第33話 俺、文字を覚えて勇者に仕返しする
剣術修行が延期された。
理由は簡単。母さんこと聖女から、まだ早いと判断されたのである。
別に危険なことをしていたわけではない。勇者から木の棒の握り方と構え方を教わり、少し振ってみただけだ。それなのに、あっさり禁止されてしまった。
まあ、仕方ない。
今の俺は一歳児。身体能力こそ一般成人男性並みだが、歩き方だってまだ怪しい。剣を振り回すより先に覚えることがあると言われれば、反論できない。
というわけで。
今日は勉強の日である。
……千年以上生きた男が、一歳児向けの勉強をする。
相変わらず、俺の人生は予想外の方向へ進んでいた。
◇
朝食を終えると、聖女が俺の前に木の板を並べ始めた。
以前から使っていた絵付きの教材だ。ただし、今日は少し違う。板の下に、この世界の文字が書かれている。
どうやら、いよいよ読み書きの勉強が始まるらしい。
「ラーナ」
聖女が赤い果物の絵を指差した。
「らーな!」
俺が答えると、聖女は嬉しそうに頷いた。そして、絵の下に書かれた文字を一つずつ指でなぞっていく。
なるほど。
今度は名前だけでなく、文字の形も覚えろということか。
俺は真剣に板を見つめた。
文字。
読み書き。
これは重要だ。
何しろ俺は、ゴーレム時代に筆談で何とか意思疎通しようとしていた男である。
あの頃は日本語しか書けなかったせいで、何度も失敗した。最後に勇者と出会わなければ、今でもあの部屋で一人だったかもしれない。
今度こそ。
この世界の文字を覚えてやる。
◇
聖女は小さな紙と筆記具を持ってきた。
まず見本を書き、それを俺に真似させるつもりらしい。
俺は筆記具を受け取った。
……細い。
ゴーレムだった頃の巨大な指なら、持つことさえ難しかっただろう。
今は違う。
小さいとはいえ、人間の手だ。細かい道具も扱える。
ただし、上手く扱えるとは言っていない。
俺は慎重に線を引いた。
ぐにゃ。
「…………」
曲がった。
聖女が俺の手元を見る。
そして優しく笑った。
やめて。
笑わないで。
俺、真剣なんだから。
もう一度挑戦する。
今度は筆記具を少し短く持ち、ゆっくり動かした。
ぐにゃり。
……何でだよ。
◇
頭では分かっている。
見本の文字をどう書けばいいのかも理解できる。
問題は指先だった。
小さな手で筆記具を安定させるのが難しい。力を抜けば滑り、握り直せば思った方向へ動かせない。
筋力だけなら大人並みなのに。
文字を書くのは下手。
何ということだ。
勇者と剣術の練習をした時も思ったが、今の俺に必要なのは筋力ではなく身体操作の技術らしい。
俺が何度も書き直していると、聖女がそっと俺の手を包んだ。
そして、一緒に文字を書いてくれる。
ゆっくり。
丁寧に。
今度は真っすぐな線が引けた。
おお。
できた。
聖女が嬉しそうに笑う。
俺も思わず笑ってしまった。
◇
『お、勉強してるじゃん』
その時、勇者が部屋へ入ってきた。
俺は顔を上げる。
『何覚えてんの?』
聖女が勇者へ何かを説明した。
勇者は板を覗き込み、納得したように頷く。
『なるほど。文字の練習か』
そうだ。
邪魔するなよ。
『お前、日本語なら普通に読めるんだろ?』
俺は頷いた。
『じゃあ、こっちの文字を覚えれば、もう俺が通訳しなくてもいいわけか』
そういうことになる。
俺としては、ぜひとも早くそうなりたい。
何しろ勇者は、通訳の途中で余計なことを言う場合がある。
特に俺をからかう時だ。
この男に言葉を任せておくのは危険である。
『何だ、その目』
別に。
何でもないですよ。
◇
勇者はしばらく俺の練習を眺めていた。
そして、何か思い付いたように笑った。
『そうだ。せっかくだし、日本語も書いてみろよ』
日本語?
『お前、前世の記憶がちゃんとあるんだろ。だったら簡単な言葉くらい書けるんじゃない?』
なるほど。
確かに文字の形は覚えている。
今の身体で上手く書けるかは別として。
俺は紙を一枚受け取り、筆記具を握り直した。
何を書こう。
簡単な言葉。
短い文章。
……よし。
俺は慎重に筆を動かした。
時間をかけて、一文字ずつ書いていく。
多少歪んだが、何とか完成した。
『おお、書けるじゃん』
勇者が覗き込む。
そこには。
『ばか』
そう書いてあった。
◇
『……おい』
勇者が俺を見る。
俺はにっこり笑った。
「だぁ!」
『絶対、俺に向けて書いただろ』
何のことですか?
俺、一歳児ですよ?
『その顔やめろ。腹立つから』
ふっ。
ようやく反撃できた。
ゴーレム時代から数えれば、こいつには散々からかわれてきた。
特に童貞ネタ。
何かにつけて俺の千年以上にわたる悲しい歴史を持ち出してくる。
今こそ、その恨みを晴らす時。
……いや。
別にそこまで恨んでないけど。
でも、一回くらい仕返ししたかったんだ。
◇
聖女が俺の書いた紙を覗き込んだ。
当然、日本語なので読めない。
不思議そうに首を傾げ、勇者へ何かを尋ねた。
勇者が俺を見る。
俺も勇者を見る。
……さて。
どう説明する?
『これは……』
勇者が言い淀んだ。
そして。
『日本語で、元気って意味だよ』
……。
おい。
嘘を教えるな。
聖女は納得したように頷いた。
さらに嬉しそうな顔で、俺の紙を指差す。
そして勇者から教わったばかりの日本語を口にした。
「ばか!」
「…………」
俺は固まった。
勇者も固まった。
聖女はにっこり笑っている。
……待て。
それは。
まずい。
◇
「ばか!」
聖女がもう一度言った。
しかも、とても嬉しそうに。
勇者が口元を押さえる。
笑うな。
お前のせいだろ。
俺は慌てて首を横へ振った。
「だぁ! だぁ!」
違う。
それ、元気って意味じゃない。
しかし聖女には通じない。
彼女は俺が喜んでいると思ったらしく、さらに日本語を繰り返した。
「ばか!」
……。
何ということだ。
俺の母さんが。
笑顔で。
俺を馬鹿と呼んでいる。
勇者はとうとう耐えきれなくなったらしい。
『ぶはっ!』
吹き出した。
こいつ!
絶対に分かっててやったな!
◇
俺は勇者を睨みつけた。
『いやあ、いい言葉覚えたな、母さん』
よくない!
『しかも、お前が最初に書いた言葉だし』
それはそうだけど!
『息子から最初に教わった日本語が「ばか」かあ』
やめろ。
感慨深そうに言うな。
俺は聖女を見上げた。
彼女は何が面白いのか分からないらしく、不思議そうな顔をしている。
そして、もう一度。
「ばか?」
……駄目だ。
完全に覚えてしまった。
俺は小さな両手で顔を覆った。
何でこうなった。
◇
結局、勇者には正しい意味を説明してもらった。
聖女は少し驚いたあと、勇者をじっと見つめた。
その笑顔が消える。
勇者の表情が引きつった。
『あ、いや、その……冗談で』
聖女が何かを言う。
勇者が姿勢を正す。
『はい。すみませんでした』
……。
勝った。
俺は心の中で小さく拳を握った。
母さん、強い。
剣も魔法も使っていないのに、勇者を一瞬で黙らせてしまった。
さすが聖女。
いや、これは聖女というより母親の強さかもしれない。
何にせよ。
俺の勝利である。
◇
その後、勉強は再開された。
今度はちゃんと、この世界の文字を覚える。
聖女は紙に簡単な単語を書き、その意味を絵や実物で教えてくれた。
俺も少しずつ真似して書いていく。
最初よりは上手くなった気がする。
少なくとも、線が全部ぐにゃぐにゃになることはなくなった。
勇者は隣で静かに本を読んでいた。
……珍しい。
さっき怒られたのが効いたらしい。
俺は少し笑いそうになった。
◇
昼過ぎになると、聖女が用事で席を外した。
俺は机の上に残された教材を眺める。
文字。
絵。
簡単な単語。
少しずつ分かるようになってきた。
でも、まだ文章は読めない。
俺が文字を指でなぞっていると、勇者が本を閉じた。
『なあ、アレン』
俺は顔を上げる。
『お前、何でそんなに一生懸命勉強するんだ?』
……ん?
何でって。
必要だからだろ。
『別に急がなくてもいいんだぞ。まだ一歳なんだし』
またそれか。
俺は少し考えた。
どう説明すればいいだろう。
今の俺は言葉がまだ十分に話せない。
日本語なら理解しているが、長い文章を口にすることは難しい。
なら。
文字で伝えるしかない。
◇
俺は紙を一枚取り、ゆっくり筆を動かした。
勇者は黙って見守っている。
何度か書き直しながら、短い文章を完成させた。
『みんなと はなしたい』
勇者が文字を読んだ。
そして少し黙った。
俺は続けて書く。
『じぶんで つたえたい』
そう。
それが理由だ。
聖女と話したい。
リナとも、もっと色々なことを話したい。
勇者がいなくても、自分の気持ちを伝えられるようになりたい。
何百年も一人で過ごしてきた。
言葉が通じないせいで、何度も失敗した。
だからこそ。
今度はちゃんと話せるようになりたい。
◇
『……そっか』
勇者が小さく呟いた。
俺は顔を上げる。
『そうだよな。お前、ずっと話し相手が欲しかったんだもんな』
俺は頷いた。
『俺がいなくても話せるようになりたいってことか』
もう一度頷く。
勇者は少し笑った。
『いいじゃん。ちゃんと理由があるなら、頑張ってみろよ』
そして、俺の頭を軽く撫でた。
何だよ。
急に真面目になるなよ。
いつもみたいにからかってくれてもいいんだぞ。
……いや。
やっぱりよくない。
◇
勇者は俺の紙をもう一度見た。
『それにしても、日本語なら結構書けるんだな』
俺は頷いた。
『こっちの文字も、そのうち覚えられるだろ』
そうだといい。
『でも、最初に覚えさせる単語は気を付けないとな』
……。
俺は勇者を見る。
勇者も俺を見る。
『特に「ばか」とか』
「だぁ!」
お前が言うな!
勇者はまた笑い始めた。
……駄目だ。
こいつ、反省してない。
◇
夕方になると、聖女が戻ってきた。
俺の書いた文字を見て、嬉しそうに褒めてくれる。
そして、今日覚えた単語を一緒に復習した。
果物。
動物。
家。
水。
ありがとう。
少しずつ、分かる言葉が増えていく。
俺はゆっくり口を動かした。
「ありがと」
まだ発音はぎこちない。
でも、聖女はちゃんと理解してくれたらしい。
優しく笑い、俺の頭を撫でてくれた。
……よし。
今日も一つ、できることが増えた。
◇
その夜、布団へ横になりながら考えた。
人間になってから、毎日新しいことを覚えている。
歩き方。
身体の動かし方。
言葉。
文字。
ゴーレムだった頃には、考えもしなかったことばかりだ。
あの身体なら、力で大抵のものを壊せた。
でも、誰かと普通に話すことはできなかった。
今は逆だ。
圧倒的な力は失った。
でも、話せるようになってきた。
手を繋げる。
笑い合える。
同じものを見て、同じ言葉を覚えられる。
それが嬉しかった。
◇
俺は小さな手を見つめた。
まだ文字を書くのは下手だ。
筆記具を握るのも、思ったより難しい。
でも、少しずつ上達している。
明日は今日より上手く書けるかもしれない。
明後日は、もっと長い文章が書けるかもしれない。
いつか、勇者の通訳がなくても聖女と普通に話せるようになるだろう。
リナとも、もっと色々な話ができるようになるはずだ。
そう考えると、何だか楽しみだった。
◇
ただし。
今日の出来事で、一つ分かったことがある。
勇者に日本語を教えさせてはいけない。
絶対に。
あいつは信用できない。
俺が「ばか」と書いたのも悪かったとは思う。
でも、それを元気という意味だと教えるのはどうなんだ。
しかも相手は聖女。
自分の妻だぞ?
俺は布団の中でため息をついた。
何という夫婦だ。
……いや。
問題なのは勇者だけか。
◇
その時、部屋の外から声が聞こえた。
「アレン」
聖女だった。
扉が少し開き、彼女が顔を覗かせる。
俺は身体を起こした。
聖女は微笑みながら、覚えたばかりの日本語を口にした。
「おやすみ」
……。
俺は目を丸くした。
勇者に教えてもらったのだろうか。
今度はちゃんとした言葉だった。
俺は嬉しくなって、ゆっくり返事をした。
「おやすみ!」
聖女が笑う。
そして扉を静かに閉めた。
俺はしばらく、その扉を見つめていた。
言葉が通じた。
たった一言。
それだけなのに。
何だか、とても嬉しかった。
◇
俺は布団へ潜り込んだ。
今日、俺は文字を覚え始めた。
まだ簡単な単語しか書けない。
でも、これから少しずつ覚えていけばいい。
十五年もあるんだから。
焦る必要はない。
それに。
いつか勇者が日本へ帰る日までに、俺はちゃんとこの世界の言葉を覚えたい。
勇者がいなくなっても、自分の力で生活できるように。
聖女と話せるように。
友達と笑い合えるように。
俺は目を閉じた。
明日も勉強を頑張ろう。
そう思いながら、ゆっくり眠りについた。
――ただし、勇者。
次に俺をからかったら。
今度は紙にもっとひどい悪口を書いてやるからな。




