第37話 俺、人間になって初めて熱を出す
人間という生き物は、実に面倒くさい。
腹が減る。
喉が渇く。
眠くなる。
そして、放っておくと疲れる。
ゴーレムだった頃には必要なかったことばかりだ。
もっとも、今の俺はそういう不便さも含めて楽しんでいる。食事は美味いし、眠るのも気持ちいい。何より、誰かと同じ時間を過ごせることが嬉しかった。
だから多少の不便は問題ない。
……そう思っていた。
少なくとも、今朝までは。
◇
朝、目が覚めた時から妙な違和感があった。
身体が重い。
いや、いつもの意味ではない。
俺は一歳児の身体にまだ慣れていないので、起き上がる時にふらつくことは珍しくない。しかし今日は、何というか、手足に力が入りにくかった。
頭も少しぼんやりしている。
……何だこれ。
昨日は聖女と一緒に施療所へ行った。帰宅後は普通に食事をして、いつもの時間に眠ったはずだ。
特別な運動もしていない。
剣術も禁止されたままだし、魔法の実技だってやっていない。
なのに。
「……うぅ」
声まで変だった。
◇
俺は布団から起き上がろうとした。
腕をつく。
身体を持ち上げる。
そこまでは良かった。
しかし、座った途端に頭がふらついた。
「うぁっ……」
危ない。
俺は慌てて布団へ手をついた。
何とか転ばずに済んだが、どうにも調子が悪い。
……まさか。
筋力が落ちた?
昨日まで成人男性くらいの力があったのに、急に普通の一歳児へ戻ってしまったとか?
俺は試しに両手を握ってみた。
力は入る。
でも、いつものように動きたくない。
……。
これは。
もしかして。
体調不良というやつでは?
◇
「アレン?」
扉が開き、聖女が顔を覗かせた。
いつもの朝だ。
普段なら俺は元気よく返事をして、聖女のところまで歩いていく。
でも今日は違った。
「まーま……」
声が小さくなった。
聖女はすぐに表情を変えた。
俺のそばへ来ると、額へ手を当てる。
そして、何かを呟いた。
……ん?
その顔。
嫌な予感がする。
聖女は俺を抱き上げ、急いで部屋を出た。
◇
『アレン、熱あるって?』
居間へ行くと、勇者が待っていた。
聖女が何かを説明している。
勇者は俺の額へ手を当てた。
『……あ、本当だ。結構熱いな』
熱。
なるほど。
熱か。
……。
熱!?
俺は思わず目を見開いた。
そうか。
人間って、熱を出すんだった。
前世では何度も風邪をひいたことがある。
なのに、千年以上ゴーレムをやっていたせいで、すっかり忘れていた。
あの身体は風邪なんてひかなかったからな。
いや、それ以前に。
鉱石の塊が風邪をひいたら怖いだろ。
◇
『今日は大人しく寝てろよ』
勇者が言った。
俺は頷いた。
異論なし。
というか、今は本当に動きたくない。
聖女が俺を寝台へ戻し、布団をかけてくれた。
そのあと、小さな器に水を用意する。
俺が少しずつ飲むと、聖女は安心したように微笑んだ。
勇者は隣で腕を組んでいる。
『お前、初めての風邪かもな』
……。
初めて。
そう言われると、何だか記念日みたいだ。
いや。
全然嬉しくないけど。
◇
聖女は俺の胸へ手を当て、淡い光を灯した。
回復魔法だ。
昨日、施療所で見たものと同じ。
俺は少し期待した。
おお。
これで一瞬で治るのか?
異世界の回復魔法、便利すぎる。
そう思ったのだが。
聖女は少しだけ光を流すと、すぐに手を離した。
そのまま、俺の顔を覗き込む。
……あれ?
終わり?
俺は自分の身体を確かめた。
少し楽になった気はする。
でも、熱っぽさは残っている。
勇者が俺の表情を見て苦笑いした。
『昨日も説明しただろ。回復魔法は万能じゃないんだよ』
……そうだった。
◇
勇者によると、聖女は今の俺に無理な治療をする必要はないと判断したらしい。
呼吸は落ち着いているし、水も飲める。
だから、まずは身体を休めることが大切なのだそうだ。
『悪くなったらすぐ診てもらうから、心配すんな』
俺は小さく頷いた。
なるほど。
昨日見た患者たちと同じだ。
魔法を使えば何でも解決するわけではない。
状態を見て、必要なことをする。
聖女はそういう治療をしていた。
……まさか翌日に、自分が患者になるとは。
人生、何が起きるか分からない。
◇
しばらくすると、聖女が冷たい布を持ってきた。
それを俺の額へ乗せてくれる。
「……ふぁ」
気持ちいい。
何だこれ。
最高じゃないか。
熱い額に冷たい布。
たったそれだけなのに、ものすごく楽になった気がする。
俺が目を細めると、聖女は優しく頭を撫でてくれた。
……ああ。
人間って不便だけど。
こういう時、誰かに看病してもらえるのは嬉しいな。
ゴーレムだった頃には、絶対に経験できなかったことだ。
◇
昼前になると、俺は少し眠った。
目を覚ました時には、勇者が椅子に座って本を読んでいた。
『お、起きたか』
俺は頷いた。
『調子は?』
……。
どうだろう。
朝よりは少し楽かもしれない。
でも、まだ身体がだるい。
俺は紙へ手を伸ばそうとした。
勇者が慌てて止める。
『いや、今日は筆談しなくていいから』
……む。
せっかく練習してたのに。
『勉強も休み。今日は寝るのがお前の仕事』
寝るのが仕事。
……何だそれ。
羨ましい。
いや、今は本当に辛いんだけど。
◇
『しかし、お前もちゃんと風邪ひくんだなあ』
勇者が呟いた。
俺は睨みつけた。
ちゃんとって何だ。
失礼な。
『いや、ゴーレムの頃のお前を知ってるからさ』
……まあ。
それは分かる。
あの頃の俺は、剣で斬られようが魔法を撃たれようが、まともな傷すらつかなかった。
それが今では、ちょっとした熱で布団から起き上がれない。
何という落差。
勇者も同じことを考えたらしく、少し笑った。
『千年以上生きた最強ゴーレムが、風邪でダウンか』
……。
おい。
笑うな。
『いや、悪い悪い』
全然悪いと思ってない顔だ。
◇
その時、聖女が部屋へ戻ってきた。
勇者は途端に姿勢を正した。
何かを聞かれたらしく、慌てて答えている。
俺はその様子を眺めていた。
……。
分かりやすい男だな。
聖女は勇者を少しだけ睨んだあと、俺へ優しく微笑んだ。
そして小さな器を差し出してくれる。
中には柔らかく煮込まれた食べ物が入っていた。
お粥のようなものだろうか。
俺は少し口へ運ぶ。
……美味い。
温かくて、優しい味がする。
食欲はあまりなかったが、少しずつ食べられた。
◇
聖女は俺が食べ終えるまで、ずっと隣にいてくれた。
時々、水を飲ませてくれる。
額の布も替えてくれる。
俺が眠そうにすると、布団をかけ直してくれた。
……何だろう。
懐かしい。
前世でも、子供の頃に母親から看病してもらった記憶がある。
熱を出して学校を休んだ日。
枕元に飲み物を置いてもらい、何度も様子を見に来てもらった。
あの頃は、それが当たり前だと思っていた。
でも。
今になって分かる。
誰かが自分を心配してくれるというのは、とてもありがたいことなんだ。
◇
午後になると、熱は少し落ち着いてきた。
聖女も安心したようで、ようやく椅子へ腰を下ろした。
勇者が隣へ座り、何かを話している。
俺は布団の中から二人を眺めた。
夫婦。
家族。
今の俺にとっては、当たり前になりつつある光景だ。
でも、つい少し前まで、俺は一人だった。
誰も来ない部屋で、何百年も過ごしていた。
具合が悪くなったとしても、誰かが助けに来てくれることなんてなかっただろう。
……いや。
ゴーレムは風邪をひかないから、そもそもそんな心配もなかったけど。
でも、もしあの頃の俺が動けなくなったら。
きっと誰にも気付かれなかったはずだ。
◇
俺は小さく息を吐いた。
今は違う。
熱を出しただけで、聖女が心配してくれる。
勇者も、からかいながらずっと様子を見ている。
それが嬉しかった。
俺が目を閉じようとすると、勇者が声をかけてきた。
『アレン』
俺は顔を向ける。
『早く元気になれよ』
……。
何だよ。
急に真面目になるなよ。
俺は小さく頷いた。
「うん」
勇者が笑った。
◇
夕方には、だいぶ身体が楽になっていた。
ただ、聖女からはまだ寝ているように言われた。
俺は大人しく従う。
……偉いだろ。
千年以上生きた男として、ちゃんと指示を守っているんだぞ。
まあ、今の俺が無理に動いたところで、できることは少ないけど。
今日は積み木もなし。
文字の勉強もなし。
魔力を感じる練習もなし。
やることがない。
……。
暇だ。
ものすごく暇だ。
あれ?
何だろう。
この感覚。
ちょっと懐かしいぞ。
◇
俺は天井を見つめた。
動けない。
外へ出られない。
誰かが来るのを待つしかない。
……。
まさか。
ゴーレム時代の再現?
いやいやいや。
違う。
あの頃とは全然違う。
今はちゃんと布団がある。
食事も出る。
何より、家族がいる。
でも、暇なものは暇だ。
俺は小さく唸った。
「うぅ……」
すると、すぐに聖女が様子を見に来てくれた。
……あ。
ごめんなさい。
別に具合が悪くなったわけじゃないんです。
ただ暇だっただけです。
◇
聖女は俺の額へ手を当てた。
少し安心したように微笑む。
そして、俺の隣へ腰を下ろした。
何かを尋ねてくる。
俺は上手く答えられず、少し困った。
すると聖女は、棚から一冊の絵本を取ってきた。
……お。
それだ。
俺は嬉しくなった。
聖女は本を開き、ゆっくり読み始める。
まだ分からない言葉も多い。
でも、絵を見れば何となく話が分かった。
小さな動物が森を歩き、仲間を探す物語らしい。
俺は静かに聞いていた。
◇
絵本の中の動物は、最初は一人だった。
森を歩いても、誰にも会えない。
寂しくなって、立ち止まってしまう。
……。
何だか、昔の俺みたいだな。
でも、物語の途中で仲間が現れる。
一緒に食事をして。
一緒に遊んで。
最後には、みんなで同じ家へ帰っていく。
俺はその絵を見つめた。
……いい話じゃないか。
子供向けの絵本だと馬鹿にしていた自分が恥ずかしい。
聖女は最後のページを読み終えると、本を閉じた。
そして、俺へ優しく微笑んだ。
俺も笑った。
「ありがと」
◇
夜になり、熱はかなり下がったらしい。
聖女が俺の額を確認し、安心したように息を吐いた。
勇者も笑っている。
『良かったな、アレン』
俺は頷いた。
『明日も無理はするなよ。完全に元気になるまでは休みだからな』
……。
明日も?
勉強なし?
『当然』
ぐっ。
そうか。
仕方ない。
俺は大人しく布団へ潜り込んだ。
勇者が少し笑った。
『まあ、焦るなよ。お前には時間があるんだから』
……。
またそれか。
でも。
今日は素直に頷けた。
◇
人間になってから、俺はずっと何かを覚えようとしていた。
歩くこと。
話すこと。
文字を書くこと。
魔力を感じること。
少しでも早く成長したかった。
でも、今日分かった。
休むことも大切なんだ。
ゴーレムだった頃には必要なかったこと。
人間として生きるなら、ちゃんと覚えなければならないこと。
俺は布団の中で小さく頷いた。
……よし。
今日は大人しく寝よう。
◇
その時、勇者が扉のところで振り返った。
『そういえばさ』
……ん?
何だ?
『千年以上生きたお前でも、母さんに看病されると大人しいんだな』
……。
おい。
『やっぱり、母さんには敵わないか』
うるさい。
お前だって敵わないだろ。
『まあ、俺もだけどな』
……認めるのかよ。
勇者は笑いながら部屋を出ていった。
俺は小さくため息をついた。
まったく。
あいつは本当に変わらない。
◇
俺は目を閉じた。
今日は、何もできなかった。
勉強も。
練習も。
遊びも。
でも、悪い一日ではなかった。
聖女が看病してくれた。
勇者がそばにいてくれた。
そして、家族がいることのありがたさを、改めて知ることができた。
……そう考えれば。
今日もちゃんと、何かを学んだのかもしれない。
俺は小さく笑った。
明日はもう少し元気になっているといいな。
――こうして俺は、人間になって初めて熱を出した。
そして、千年以上生きてきた俺にも、休息が必要なのだと知ることになった。
……ただし。
風邪で寝込んだだけなのに、勇者から「最強ゴーレムの新たな弱点発見」と言われたことだけは、絶対に忘れないからな。




