第32話 俺、勇者から剣を教わる
翌朝、俺は庭で小さな木の棒を握っていた。
昨日、リナと遊んでいた時のことを思い出す。勇者ごっこをしていた男の子が転び、手から離れた木の棒がリナへ飛んでいった。
幸い、大きな怪我はなかった。
俺の肩に軽く当たっただけで済んだのだ。
でも、あの時は少し焦った。
ゴーレムだった頃なら、飛んできた棒を簡単につかめただろう。今は違う。筋力こそ成人男性並みだが、一歳児の身体を動かすのはまだ難しい。
そして何より、咄嗟の時にどう動けばいいのか分からなかった。
だから俺は考えた。
少しくらい、自分の身体を鍛えておいた方がいいのではないだろうか。
……いや、別に強くなって無双したいわけじゃないぞ。
今はまだ。
◇
『何してんの、アレン』
庭へ出てきた勇者が、不思議そうに俺を見た。
俺は木の棒を持ち上げる。
『……剣のつもり?』
頷く。
『剣術の練習がしたいのか?』
もう一度頷く。
通じた。
最近は勇者との意思疎通も、かなり楽になってきた気がする。
勇者は少し考えたあと、俺の前へしゃがんだ。
『何で急に?』
俺は棒を持ったまま、昨日ぶつけた肩を指差す。
『ああ、昨日のことか』
勇者が納得したように頷いた。
『なるほど。もう少し上手く動けるようになりたいんだな』
そう。
それだ。
俺は何度も頷いた。
◇
『でも、お前まだ一歳だぞ?』
勇者が笑う。
分かってる。
言われなくても。
『普通、剣術なんて教える年齢じゃないんだけどな』
それも分かってる。
ただ、俺の場合は普通の一歳児ではない。
身体能力は一般成人男性並み。
中身は千年以上生きた元ゴーレム。
そのくせ、走れば転びそうになる。
……何というアンバランス。
勇者は俺をしばらく見つめてから、小さく息を吐いた。
『まあ、いいか。剣を振る前に、身体の動かし方を覚えるくらいなら』
俺は顔を上げた。
『ただし、本物の剣はまだ駄目だからな』
もちろん。
今の俺が本物の剣を持っても、危ないだけだ。
それくらいは理解している。
◇
勇者は庭の隅から、短い木の棒を一本持ってきた。
俺が持っているものより、少し軽そうだ。
『まずはこれ』
俺は受け取る。
『握り方からな』
勇者が自分の手を見せてくれる。
親指。
人差し指。
残りの指。
どこへ力を入れるのか、ゆっくり説明してくれた。
俺も真似して握ってみる。
……なるほど。
ただ棒をつかむだけでも、意外と考えることが多い。
『力を入れすぎるなよ』
俺は頷いた。
『落とさない程度に持てばいい』
言われた通りにする。
すると、さっきより少し持ちやすくなった。
おお。
これはいい。
◇
『次は立ち方』
勇者が俺の前で足を開く。
『片足を少し前へ出して、膝を軽く曲げる』
俺も真似する。
右足を前へ。
膝を曲げる。
……ぐらり。
「うぁっ!」
危ない。
俺は慌てて足を戻した。
勇者が笑う。
『まだバランスが悪いな』
分かってる。
俺だって好きでふらついてるわけじゃない。
『まずは棒を置いて、立つ練習からだな』
……え?
剣術は?
『その前に歩けるようになれ』
正論だった。
◇
結局、最初の練習は歩き方になった。
勇者が地面へ二本の線を引く。
『この間を、まっすぐ歩いてみろ』
俺は頷いた。
簡単そうだ。
幅は十分にある。
普通に歩けばいいだけ。
一歩。
二歩。
三歩。
順調。
そのまま進もうとした瞬間、足がもつれた。
「うぁっ!」
俺は前のめりになる。
勇者がすぐに支えてくれた。
『ほらな』
……。
何だろう。
ものすごく悔しい。
◇
俺はもう一度挑戦した。
今度は足元をよく見る。
一歩ずつ。
慎重に。
右足。
左足。
身体の重心を意識しながら進む。
さっきより安定している。
最後まで歩けた。
『おお、できたじゃん』
勇者が褒める。
俺は胸を張った。
ふっ。
当然だ。
千年以上生きた男を甘く見るなよ。
『じゃあ、もう一回』
……。
まだやるの?
『できるようになったばかりなんだから、繰り返さないと』
そうだった。
鍛錬とは反復である。
俺は小さく頷き、最初の位置へ戻った。
◇
何度か歩く練習をしたあと、ようやく木の棒を持つことを許された。
『じゃあ、今度は構えてみよう』
勇者が見本を見せる。
足を開き、身体を少し斜めへ向け、木の棒を前へ出す。
無駄のない動きだった。
……格好いい。
普段は俺をからかってばかりの男だが、こうして見ると本物の勇者なんだと実感する。
少し悔しい。
俺も真似してみる。
足を開く。
棒を持ち上げる。
腕を伸ばす。
……できた。
と思った瞬間。
ぐらり。
「うぁっ!」
また転びかけた。
勇者が俺を支える。
『腕を伸ばしすぎ。今のお前だと、その構えは重心が前に寄るな』
なるほど。
大人の身体と同じ動きでは駄目なのか。
◇
『お前は身体が小さいからな。無理に俺と同じ形にしなくていい』
勇者はしゃがみ込み、俺の手足の位置を少し調整した。
『まずは、自分が安定して立てるところを探すんだ』
俺は言われた通りに足を動かす。
少し広めに。
膝を曲げすぎない。
棒は胸の前。
……お。
さっきより安定している。
『そうそう。それでいい』
勇者が頷いた。
俺は少し嬉しくなった。
剣を振るどころか、構えるだけでこれほど苦労するとは思わなかった。
でも。
面白い。
ゴーレム時代は、力任せに殴れば大抵の敵を倒せた。
今は違う。
身体の使い方を考えなければならない。
それが何だか新鮮だった。
◇
『じゃあ、軽く振ってみるか』
勇者が言った。
待ってました。
俺は木の棒を構える。
『ゆっくりでいいぞ』
分かってる。
俺は慎重に腕を動かした。
上から下へ。
すっ。
棒が空気を切る。
……おお。
できた。
『いいじゃん』
勇者が笑う。
俺は少し得意げになった。
『じゃあ、もう一回』
もう一度。
ゆっくり。
上から下へ。
すっ。
成功。
なるほど。
これが剣術の第一歩か。
◇
しばらく繰り返していると、勇者が腕を組んだ。
『……お前、覚えるのは早いな』
俺は首を傾げる。
『一回教えたことは、結構すぐに理解するだろ』
まあ、それはそうかもしれない。
何しろ中身は千年以上生きている。
暇すぎて、頭の中で何度も戦闘を想像していたこともある。
ただし、実際に剣を使った経験はほとんどない。
そこは別問題だ。
『でも、身体が追いついてないな』
勇者が苦笑いする。
それも分かってる。
分かってるけど。
悔しい。
◇
その時、勇者が少し真面目な顔になった。
『アレン』
俺は顔を上げる。
『強くなりたいのは分かるけど、焦るなよ』
……。
『お前はまだ一歳なんだから』
またそれか。
俺は少し不満そうな顔をした。
すると勇者は笑った。
『いや、馬鹿にしてるんじゃないぞ。今のお前には、これから成長する時間がたっぷりあるって話』
成長。
俺はその言葉を心の中で繰り返した。
そうだった。
俺は人間になったばかりだ。
今の身体能力は一般成人男性並みでも、これから年齢とともに伸びていく。
しかも、普通の人間より成長の幅が大きい。
急ぐ必要はない。
◇
『それにさ』
勇者が続けた。
『お前、何のために強くなりたいんだ?』
俺は少し考えた。
何のため。
ゴーレム時代なら、答えは簡単だった。
自分を守るため。
生き残るため。
そして、いつか外へ出るため。
でも今は違う。
俺はもう自由だ。
家族がいる。
友達がいる。
帰る場所もある。
それでも強くなりたいと思うのは。
……誰かを守れるようになりたいから、かもしれない。
俺は昨日ぶつけた肩へ手を当てた。
◇
勇者は俺の仕草を見て、何かを察したらしい。
『リナちゃんのことか』
俺は頷いた。
『そっか』
勇者は少し笑った。
『なら、まずは自分が怪我しないようにならないとな』
俺も頷く。
『誰かを守るっていうのは、自分が無茶して怪我すればいいって話じゃないから』
なるほど。
確かにそうだ。
昨日だって、俺がもっと上手く動けていれば、肩へ棒が当たることもなかったかもしれない。
もちろん、あの程度の怪我なら大したことはない。
でも、今後もっと危険なことが起きたら。
今のままでは、守れるものも守れないだろう。
◇
『だから、まずは基礎から』
勇者が言った。
『立つ。歩く。走る。身体を思い通りに動かす』
俺は頷いた。
『剣術はその後でも遅くない』
……。
つまり。
明日も歩く練習?
『そういうこと』
ぐっ。
分かってる。
分かってるけど。
千年以上生きた俺が、歩く練習から始めることになるとは。
人生とは分からないものだ。
◇
昼過ぎ、聖女が庭へやってきた。
俺たちの様子を見て、少し驚いたような顔をする。
勇者が何かを説明した。
すると聖女は俺の手にある木の棒を見て、心配そうに眉を寄せた。
……あ。
まずい。
勇者が慌てて何か言い始める。
どうやら危険なことはしていないと説明しているらしい。
聖女は腕を組んだ。
勇者が苦笑いする。
『……アレン』
俺は勇者を見る。
『母さん、まだ剣術は早いって』
……。
ですよね。
◇
結局、木の棒はしばらく封印されることになった。
俺は少し残念だったが、聖女の言うことも理解できる。
今の俺はまだ歩くのも不安定だ。
しかも一歳児。
どれだけ中身が年寄りでも、身体の成長を無視するわけにはいかない。
聖女は俺を抱き上げ、優しく頭を撫でた。
そして何かを言う。
勇者が通訳してくれた。
『元気に育ってくれるだけで十分だって』
……。
俺は少し黙った。
強くなることより。
元気に育つこと。
それが聖女の願いらしい。
何だか、胸が温かくなった。
◇
聖女は俺を抱いたまま家へ戻っていった。
勇者も後ろからついてくる。
『まあ、剣術はもう少し大きくなってからだな』
俺は頷いた。
仕方ない。
『それまでは、歩く練習と積み木でもしてろ』
……。
積み木。
また積み木か。
『あと、言葉の勉強もな』
分かってる。
分かってるけど。
俺、いつになったら本格的に戦えるようになるんだろう。
少し遠い目になった。
◇
夕食のあと、俺は自分の部屋で積み木を並べていた。
勇者に教わったことを思い出す。
焦らない。
丁寧に。
自分の身体に合った動きを探す。
それは剣術だけでなく、積み木にも当てはまるのかもしれない。
一個。
二個。
三個。
今度は崩れない。
俺は少し笑った。
何だ。
ちゃんと上達してるじゃないか。
少しずつ。
でも確実に。
◇
その夜、布団へ横になりながら考えた。
俺はゴーレムだった頃、圧倒的な力を持っていた。
誰にも負けないと思えるほどの強さ。
でも、その力でできたことは少なかった。
むしろ、人間に近付こうとして失敗し、何度も来訪者を傷付けてしまった。
今は違う。
強さは大きく失われた。
それでも、家族と暮らせる。
友達と遊べる。
誰かの手を握れる。
……悪くない。
いや。
最高だ。
◇
ただし。
一つだけ不安がある。
今日、勇者は俺へ剣術を教えてくれた。
構え方。
握り方。
身体の動かし方。
どれも格好良かった。
やっぱり本物の勇者はすごい。
……悔しいけど。
でも、もし俺が剣術を覚えて強くなったら。
いつか勇者より強くなれるだろうか。
そう考えた瞬間、妙な想像が浮かんだ。
『父さん、俺の勝ちだ』
『くっ、まさか息子に負けるとは!』
……。
いい。
すごくいい。
何だか楽しそうだ。
◇
俺は布団の中で小さく笑った。
いつか大きくなったら、勇者と本気で勝負してみたい。
もちろん、殺し合いではない。
ちゃんとした模擬戦だ。
そして勝ったら。
千年以上からかわれ続けた分を、少しくらい仕返ししてやる。
……いや。
今のところ勇者と知り合ってからは、そんなに時間が経っていないか。
でも気分的には、それくらいからかわれている。
俺は目を閉じた。
明日もまた、歩く練習が待っている。
その次も。
さらにその次も。
きっと地味な毎日だろう。
でも、それでいい。
今の俺には、成長する時間があるんだから。
――こうして俺は、勇者から剣術の第一歩を教わった。
ただし、正式な剣術修行は母さんの一言によって、あっさり延期されることになった。




