第25話 俺、人間になって初めて飯を食う
目を覚ますと、知らない天井があった。
一瞬、またあの石の部屋に戻ったのかと思った。でも違う。天井は木でできていて、近くには窓がある。そこから柔らかな光が差し込んでいた。
身体の下には柔らかい布団。
そして俺の身体も、柔らかい。
人間だ。
俺は小さく息を吐いた。
「……あぅ」
声も出る。
相変わらずまともな言葉にはならないけど。
◇
身体を起こそうとする。
腕へ力を入れて、ゆっくり上半身を持ち上げる。
今度は昨日より動かしやすかった。
どうやらこの身体そのものが弱いというより、ゴーレムだった時との感覚が違いすぎて、俺が操作に慣れていなかっただけらしい。
俺は慎重に四つん這いになる。
いける。
そのままベッドの端へ移動して――止まった。
高い。
今の俺にとっては、かなり高い。
昨日までの身体なら段差ですらなかったのに、今は普通に落ちたら怖い。
人間、不便すぎる。
◇
どうやって降りようか考えていると、扉が開いた。
聖女が入ってくる。
俺と目が合った。
聖女が驚いた顔をしたあと、すぐに笑う。
何か言いながら近付いてきた。
やっぱり言葉は分からない。
でも、たぶん「起きたの?」とか、そんな感じだろう。
聖女は俺を抱き上げた。
「うぁ」
昨日より驚かなくなった。
慣れというのは恐ろしい。
女性に抱かれているのに、俺はもう普通に受け入れ始めている。
いや。
俺は一歳児だ。
今だけは許される。
たぶん。
◇
聖女に抱かれたまま部屋を出る。
廊下を進んでいくと、香りがした。
何だ?
鼻を動かす。
温かくて、少し甘くて、何かを焼いたような匂い。
その瞬間。
腹の奥が鳴った。
きゅるるるる。
「…………」
俺は固まった。
聖女も止まった。
俺を見る。
やめて。
聞かないで。
今まで腹なんて鳴ったことなかったんだ。
聖女が笑った。
恥ずかしい。
◇
部屋へ入ると、勇者と戦士がいた。
机の上には食事が並んでいる。
パン。
スープ。
肉。
野菜。
見た瞬間、俺は動けなくなった。
食べ物。
本物の。
食べ物。
前世以来。
いや。
何百年ぶりだ?
『お、起きたか』
勇者が俺を見る。
俺は机から目を離せなかった。
『……もしかして腹減ってる?』
「だぁ」
減ってる。
ものすごく。
聖女が俺を椅子の上へ座らせる。
当然、大人用の椅子なので身体が小さすぎる。
結局、聖女が膝の上に俺を乗せた。
「…………」
またこの状態。
俺、いつまで女性の膝の上で生活するんだろう。
でも食事の前では、そんなことはどうでもよかった。
◇
聖女が小さな器を用意した。
中には柔らかく煮た何かが入っている。
俺は机の上の肉を見る。
そして自分の器を見る。
もう一度肉を見る。
自分の器を見る。
『お前、今絶対に肉食いたいって思ってるだろ』
勇者が笑う。
俺は全力で頷いた。
『無理じゃない? その歯じゃ』
俺は口の中を確認した。
歯。
ある。
でも少ない。
絶望した。
一歳児。
こういうところまで一歳児。
◇
聖女がスプーンで柔らかい食事をすくい、俺の口元へ持ってくる。
俺は止まった。
待て。
これは。
あーん。
では?
女性から。
あーん。
俺が前世で一度も経験できなかったイベント。
それが今。
目の前に。
『何固まってんだ?』
勇者が不思議そうに聞く。
黙れ。
今、大事なところなんだ。
◇
俺は覚悟を決めて口を開けた。
「あー……」
聖女がスプーンを入れる。
食べ物が舌へ触れた。
「…………!」
味。
味がする。
温かい。
少し甘い。
柔らかい。
ちゃんと食べ物だ。
俺はゆっくり噛んだ。
そして飲み込む。
喉を通っていく。
腹へ入る。
そのすべてが懐かしくて、初めてみたいだった。
◇
『どう?』
勇者が聞く。
俺は何度も頷いた。
美味い。
ものすごく美味い。
何百年も鉱石しか吸収してこなかった。
いや、鉱石に味はなかった。
人間になったらやりたいことを色々考えていた。
恋愛。
デート。
彼女。
童貞卒業。
そればかり考えていた。
でも。
飯。
これも最高だ。
人間、すごい。
◇
俺は次を催促するように口を開けた。
「あー」
聖女が笑う。
また一口。
美味い。
さらに一口。
美味い。
『お前、完全に赤ん坊だな』
勇者が言う。
うるさい。
今だけは赤ん坊でいい。
飯が美味い。
それで十分だ。
◇
しばらくして腹が満たされた。
俺は満足して息を吐く。
食べた。
人間になって初めて。
ちゃんと。
食事をした。
思った以上に感動した。
次は肉を食いたい。
あと甘いもの。
前世ではそれほど甘党でもなかったけど、何百年ぶりなら何でも食いたい。
俺の人間としてやりたいこと一覧に、食事が追加された。
◇
食後、聖女が俺を床へ下ろした。
昨日より身体を動かせるようになったので、歩く練習をすることになったらしい。
俺は床へ手をつき、ゆっくり立ち上がる。
足が震える。
でも立てた。
『おお』
勇者が感心した声を出す。
俺は少し胸を張る。
昨日は立てなかった。
今日は立てた。
一歩。
ゆっくり足を前へ出す。
成功。
もう一歩。
成功。
いける。
◇
俺は少し調子に乗った。三歩目を踏み出した途端、身体が傾く。咄嗟に近くの机の縁をつかんだ。
「うぁっ!」
ガタンッ!
机が思い切り動き、上に置かれていた木の杯が転がった。
俺は倒れずに済んだものの、その場で固まった。机を支えにしたつもりが、机そのものを引きずってしまったらしい。
勇者も、戦士も、聖女もこちらを見ている。
『……今、机を動かしたよな?』
勇者がゆっくり口を開く。
俺は頷いた。いや、動かそうとしたわけじゃないんだけど。
『子供の力じゃ、普通はあんなふうに動かせないぞ』
言われてみればそうだ。今の俺は一歳くらいの見た目で、机よりずっと小さい。
それなのに大人用の木の机を動かしてしまった。ゴーレム時代のように粉々にしたわけではないが、普通の赤ん坊には無理だろう。
◇
勇者は俺の手を確認し、それから机を元の位置に戻した。
『ひょっとして、身体の大きさだけ赤ん坊で、力は大人くらいあるのか?』
俺は首を傾げる。自分でも分からない。筋肉の感覚は昨日までとまったく違うし、かといってゴーレムだった頃ほどの力はない。
『ちょっと確かめよう。ただし、無茶はなしな』
勇者は部屋の隅から水の入った桶を持ってきた。大人なら片手で持ち上げられそうな大きさだ。
『これ、持てる?』
俺は桶の取っ手を両手でつかみ、ゆっくり持ち上げた。
持てた。
重さは感じる。けれど、無理をするほどではない。
『……なるほど。大人の男くらいの力はあるな』
勇者が感心したように言った。
聖女は目を丸くしている。俺も驚いた。見た目は赤ん坊なのに、中身は大人並みの力。どう考えても普通ではない。
でも、昔の俺なら桶どころか部屋ごと壊していたかもしれない。今の力は、ちゃんと人間の範囲に収まっている。
俺はそれが少し嬉しかった。
◇
ただし、力があるからといって身体をうまく使えるわけではないらしい。
さっきも机につかまらなければ転んでいた。筋力はあっても、手足の長さも重心もゴーレム時代とは違いすぎるのだ。
『お前、力は大人並みでも身体の使い方は赤ん坊だな』
勇者が笑った。
的確すぎて腹が立つ。
『これから歩く練習と、物を優しく扱う練習をしよう。力任せにやったら、物も人もびっくりするからな』
俺は頷いた。
ゴーレムだった頃、人と会うたびに失敗してきた。せっかく人間になれたんだ。今度こそ普通に手を繋いだり、肩を並べて歩いたりしたい。
俺は自分の小さな手を握った。もう、誰かに近付いただけで壊してしまうような存在ではない。それでも力加減は覚えなければならない。
まずは、この身体に慣れよう。
◇
聖女が何かを言いながら俺の頭を撫でた。俺は力を入れず、その手に少しだけ頭を預ける。
温かい。ちゃんと触れられる。
誰も傷付かない。
それだけで少し安心した。
◇
食べる。
眠る。
歩く。
喋る。
力を調整する。
人間になったら、すぐに恋愛生活が始まると思っていた。
実際は、その前に覚えることだらけだった。
でも。
悪くない。
何百年も変化のなかった生活と違って、今は毎日新しいことがある。
今日できなかったことが、明日はできるかもしれない。
そういう生活を。
俺はずっと欲しかったのかもしれない。
◇
勇者がずれた机を見て、ため息をついた。
『で、これ誰が片付けるんだ?』
「…………」
俺は目を逸らした。
『おい』
知らない。
俺、一歳児。
まだ片付け方も習ってない。
『都合のいい時だけ赤ん坊になるな』
「だぁ」
何のことだか分かりません。
俺は聖女へ向かって両手を伸ばした。
聖女が笑いながら抱き上げてくれる。
『逃げた!』
勇者が何か言っている。
聞こえない。
俺は赤ん坊。
難しい話は分からない。
こうして俺は、人間になって初めて食事をし、自分の力が大人並みだと知り、そして初めて赤ん坊という立場の便利さを知った。




