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30歳童貞おっさんの転生物語  作者: 障子
第一章 ゴーレム編

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第26話 俺、聖女から言葉を教わる

 人間になって数日が経った。


 俺の生活は、早くも大きく変わっていた。朝になれば目が覚め、腹が減れば飯を食い、夜になれば眠くなる。ゴーレムだった頃には必要なかったことばかりだが、不思議と嫌ではない。


 ただ、一つだけ大きな問題が残っている。


 言葉だ。


 勇者とは日本語で意思疎通ができる。正確には、勇者の話を俺が理解して、頷いたり首を振ったりするだけなのだが。一方、聖女や戦士の言葉はさっぱり分からない。


 何を言われても笑顔で誤魔化すしかない。しかも現在の俺は一歳児。


「だぁ!」


 これが限界である。


 ……俺、本当に人間になったんだよな?


 人間の身体を手に入れたのに、会話ができないという点ではゴーレム時代と大して変わっていなかった。


 悲しい。


     ◇


 その日の朝、聖女が俺の前に小さな木の板を置いた。


 板の上には、いくつかの文字と絵が描かれている。どうやら子供向けの教材らしい。


 聖女は俺の前に座り、一つの絵を指差した。


「ラーナ」


 絵には赤い果物が描かれている。見た目はリンゴに似ているが、形は少し細長い。


 聖女はもう一度指差す。


「ラーナ」


 なるほど。これがこの世界の果物の名前か。


 俺は口を開いた。


「ら……らぁ……な」


 聖女の表情がぱっと明るくなった。


「ラーナ!」


「らーな!」


 言えた。ちゃんと発音できた。


 聖女は嬉しそうに手を叩き、俺の頭を撫でてくれた。


 ……褒められた。


 三十歳まで生きた前世でも、ここまで純粋に褒められた記憶はあまりない。ましてゴーレム時代は千年近く誰とも話していなかった。


 何だろう。これは結構嬉しい。


     ◇


 聖女は次の絵を指差した。


「ミーナ」


 今度は小さな動物だった。猫に似ている。


「みーな」


 俺が繰り返すと、聖女は再び笑った。


 その次は鳥。さらに花、机、椅子。身の回りにあるものを、順番に教えてくれる。


 俺は一つずつ発音していった。最初は舌が思うように動かなかったが、繰り返すうちに少しずつ言いやすくなってきた。


 これは面白い。


 何百年も暇を持て余していた俺にとって、新しいことを覚えられるというだけで十分な娯楽だった。しかも目の前には、優しく教えてくれる聖女がいる。


 最高の学習環境では?


     ◇


『……お前、覚えるの早くない?』


 いつの間にか部屋に入ってきた勇者が、俺の様子を見ていた。


『まだ教え始めたばっかりだろ?』


 俺は首を傾げた。絵と音を結び付けるだけなら、それほど難しくない。問題はむしろ、この小さな口が思った通りに動かないことだ。


『まあ、中身はおっさんだから当然か』


「だぁ!」


 誰がおっさんだ。


『いや、おっさんだろ。しかも俺なんかより遥かに年上』


 ぐっ。否定できない。


 聖女が不思議そうに俺たちを見る。勇者は笑いながら何かを説明し、聖女も楽しそうに笑った。


 何を言った。おい、ちゃんと通訳しろ。


『お前がすごく頑張ってるって伝えただけだよ』


 本当か? 絶対に余計なことを言っただろ。


     ◇


 その後も勉強は続いた。


 聖女は物の名前だけでなく、簡単な挨拶も教えてくれた。朝の挨拶、感謝の言葉、返事の仕方。何度も聞いているうちに、少しずつ言葉の規則も分かってきた。


 ただし、ここで問題が発生した。


 頭では理解できる。でも口が追いつかない。


 少し長い言葉になると、舌がもつれてしまうのだ。


「ら……みゃ……」


 違う。もう一回。


「らみ……にゃ」


 何だ今の。猫か?


 聖女は笑いを堪えながら、もう一度教えてくれた。


 優しい。でも少し恥ずかしい。


 何百年も生きた俺が、一歳児向けの言葉で苦戦している。これが転生の現実か。


     ◇


 昼過ぎ、勇者が俺を庭へ連れ出した。


 昨日、食堂で机を動かしてしまった件が気になっていたらしい。俺も気になっていた。見た目は一歳児なのに、大人用の机を引きずれるなんて妙な身体だ。


『今日は身体の使い方を調べよう。昨日の力も、ちゃんと把握しておきたいしな』


 勇者は小さな木箱を置いた。その中には形の違う積み木がいくつも入っている。


『まずは一個ずつ積んでみて』


 俺は頷き、積み木を手に取った。


 持てる。重くもない。


 ただ、問題は指先だ。小さな手で角をつかむと、思い通りの向きに直すのが意外と難しい。


 俺は慎重に一個目を置いた。


 次に二個目。


 そして三個目。


 ぐらり。


 崩れた。


「…………」


『力じゃなくて、バランスの問題だな』


 勇者が笑う。


 分かってる。分かってるけど悔しい。


     ◇


 そこで勇者は、少し大きな木箱を持ってきた。


『これ、持ち上げられる?』


 俺は両手を伸ばし、箱を抱えた。中には布や木片が入っている。ずっしりとした重さがあったが、持ち上げることはできた。


『じゃあ、こっちは?』


 次はもう少し重い箱だった。


 俺は足を踏ん張って持ち上げる。


 重い。でも動かせる。


『……やっぱりな。今のお前、筋力だけなら大人の男と同じくらいだと思う』


 なるほど。確かに昨日の桶も、持ち上げられた。


 でも勇者が続けた言葉に、俺は少し安心した。


『とはいえ、ゴーレム時代とは全然違う。建物を壊したり、衝撃波を出したりするような力じゃない。今はあくまで人間としての強さだ』


 そうだよな。


 あんな力が残っていたら、食事中に机を動かしたどころでは済まない。


 それに、力があっても今の俺は足元がおぼつかない。走ろうとすれば転びそうになるし、椅子に登るだけでも一苦労だ。


 要するに、筋力と身体の操作は別物なのだ。


     ◇


『だけど、成長したらどうなるんだろうな』


 勇者が考え込む。


 そういえば、宝珠は今の能力を完全に維持したまま人間化することはできないと言っていた。それでも、普通の子供とは違う身体になったらしい。


『大きくなるにつれて身体能力も伸びるんだろうけど、どこまで伸びるかは分からないな。今は無理に試さず、少しずつ確認しよう』


 俺は頷いた。


 今すぐ最強でなくてもいい。むしろ、今の目標はそんなことではない。


 歩くこと。喋ること。手加減というより、人間の身体に慣れること。


 そして、誰かと普通に生活すること。


 それが何より大事だった。


     ◇


 俺はもう一度積み木へ向かった。


 今度は急がない。小さな指で角をそっとつまみ、下の積み木の中心を見ながら重ねる。


 一個、二個、三個。


 四個目も乗った。


『おお、できたじゃん』


 勇者が褒める。


 俺は少し胸を張る。


 その瞬間、バランスを崩した。


「うぁっ!」


 俺は咄嗟に膝をつく。積み木の塔がぱたぱたと崩れた。


『……まだまだだな』


 俺もそう思う。


 筋力は大人並みでも、積み木を積むことすら簡単ではない。


 これが一歳児の身体か。


 先は長い。


     ◇


 夕方になると、聖女が迎えに来た。


 俺はゆっくり立ち上がり、聖女の元へ向かう。まだ歩き方はぎこちないが、昨日よりは安定してきた。


 聖女が両手を広げる。


 俺は慎重に近付き、その手へ触れた。


 温かい。


 今度は焦らない。足元を見て、ゆっくり歩く。


 聖女は笑いながら抱き上げてくれた。


 ゴーレム時代のような力はない。普通に抱かれ、普通に触れ合える。


 それだけで少し安心した。


     ◇


 部屋へ戻る途中、俺は昼間に覚えた言葉を思い出した。


 感謝の言葉。


 確か、こうだったはず。


 俺は聖女を見上げた。


「あ……りゃ……」


 違う。もう少し。


「あり……が……」


 聖女が足を止めた。


 俺はゆっくり口を動かす。


「……ありがと」


 日本語だった。この世界の言葉ではない。


 でも、今の俺が言える精一杯だった。


 聖女は少し驚いた顔をした。意味は分からないはずなのに、俺の表情から何かを察したのか、優しく微笑んでくれた。


 俺はその顔を見て、少しだけ嬉しくなった。


     ◇


 夜、勇者が俺の様子を見に来た。


『今日はどうだった?』


 俺は頷いた。


『言葉、結構覚えたらしいな』


 もう一度頷く。


『聖女がすごく喜んでたぞ』


 そうなのか。


『お前、頑張り屋なんだな』


 勇者は笑った。


 俺は少しだけ目を逸らす。


 別に褒められるようなことはしていない。ただ、人間として生きたいだけだ。


 普通に食べて、普通に歩いて、普通に話す。その先に、いつか誰かを好きになって、好きになってもらう。


 そんな人生を送ってみたい。それだけだった。


     ◇


『そういえば、お前の名前どうする?』


 勇者が突然言った。


 俺は首を傾げる。


『前世の名前、そのまま使うのも変だろ。この世界で生きるんだし』


 なるほど。確かにそうだ。


 今の俺は人間になったばかりで、戸籍らしきものもない。それに、この世界の人間として生きるなら、新しい名前があってもいい。


『聖女とも相談してたんだけどさ』


 勇者が少し笑う。


『せっかくだし、ちゃんと名前を付けようって』


 名前。


 ゴーレムだった頃、俺を名前で呼ぶ人間なんていなかった。勇者と出会ってからは、ようやく人として扱ってもらえるようになった。


 そして今度は、この世界で生きるための新しい名前。


 少しだけ胸が高鳴った。


『まあ、候補はいくつかあるんだけど。お前の意見も聞きたいし、明日みんなで決めようぜ』


 俺は頷いた。


 悪くない。しかも勇者と聖女が考えてくれる。俺はそのことが少し嬉しかった。


     ◇


 その夜、布団へ横になりながら考えた。


 人間になってから、毎日新しいことばかりだ。食事、睡眠、歩く練習、言葉、そして力の扱い方。


 今の俺には成人男性くらいの力がある。けれど、身体はまだ小さく、できないことも山ほどある。


 いつか成長した時、どこまで強くなれるかは分からない。でも今はそれより、明日また一つ何かを覚えられることの方が楽しみだった。


 何百年も一人だった俺が、今は誰かに教えてもらいながら生活している。


 不思議だった。でも、嫌じゃない。


 俺は小さな手を握った。


 明日は何を覚えるんだろう。そして、俺はどんな名前になるんだろう。


 そんなことを考えながら、俺は眠りについた。

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