失敗で済ませていい規模ではなかった気もするけど。
◇
俺は右手を前へ出した。
小さな手のひら。
短い指。
まだ一歳児の身体だ。
この手から魔法が出る。
そう考えるだけで、少しわくわくしてくる。
俺は身体の奥にある温かさへ意識を向けた。
そして、それをゆっくり腕の方へ動かそうとする。
……。
…………。
動かない。
いや、正確には動いているのか分からない。
俺は首を傾げた。
おかしい。
頭の中では簡単そうだったのに。
◇
『どうした?』
勇者が尋ねてきた。
俺は首を横へ振る。
『上手くいかない?』
頷く。
『まあ、最初はそんなもんだよ』
……本当か?
『俺も最初に魔法を教わった時は、結構苦労したし』
そうなのか。
それなら仕方ない。
いや、待てよ。
勇者が苦労したからといって、俺も同じだけ苦労する必要はないだろ。
何しろ、こっちは千年以上生きてるんだぞ。
……。
魔法の練習とは、あまり関係ないか。
◇
聖女は俺の様子を見て、もう一度魔力の動かし方を説明してくれた。
ただ押し出すのではなく、流れを意識する。
身体の中にある魔力を、少しずつ手の方へ運ぶ。
そんな感じらしい。
俺は再び目を閉じた。
魔力を感じる。
温かい。
そこから腕へ。
ゆっくり。
無理に動かさない。
……。
お?
今、少しだけ何かが動いたような気がした。
俺は意識を集中させた。
すると、手のひらがほんの少し温かくなった。
……!
これだ!
◇
俺は思わず目を開けた。
しかし。
何も起きていない。
手のひらは普通のままだ。
光も出ていない。
……あれ?
勇者が俺の顔を覗き込む。
『どうした?』
俺は手のひらを指差した。
「ま……りょく!」
『ああ、魔力が動いた感じがしたのか』
頷く。
勇者は少し驚いた顔をした。
『おお、それなら一歩前進だな』
聖女も嬉しそうに笑ってくれた。
……よし。
少しずつ分かってきたぞ。
◇
その後も、何度か同じ練習を繰り返した。
魔力を感じる。
腕へ動かす。
手のひらへ集める。
最初は上手くいかなかったが、少しずつ感覚がつかめてきた。
ただし、まだ光は出ない。
何度やっても、手のひらが温かくなるだけだ。
俺は少し焦り始めた。
……何でだ?
魔力はある。
動かす感覚も分かってきた。
なのに、魔法にならない。
俺は聖女を見上げた。
彼女は優しく微笑むと、もう一度自分の指先へ光を灯した。
◇
聖女は光を見せながら、何かを説明してくれる。
勇者が通訳した。
『魔力を動かすだけじゃなくて、どんな魔法を使うか、ちゃんとイメージする必要があるんだって』
イメージ。
なるほど。
そういうことか。
俺は光の玉をじっと見つめた。
小さい。
柔らかい。
蝋燭の火とは違って、揺れても熱くない。
暗い部屋を照らすための、優しい光。
……。
暗い部屋。
その言葉で、俺は昔のことを思い出した。
◇
ゴーレムだった頃。
俺は長い間、暗い部屋に閉じ込められていた。
周囲には鉱石があり、壁があり、巨大な扉があった。
でも、外へ出ることはできなかった。
誰も来ない。
誰とも話せない。
そんな日々が、何百年も続いた。
あの頃。
もし、こんな小さな光を作れたら。
何か変わっていただろうか。
……いや。
きっと大して変わらなかっただろう。
でも、少なくとも。
真っ暗な部屋を、自分の力で照らすことはできたはずだ。
◇
俺は手のひらを見つめた。
小さな光。
それだけでいい。
誰かを攻撃するためでもない。
何かを壊すためでもない。
ただ、目の前を照らすための光。
俺はゆっくり目を閉じた。
魔力を感じる。
腕へ動かす。
手のひらへ集める。
そして。
小さな光を思い浮かべる。
……。
…………。
その瞬間。
指先が、ほんの少し明るくなった。
◇
「……あ」
俺は目を見開いた。
指先に、小さな光が浮かんでいた。
聖女が見せてくれたものより、ずっと弱い。
今にも消えてしまいそうな、頼りない光。
でも。
確かに光っている。
俺は息を止めた。
……出た。
魔法だ。
俺の手から。
魔法が出た!
「おおお!」
俺は思わず声を上げた。
その瞬間、光がふっと消えた。
……。
あ。
消えた。
◇
『おお! 今の見た!?』
勇者が声を上げた。
聖女も驚いた顔で俺を見ている。
『出たじゃん! ちゃんと光ってたぞ!』
俺は何度も頷いた。
見た!
俺も見た!
小さかったけど!
すぐ消えたけど!
確かに魔法だった!
聖女が俺の手を取り、嬉しそうに何かを言った。
勇者が笑う。
『初めてなのに上手くできたってさ』
……!
褒められた!
聖女に!
俺は嬉しくなって、思わず両手を上げた。
「やったぁ!」
◇
……。
そして、気付いた。
俺、今めちゃくちゃ子供っぽくなかった?
いや。
実際、一歳児なんだけど。
中身は千年以上生きた男なんだぞ。
そんな俺が、小さな光を出しただけで大喜び。
……。
まあ、いいか。
嬉しいものは嬉しいんだから。
◇
『いやあ、良かったな』
勇者が笑った。
『これでお前も魔法使いの仲間入りか』
ふっ。
そうだな。
ついに俺も魔法使いだ。
……ん?
魔法使い?
俺は勇者を見た。
勇者も俺を見る。
そして、にやりと笑った。
『そういえば、前世でも三十歳まで童貞だったんだよな』
……。
おい。
待て。
『三十歳で魔法使いって、よく言うだろ?』
やめろ。
『しかもお前、そこから千年以上童貞継続してるし』
「だぁぁ!」
その話は関係ないだろ!
勇者は腹を抱えて笑い始めた。
……こいつ。
絶対にこのネタを言うために、今まで黙ってただろ。
◇
聖女が不思議そうに首を傾げた。
勇者が笑いながら何かを説明し始める。
……待て。
まさか。
その話を母さんにするつもりじゃないだろうな?
俺は慌てて手を伸ばした。
「だぁ! だぁ!」
勇者が笑う。
『大丈夫だって。ちゃんと魔法が成功したって話してるだけだから』
……本当だな?
信用していいんだな?
聖女は嬉しそうに微笑み、俺の頭を撫でてくれた。
どうやら余計なことは言っていないらしい。
……良かった。
いや、待て。
何で俺、こんなに警戒してるんだ?
全部こいつのせいじゃないか。
◇
その日の練習は、そこで終了になった。
俺としては、もう少し試してみたかった。
せっかく魔法が使えるようになったんだぞ。
あと一回くらい。
いや、二回でもいい。
そう思っていたのだが、聖女は首を横へ振った。
勇者が通訳する。
『今日は初めて成功したんだから、これで十分だって』
……。
またお預けか。
『魔法も身体に負担がかかることがあるからな。特にお前は病み上がりだし』
……正論だった。
俺は大人しく頷いた。
仕方ない。
今日はここまでにしよう。
◇
夕方、俺は自分の部屋で絵本を開いていた。
文字はまだ全部読めない。
でも、少しずつ分かる単語が増えている。
ふと、窓の外を見る。
夕日が差し込んでいた。
俺は自分の手を持ち上げる。
今日、この手から光が出た。
小さな光。
すぐに消えてしまった光。
でも。
俺にとっては、何より嬉しい出来事だった。
◇
ゴーレムだった頃、俺は圧倒的な力を持っていた。
何を殴っても壊せたし、勇者たちの攻撃もほとんど通じなかった。
でも、その力を使って何かを作り出したことは少なかった。
誰かを助けることも、ほとんどできなかった。
今は違う。
力は大きく失った。
でも、自分の意思で小さな光を作れた。
何も壊さず。
誰も傷付けず。
ただ、そこを照らすためだけの魔法。
……悪くない。
いや。
最高だ。
◇
夜になり、聖女が俺を寝かしつけに来てくれた。
いつものように布団をかけ、優しく頭を撫でてくれる。
俺は聖女を見上げた。
「まーま」
聖女が微笑む。
「ありがと」
俺が言うと、聖女は少し驚いた顔をした。
そして、嬉しそうに俺を抱きしめてくれた。
……温かい。
俺は小さく笑った。
今日、初めて魔法を使えた。
でも、それ以上に嬉しかったことがある。
俺が成功した時。
勇者も聖女も、自分のことのように喜んでくれた。
それが嬉しかった。
◇
何百年も孤独だった頃。
何かができるようになっても、喜んでくれる人はいなかった。
身体を作り終えた時も。
初めて立ち上がった時も。
誰も褒めてくれなかった。
でも今は違う。
家族がいる。
小さな成功を、一緒に喜んでくれる人がいる。
……俺。
本当に人間になって良かったな。
◇
ただし。
一つだけ気になることがある。
勇者。
お前、俺が魔法を成功させた時に言ったよな。
千年以上童貞だったから魔法使いになれたんじゃないか、って。
……。
そんなわけあるか。
魔法は魔力と技術で使うものだ。
童貞歴なんて関係ない。
もし関係あるなら、俺はとっくに神になってるわ!
俺は布団の中で小さくため息をついた。
まったく。
あいつのせいで、魔法使いという言葉が妙に引っ掛かるようになってしまった。
……まあ、いい。
明日からは、もっと上手く魔法を使えるようになってやる。
いつか勇者を驚かせるくらいに。
俺は目を閉じた。
明日もきっと、新しいことが待っている。
――こうして俺は、人間になって初めて魔法を成功させた。
ただし、魔法使いになったことを喜んでいたら、勇者に千年以上の童貞歴を持ち出されるという、まったく嬉しくないおまけまで付いてきた。




