第36話 俺、聖女の仕事についていきます
聖女。
それは、神に仕え、人々を救う存在である。
……というのが、俺の勝手なイメージだ。
前世で遊んだゲームでも、聖女といえば回復魔法の達人だった。怪我人を治し、呪いを解き、仲間を支える。場合によっては、勇者より重要な役割を担うこともある。
そして今、俺の母親役をしてくれている女性は、本物の聖女だった。
魔王を倒した勇者の仲間であり、神々の試練を共に突破した人物。
そのうえ、魔王の復活を百年間止めるという、とんでもない願いを叶えた女性でもある。
……改めて考えると、すごい人だよな。
そんな聖女が、今は俺に言葉を教え、食事を用意し、寝かしつけまでしてくれている。
何という贅沢。
俺、もしかして世界一恵まれた一歳児なのでは?
◇
その日の朝、いつものように食事を終えた俺は、聖女が出掛ける準備をしていることに気付いた。
普段より少しきちんとした服を着ている。
いつも着ている柔らかな色の服ではなく、白を基調とした落ち着いた衣装だ。胸元には、見覚えのある紋章が飾られていた。
確か、教会の印だったはず。
俺がじっと見つめていると、勇者が声をかけてきた。
『アレン、どうした?』
俺は聖女を指差す。
「まーま?」
『ああ、母さんな。今日は仕事があるんだって』
仕事。
なるほど。
聖女にも仕事があるのか。
……いや、当たり前か。
俺を育てるためだけに存在しているわけじゃないんだから。
◇
『近くの施療所へ行くんだってさ』
勇者が続けた。
施療所。
確か、怪我人や病人を診る場所だったか。
『母さん、時々そこの治療を手伝ってるんだよ』
なるほど。
聖女らしい仕事だ。
俺は聖女を見上げた。
彼女は俺の視線に気付くと、優しく微笑んでくれた。
そして何かを尋ねる。
勇者が少し驚いた顔をした。
『え? アレンも連れていくの?』
……ん?
今、何て?
俺も?
◇
どうやら今日は、比較的落ち着いている日らしい。
聖女が診るのは急を要する怪我人ではなく、治療後の経過を確認する患者が中心だという。
そのため、俺を一緒に連れていっても問題ないそうだ。
『まあ、施療所の人たちもお前に会いたがってるらしいしな』
勇者が笑った。
そうなのか。
俺、知らないところで有名人になってない?
『勇者と聖女が子供を育て始めたって、結構話題になってるんだよ』
……なるほど。
確かにそうかもしれない。
世界を救った勇者と聖女。
その二人が、突然一歳くらいの子供を連れてきた。
そりゃ気になるよな。
俺だって逆の立場なら気になる。
……というか。
俺の中身を知ったら、もっと驚くだろうけど。
◇
準備を終えた聖女に抱かれ、俺たちは家を出た。
今日は勇者も付き添ってくれるらしい。
これはありがたい。
何しろ俺は、まだこの世界の言葉を十分に理解できない。勇者がいなければ、周囲の会話を聞いても分からないことばかりだ。
街の中を進むと、何人もの人が聖女へ声をかけてきた。
店の主人らしい男。
荷物を運んでいた女性。
小さな子供を連れた母親。
みんな聖女を見ると、嬉しそうに挨拶している。
聖女も一人ずつ丁寧に応じていた。
……すごい。
めちゃくちゃ慕われてる。
俺は聖女の腕の中から、周囲の人々を見つめた。
◇
しばらく歩くと、白い壁の建物が見えてきた。
入口には小さな紋章が掲げられている。
教会のものと同じだ。
どうやらここが施療所らしい。
中へ入ると、薬草のような匂いがした。
廊下には椅子が並べられ、何人かの人が座っている。奥の部屋からは、水の音と話し声が聞こえてきた。
病院。
前世の記憶から、一番近いものを探すならそれだろう。
ただ、白衣の医者や機械は見当たらない。
代わりに、簡素な服を着た職員たちが忙しそうに行き来していた。
俺は興味津々で周囲を見回した。
◇
聖女が姿を見せると、職員たちが一斉に頭を下げた。
……おお。
すごい扱いだ。
やっぱり聖女って偉いんだな。
聖女は困ったように微笑み、何かを言っていた。
勇者が横で笑っている。
『母さん、そんなに畏まらなくていいって言ってる』
なるほど。
あの人らしいな。
俺が納得していると、一人の年配の女性が近付いてきた。
白髪交じりの髪を後ろでまとめ、穏やかな笑顔を浮かべている。
その女性は俺を見るなり、目を丸くした。
そして、嬉しそうに何かを話し始めた。
……ん?
俺のことか?
◇
『アレンを見て、可愛いって言ってるよ』
勇者が通訳した。
……。
また可愛いか。
最近、そればっかりだな。
いや、一歳児なんだから仕方ない。
でも俺の中身は、千年以上生きた男なんだぞ。
何とも複雑な気分になる。
女性が俺へ手を伸ばし、そっと頬を撫でた。
俺は大人しくしていた。
すると女性はますます嬉しそうに笑う。
……何だろう。
完全に赤ちゃん扱いされている。
いや。
赤ちゃんなんだけど。
◇
聖女は俺たちを奥の部屋へ案内した。
そこには小さな机と椅子があり、窓から柔らかい光が差し込んでいた。
どうやら休憩室らしい。
勇者は椅子へ腰を下ろし、俺を膝の上に乗せた。
『母さんの仕事が終わるまで、ここで待ってような』
俺は頷いた。
……え?
待つだけ?
せっかく来たのに?
俺は少し不満そうな顔をした。
『何だよ、その顔』
見たい。
聖女が仕事してるところ。
『え?』
俺は扉を指差した。
「まーま!」
勇者が首を傾げる。
そして少し考えたあと、笑った。
『ああ、母さんの仕事を見たいのか』
そう!
それだ!
俺は何度も頷いた。
◇
勇者は聖女へ確認してくれた。
すると、邪魔をしないことと大人しくしていることを条件に、少しだけ見学してもいいということになった。
やった。
俺は小さく拳を握った。
勇者に抱かれ、隣の部屋へ向かう。
そこには一人の老人が座っていた。
片方の腕に、白い布が巻かれている。
どうやら怪我をしているらしい。
聖女が老人の前へ座り、優しく声をかけた。
老人も笑いながら答える。
……何だろう。
すごく自然だ。
聖女という偉い立場の人間が、普通に患者と話している。
それが少し印象的だった。
◇
聖女は老人の腕を確認し、包帯をゆっくり外した。
俺は勇者の腕の中から覗き込む。
腕には、少し赤くなった傷跡が残っていた。
どうやら治りかけらしい。
聖女が手をかざす。
すると、その手のひらから淡い光が広がった。
おお。
魔法だ。
俺は思わず身を乗り出す。
光が老人の腕を包み込む。
しばらくすると、赤みが少しずつ薄れていった。
……すごい。
回復魔法。
初めて、こんなに近くで見た。
◇
聖女は光を消すと、老人の腕をもう一度確認した。
そして何かを説明している。
老人が何度も頷く。
どうやら治療は終わったらしい。
勇者が小声で教えてくれた。
『傷はほとんど治ってるけど、今日は無理に使わない方がいいってさ』
なるほど。
魔法で治しても、すぐに何でもできるわけではないのか。
それは意外だった。
ゲームなら、回復魔法をかけた瞬間に全快するイメージがある。
でも現実は違うらしい。
俺は老人の腕を見つめた。
確かに傷は薄くなった。
でも聖女は慎重に状態を確認していた。
魔法が使えれば、それで終わりというわけではないのだろう。
◇
その後も何人かの患者がやってきた。
足を痛めた女性。
咳が続いている男性。
手に小さな怪我をした子供。
聖女は一人ずつ丁寧に診ていた。
魔法を使う時もあれば、薬草を使う時もある。
時には、何もせず話を聞いているだけのこともあった。
俺は不思議に思った。
……魔法で全部治せるんじゃないのか?
勇者に尋ねようとしたが、今の俺では上手く説明できない。
仕方なく、真剣に様子を見続けた。
◇
しばらくすると、勇者が俺の疑問に気付いたらしい。
『何で全部魔法で治さないのかって顔してるな』
……。
何で分かるんだよ。
『お前、分かりやすいから』
ぐっ。
まあ、いい。
教えてくれ。
『回復魔法にも限界があるんだよ。何でも治せるわけじゃないし、使う側の魔力だって無限じゃない』
なるほど。
そういうことか。
『それに、病気によっては魔法だけじゃどうにもならないこともある』
……。
俺は少し考え込んだ。
魔法がある世界でも、病気や怪我が全部なくなるわけではない。
当たり前といえば当たり前だ。
でも、どこかで魔法を万能だと思っていたのかもしれない。
◇
そんな時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
職員らしい女性が急いで部屋へ入ってくる。
そして、聖女へ何かを伝えた。
聖女の表情が変わる。
さっきまでの穏やかな笑顔ではない。
真剣な顔だった。
勇者も何かを聞き、立ち上がる。
『アレン、ちょっとここで待ってような』
……ん?
何かあったのか?
『怪我をした子供が運ばれてきたらしい』
子供。
俺は思わず顔を上げた。
◇
廊下の向こうから、泣き声が聞こえてきた。
小さな子供の声だ。
どうやら転んで怪我をしたらしい。
大人たちが慌ただしく動いている。
俺は勇者の腕をつかんだ。
『ん?』
俺は扉を指差す。
見たい。
いや、違う。
気になる。
大丈夫なのか?
勇者は少し考えたあと、俺の頭を撫でた。
『母さんがいるから大丈夫だよ』
……。
そうか。
聖女がいる。
回復魔法が使える。
なら、きっと大丈夫だ。
俺は少しだけ安心した。
◇
しばらくして、聖女が戻ってきた。
その顔には疲れが見える。
でも、表情は穏やかだった。
勇者が何かを尋ねる。
聖女が頷いた。
『大丈夫だって。少し大きな怪我だったけど、ちゃんと処置できたらしい』
俺はほっと息を吐いた。
良かった。
本当に良かった。
聖女は俺の様子を見て、不思議そうに首を傾げた。
勇者が何かを説明すると、彼女は優しく笑った。
そして俺の頭を撫でてくれた。
……何だろう。
何もしていないのに、妙に安心した。
◇
昼過ぎになり、聖女の仕事が一段落した。
俺たちは休憩室へ戻り、用意された軽い食事を取ることになった。
俺は小さく切られた柔らかいパンを食べながら、今日のことを思い出していた。
聖女は魔法を使った。
怪我人を治した。
病人の話を聞いた。
そして、泣いていた子供を助けた。
……すごい。
ただ強いだけじゃない。
誰かを助けるために、その力を使っている。
俺は聖女を見上げた。
彼女は職員と何かを話している。
その表情は、普段家で見せるものと少し違っていた。
優しいけれど、真剣で。
何だか、とても格好良かった。
◇
帰り道、俺は勇者へ紙を差し出した。
最近は、小さな紙と筆記具を持ち歩くようになっている。
日本語なら、少しずつ自分の気持ちを書けるようになってきたからだ。
俺は慎重に文字を書いた。
『まま すごい』
勇者がそれを読んだ。
そして少し笑った。
『だろ?』
俺は頷く。
『母さんは、すごいんだよ』
勇者の声が、いつもより少し誇らしげだった。
……何だよ。
惚気か?
お前、自分の妻を褒めるのがそんなに嬉しいのか。
いや。
まあ、分かるけど。
◇
『でもさ』
勇者が続けた。
『母さんがすごいのは、回復魔法が使えるからだけじゃないんだ』
俺は首を傾げた。
『ちゃんと一人ひとりのことを考えてるだろ。何が必要なのか、どうすれば助けられるのか』
……。
確かに。
今日の聖女は、魔法を使うだけではなかった。
患者の話を聞き、状態を確認し、必要な時だけ魔法を使っていた。
誰かを助けるというのは、ただ力を使えばいいわけではない。
そういうことなのかもしれない。
俺は小さく頷いた。
◇
家へ戻ると、聖女は少し疲れた様子で椅子へ腰を下ろした。
俺はその姿を見つめた。
……。
今日はたくさんの人を助けていた。
きっと疲れているんだろう。
俺はゆっくり歩いて聖女の前へ向かった。
そして、彼女の膝へ小さな手を伸ばした。
「まーま」
聖女が顔を上げる。
俺は少し迷ってから、覚えたばかりの言葉を口にした。
「ありがと」
聖女は目を丸くした。
そして、ゆっくり笑った。
俺を抱き上げ、優しく抱きしめてくれる。
……あ。
温かい。
◇
勇者がその様子を見ていた。
『おお、アレン。ちゃんとお礼言えたじゃん』
俺は頷いた。
『何のお礼?』
……。
そう言われると、難しい。
俺は今日、怪我を治してもらったわけではない。
でも、聖女が誰かを助けている姿を見て、何だかありがとうと言いたくなった。
上手く説明できない。
だから、もう一度言った。
「ありがと」
聖女は嬉しそうに笑った。
それだけで、十分だった。
◇
その夜、俺は布団へ横になりながら考えた。
今日、初めて聖女の仕事を見た。
魔法を使って怪我を治す姿は、確かに格好良かった。
でも、それ以上に印象に残ったことがある。
患者一人ひとりと向き合う姿だ。
俺はゴーレム時代、圧倒的な力を持っていた。
誰にも負けないほどの力。
でも、その力で誰かを助けることはほとんどできなかった。
むしろ、近付こうとして傷付けてしまうことの方が多かった。
今は違う。
力は失った。
でも、人間として暮らしている。
そして、誰かを助ける方法を学ぶことができる。
◇
俺は小さな手を見つめた。
今の俺には、まだできないことが多い。
剣術も途中。
魔法も勉強中。
言葉だって、まともに話せない。
でも。
いつかは。
聖女みたいに、誰かを助けられるようになりたい。
困っている人がいたら、手を差し伸べられるように。
大切な人が傷付いた時、何もできずに見ているだけにならないように。
俺は小さく拳を握った。
……よし。
明日も頑張ろう。
◇
ただし。
一つだけ、どうしても気になることがある。
勇者。
お前、今日ずっと母さんのこと褒めてたよな。
いや、別にいいんだ。
夫婦仲が良いのは素晴らしい。
家族としても嬉しい。
でもさ。
千年以上童貞だった男の前で、あんまり幸せそうに惚気るのはどうなんだ?
俺だって、いつかはあんなふうに誰かを褒めたいんだぞ。
自分の大切な人を。
胸を張って。
……。
いや待て。
今は一歳児だった。
また忘れるところだった。
◇
俺は布団の中で小さくため息をついた。
恋愛はまだ先。
今は勉強。
分かってる。
ちゃんと分かってるぞ。
でも、千年以上積み重なったこの業は、そう簡単には消えないらしい。
……まったく。
強くてニューゲームになっても、童貞だけは継続中か。
俺は目を閉じた。
明日もまた、新しいことを覚えよう。
少しずつでいい。
俺には、まだまだ時間があるんだから。
――こうして俺は、聖女の仕事を通じて、魔法を使う本当の意味を少しだけ知った。
そして同時に、勇者と聖女の夫婦仲が想像以上に良いという、俺にとっては少しばかり羨ましい事実も再確認することになった。




