第28話 俺、勇者の息子として街へ出る
アレンという名前をもらってから、初めての朝を迎えた。
目を覚ましても、特に何かが変わったわけではない。身体は相変わらず一歳児だし、喋れる言葉もまだ少ない。昨日までと同じように、布団から起き上がるだけでも少し苦労する。
ただ、一つだけ違うことがある。
俺には名前がある。
しかも、それを呼んでくれる人がいる。
「アレン」
ちょうど扉が開き、聖女が顔を覗かせた。
俺は振り返る。
「……あれん!」
聖女が嬉しそうに笑った。
自分の名前を呼ばれて、自分で返事をする。それだけのことが、今の俺には少し新鮮だった。
何百年も誰にも呼ばれなかったからな。
◇
朝食を終えると、勇者が俺の前へやってきた。
『アレン、今日は街へ行くぞ』
街。
俺は顔を上げた。
『昨日話しただろ。お前の身元を登録するために、色々手続きが必要なんだよ』
そうだった。
俺は勇者と聖女の息子として、この世界で暮らすことになった。だが、俺には出生を証明するものもなければ、まともな身分証明書もない。
そもそも、ダンジョンから突然現れた元ゴーレムである。
普通に説明しても、絶対に信じてもらえない。
『だから、余計なことはするなよ』
勇者が真剣な顔で言った。
俺は頷いた。
『変なことを聞かれても、赤ん坊らしくしてればいいから』
なるほど。
それなら得意だ。
「だぁ!」
『……今の、絶対分かっててやってるだろ』
俺は首を傾げた。
何のことでしょう。
◇
外へ出ると、朝の空気が頬を撫でた。
少し冷たい。でも気持ちいい。
聖女に抱かれたまま歩いていくと、遠くから色々な音が聞こえてきた。人の話し声、荷車の車輪が回る音、動物の鳴き声。
俺は思わず身を乗り出した。
人がいる。
しかも一人や二人ではない。
通りには大勢の人間が行き交っていた。
商人らしき男。
荷物を抱えた女性。
剣を腰に下げた冒険者。
子供たち。
みんな普通に歩き、話し、笑っている。
俺はその光景に見入ってしまった。
何百年も人間と会話することすらできなかったのに、今は目の前にこんなにも人がいる。
……すごい。
◇
『お前、さっきからきょろきょろしすぎ』
勇者が笑った。
仕方ないだろ。
俺にとっては、見るもの全部が初めてなんだ。
道の両側には店が並んでいる。焼きたてのパンを売る店、色鮮やかな果物を並べた店、武器や防具を飾っている店もあった。
どこからか肉を焼く匂いが漂ってくる。
俺の腹が反応した。
きゅる。
「…………」
勇者が俺を見る。
『さっき朝飯食ったよな?』
食った。
でも、いい匂いがするんだもの。
『お前、食いしん坊だな』
「だぁ!」
違う。
何百年も食事をしていなかった反動だ。
勇者は俺の抗議を無視して笑っていた。
◇
しばらく進むと、一人の女性が聖女へ声をかけてきた。
買い物帰りらしい。腕には籠を抱えている。
聖女が笑顔で応じると、女性は俺を見て目を丸くした。
何かを尋ねている。
当然、俺には分からない。
すると聖女は俺を少し抱き上げ、嬉しそうに何かを説明した。
女性の表情がぱっと明るくなる。
そして俺の顔を覗き込んできた。
……近い。
俺は少し身体を引いた。
女性は笑いながら、俺の頬を指でつついた。
「うぁっ!」
突然の攻撃。
しかも頬。
俺は思わず声を上げた。
女性はさらに楽しそうに笑う。
聖女も笑っている。
何だこれ。
赤ん坊という生き物は、初対面の女性に頬をつつかれても許される存在なのか。
いや、逆か。
赤ん坊だからこそ、つつかれるのか。
なかなか奥が深い。
◇
女性が去ったあと、勇者が俺へ言った。
『今の人、お前のこと可愛いってさ』
可愛い。
俺が?
前世で三十年生きて、誰かにそう言われた記憶はほとんどない。
ゴーレム時代に至っては、可愛いどころか恐怖の対象だった。
それが今では可愛いと言われる。
……悪くない。
『ちなみに、聖女がお前は俺たちの息子だって紹介したからな』
俺は聖女を見る。
彼女は満足そうに微笑んでいた。
そうか。
もう周囲の人間にも、そういうことになっているのか。
少し不思議な感じだった。
◇
街の中心部へ進むと、石造りの大きな建物が見えてきた。
入口には衛兵らしき男が二人立っている。
勇者が何かを話しかけると、衛兵たちは慌てて姿勢を正した。
そして深く頭を下げる。
俺は首を傾げた。
何だ?
『ああ、俺って一応勇者だから』
勇者が小声で言った。
そうだった。
こいつ、ただの日本人転生者じゃないんだ。
本物の勇者なんだった。
魔王を倒して世界を救い、神々の試練まで攻略した英雄。
しかも今は聖女の夫。
……何だこの勝ち組。
俺は思わず勇者を見つめた。
『何だよ、その目』
別に。
ちょっと羨ましいだけだ。
◇
建物の中へ入ると、広い受付があった。
勇者が職員らしき男へ話しかける。
相手は何度も頷き、書類を取り出した。
聖女が俺を抱いたまま椅子に座る。
勇者は書類へ何かを書き始めた。
俺はその様子を眺める。
文字が読めない。
昨日、自分の名前の綴りを覚えたばかりだから当然だ。
でも、自分に関する書類を自分で読めないというのは、何となく落ち着かない。
この世界の文字も早く覚えたいな。
そう考えていると、勇者が俺を見る。
『アレン、ちょっと確認な』
俺は頷いた。
『名前はアレン。年齢は推定一歳。俺たちが保護して、これから養育する。ここまではいいな?』
もう一度頷く。
異論なし。
『問題は出生地なんだよな』
勇者が小さくため息をついた。
……そうだよな。
◇
俺の出生地。
神々の試練。
しかも中ボス部屋。
普通に考えたら意味が分からない。
勇者が職員と何か話している。
相手は難しい顔をしたあと、書類を確認し始めた。
少しして、勇者が俺へ説明した。
『出生地が分からない保護児童として登録する形になるらしい。俺と聖女が保護者になるから、生活する上では問題ないって』
なるほど。
それなら安心だ。
『ただ、後で色々確認が入るかもしれないからな』
俺は頷いた。
まあ、仕方ない。
出自不明の赤ん坊なんて、普通なら色々調べられるだろう。
でも、少なくとも今は勇者と聖女がいる。
それだけで何とかなる気がした。
◇
手続きが一段落すると、聖女が俺の前に紙を差し出した。
そこには、見覚えのある文字が書かれていた。
アレン。
昨日覚えたばかりの、俺の名前だ。
俺は思わず指を伸ばした。
「……あれん」
聖女が嬉しそうに頷く。
勇者も笑った。
『そう。お前の名前だ』
俺はもう一度、紙を見る。
今までは何百年も、誰にも呼ばれなかった。
それが今では、書類にまで名前が残る。
この世界に、俺という人間が存在していることを証明するもの。
たった一枚の紙なのに、何だかすごく大切なものに思えた。
◇
建物を出る頃には、昼近くになっていた。
勇者が大きく伸びをする。
『よし。とりあえず終わったな』
聖女が何かを言う。
勇者は頷いてから、俺を見る。
『せっかくだし、帰る前に買い物していくか』
買い物。
俺は顔を上げた。
『お前の服とか、色々必要だしな』
なるほど。
そういえば、俺は人間になってからずっと借り物の服を着ている。
サイズは合っているものの、今後の生活を考えれば着替えも必要だろう。
勇者が笑った。
『ちゃんと子供用の服を買ってやるからな』
俺は頷いた。
服。
悪くない。
人間としての生活が、また一つ進む。
◇
最初に入ったのは衣服を扱う店だった。
店の中には様々な服が並んでいる。
男物。
女物。
子供用。
そして小さな赤ん坊用の服まであった。
聖女が俺を抱いたまま、何着か選び始める。
俺はその様子を眺めていた。
正直、服のことはよく分からない。
前世でもファッションには疎かった。
だから、似合うものを選んでもらえるなら助かる。
そう思っていた。
最初の一着を見るまでは。
◇
聖女が持ってきたのは、白い服だった。
柔らかそうな生地。
小さな飾り。
丸みのある襟。
……可愛い。
いや。
可愛すぎる。
俺は男だぞ。
前世三十歳童貞。
千年以上生きた元ゴーレム。
その俺が、こんな可愛らしい服を着るのか?
聖女は満足そうに俺へ当ててみる。
店員らしき女性も笑顔で何か言っている。
勇者まで笑っていた。
『似合ってるってさ』
そうか。
似合ってるのか。
……いや、待て。
俺は格好いい男になりたいんだ。
可愛い方向ではない。
◇
俺が首を横へ振ると、聖女は少し不思議そうな顔をした。
勇者が通訳してくれる。
『これ嫌なの?』
俺は頷いた。
『何で?』
説明できるなら苦労しない。
俺は少し考え、近くにあった別の服を指差した。
落ち着いた色の、小さな男児用の服。
飾りも少ない。
これだ。
こういうのでいい。
聖女が俺の指差した服を見る。
そして、少し笑った。
勇者が頷く。
『ああ、なるほど。格好いい方がいいんだな』
俺は全力で頷いた。
『一歳児のくせに』
うるさい。
一歳児にも好みはある。
◇
結局、俺の希望を取り入れた服を何着か買うことになった。
聖女は少し残念そうだったが、最後には笑って頷いてくれた。
ただし、一着だけ。
最初に選んだ可愛らしい服も買っていた。
……何で?
勇者に目で訴える。
『いや、聖女がどうしてもって』
おい。
『まあ、たまには着てやれよ』
何でだよ。
俺は男だぞ。
そう思ったが、聖女が嬉しそうに服を抱えているのを見ると、それ以上抵抗できなかった。
……仕方ない。
一着くらいなら。
◇
買い物を終え、帰り道を歩いていると、聖女が俺を抱き直した。
俺は彼女の肩越しに、街の景色を見る。
人が行き交っている。
笑い声が聞こえる。
店からは食べ物の匂いが漂ってくる。
何もかもが新鮮だった。
何百年も暗い部屋に閉じ込められていた俺が、今は普通に街を歩いている。
しかも、家族と一緒に。
少し前までなら、想像すらできなかった光景だった。
◇
勇者が俺の顔を覗き込む。
『どうだった、アレン。初めての街は』
俺は頷いた。
楽しかった。
ものすごく。
色々な人を見た。
色々な店を見た。
自分の名前が書かれた書類も見た。
そして、服まで買ってもらった。
全部、初めての経験だった。
『これからは何度でも来られるからな』
勇者が言う。
俺は少し驚いた。
何度でも。
そうか。
もう、あの部屋へ戻る必要はないんだ。
閉じ込められていない。
外へ出たいと思えば、外へ出られる。
その当たり前のことが、何より嬉しかった。
◇
家へ戻ると、聖女が買ってきた服を広げ始めた。
勇者は手続きの書類をまとめている。
俺は床へ座り、二人の様子を眺めていた。
何でもない光景。
普通の家族なら、きっと当たり前の日常。
でも、俺には特別だった。
聖女が振り返る。
「アレン」
俺は顔を上げた。
「……あれん」
聖女が笑う。
勇者もこちらを見る。
『お前、だいぶ名前に慣れたな』
俺は頷いた。
アレン。
この世界で生きる俺の名前。
悪くない。
◇
その夜、布団へ横になりながら考えた。
今日、俺は勇者と聖女の息子として登録された。
正確には保護された子供という扱いらしいが、これから一緒に暮らしていくことには変わりない。
そして初めて街を歩いた。
人間として。
アレンとして。
何百年も一人だった俺が、今は誰かに名前を呼ばれ、服を買ってもらい、帰る家まである。
これから十五年。
俺はこの二人と暮らしていく。
言葉を覚えて。
身体を成長させて。
この世界の常識を学んで。
いつか、一人前の人間になる。
俺は小さな手を握った。
まだできないことは多い。
でも、毎日少しずつできることが増えている。
それが楽しかった。
◇
ただし。
一つだけ、気になることがある。
勇者と聖女の息子として登録されたということは。
俺、将来彼女ができたら。
ちゃんと両親に紹介することになるんだよな?
しかも、その両親が勇者と聖女。
勇者には俺の童貞歴まで知られている。
……。
絶対にからかわれる。
『ようやく彼女できたのか、千歳児』
そんな未来が簡単に想像できた。
俺は布団の中で頭を抱えた。
何ということだ。
まだ一歳なのに、すでに将来の恋愛が不安になっている。
でも。
ふと笑ってしまった。
何百年も一人だった頃なら、そんな心配すらできなかった。
今は違う。
家族がいる。
未来がある。
そして、いつか恋愛できるかもしれない。
俺は目を閉じた。
明日はどんな一日になるんだろう。
そんなことを考えながら、俺は眠りについた。
――俺はアレン。
勇者と聖女の息子として、この世界で生き始めたばかりだ。




