第16話 俺、日本語を話す勇者と出会う
『……マジでここまで来るの長すぎだろ』
その言葉を聞いた瞬間、俺は完全に固まった。
日本語。
聞き間違えるはずがない。何百年、いや、それ以上聞いていなかったとしても、これは間違いなく日本語だ。
俺の中で、長い間忘れかけていた感覚が一気に蘇った。コンビニ。会社。電車。
テレビ。スマホ。友人とのどうでもいい会話。
そして。
「日本……」
懐かしさが、一気に押し寄せてきた。
◇
『これクリアしたら、本当に願い叶うんだよな?』
また聞こえた。完全に日本語だ。しかも、口調からして若い男。
「転生者?」
俺と同じ。日本から来た人間。
まずい。嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。
以前の俺なら、この時点で走り出していた。
「落ち着け」
俺は必死に自分へ言い聞かせる。
「昔とは違う」
もう何度も失敗した。人を吹き飛ばした。全滅させた。逃げられた。
そして学んだ。
「動くな」
まずは、そこからだ。
◇
巨大な扉が、ゆっくり開いていく。
ゴゴゴゴゴゴ……。
光が差し込み、人影が見えた。一人。二人。三人。
「三人か」
先頭には剣を持った青年。その後ろに男。さらに、女性。
俺は少しだけ意識を持っていかれた。
「待て」
今はそこじゃない。日本語。そっち。
「集中しろ俺」
◇
三人が部屋へ入る。先頭の青年が俺を見上げた。そして。
『……でか』
俺は震えそうになった。分かる。
「分かる!」
意味が!
『こんなのゲームにいたか?』
ゲーム?
俺の意識が、その一言に引っかかった。
『いや、少なくとも俺が知ってる範囲じゃ……』
青年が小さく呟く。
ゲーム。知ってる。日本語。
「転生者確定だろ、これ」
俺の中で、ほぼ確信に変わった。
◇
問題は、どうやって話すか。俺には声がない。
ここまで来て。
「またこれかよ!」
何百年待った。ようやく日本語を話す人間が来た。なのに。
「喋れない!」
最悪だった。でも、今回は違う。
「文字!」
俺には、これがある。
◇
床には、昔から残している日本語。
『攻撃しない』
『話したい』
俺は視線の代わりになる感覚を、そちらへ向ける。
気付け。
「頼む」
そこ。
「床見ろ」
青年は、まだ俺を警戒している。当然だ。剣を構える。後ろの二人も身構えた。
「違う」
戦いたくない。
「床!」
もちろん伝わらない。俺は動かない。動いたら危険。
「気付けぇぇぇぇぇ!」
心の中だけで叫ぶ。
◇
すると、後ろにいた女性が何かに気付いた。床。俺の文字。
彼女が青年へ何か言う。日本語ではない。俺には分からない。
「でも!」
見つけた。青年が床へ視線を落とす。
読む。
読んでいる。
『攻撃しない』
『話したい』
青年の目が大きく開いた。
『……は?』
来た。
『日本語……?』
俺の中で、何かが弾けそうになった。
「読めたぁぁぁぁぁぁ!!」
◇
だが、動かない。絶対に動かない。嬉しくても。興奮しても。
「動くな俺!」
今までの失敗が全部頭をよぎる。走って全滅。手を出して全滅。地団駄で全滅。
女性を見て爆発。
「今回は絶対に!」
失敗しない。
◇
青年が床の文字と俺を交互に見る。
『……お前』
俺。
『日本人なのか?』
質問。分かる。答えたい。
「はい!」
言えない。口、ない。
「くそぉぉぉぉ!」
俺は心の中で叫ぶ。どうする。頷く。
いや、慎重に。
ほんの少し、頭を縦へ動かす。
何も起きない。
『……マジかよ』
青年が呟いた。
「通じた!」
俺は泣きそうになった。
◇
『お前、本当に日本人?』
もう一度聞かれる。俺はまたゆっくり頷く。
『じゃあ……転生者?』
俺は少し考える。
「転生……なのか?」
正確には、マンホールに落ちて気付いたら玉だった。転移。転生。どっちか分からない。
迷って、とりあえず首を傾げた。
『……分からないってことか?』
すごい。通じる。
「会話してる!」
ちゃんと。
「会話できてるぅぅぅぅぅ!!」
何百年ぶりか。いや、この世界に来てから初めて。
◇
青年は後ろの二人へ何か説明する。俺にはその言葉は分からない。でも、たぶん俺のことを話している。
後ろの男が、驚いた顔で俺を見る。女性も。
女性。綺麗。
「見るな俺!」
危ない。今、会話が始まったばかり。
「ここで爆発したら全部終わる!」
俺は必死に平常心を保った。
◇
『じゃあ、話せないのか?』
青年が聞く。俺は頷く。
『声、出ない?』
頷く。
『口……』
青年が俺の顔を見る。
『……ないのか』
俺は少し傷付いた。
「知ってるよ!」
自覚している。でも、改めて言われると。
「ちょっと悲しい!」
◇
『なら、文字』
青年が床を見る。
『書けるんだよな?』
俺は頷く。そして、ゆっくり。本当にゆっくり、床へしゃがむ。
三人が一瞬身構える。
「大丈夫!」
俺は慎重に指を床へ当てる。
ガリ。ガリガリ。
久しぶりに、誰かへ読んでもらうための文字を書く。
『日本人』
次。
『三十歳』
そこで、少し止まった。
「何を書けばいい?」
元会社員。童貞。
童貞。
「いや、書くな!」
初対面で自己紹介に必要ない。危なかった。
◇
俺は続きを書く。
『マンホール』
『落ちた』
『気付いたらここ』
青年、読んでいる。
『マンホール?』
頷く。
『死んだの?』
俺は首を傾げた。
『そこも分からないのか』
頷く。
『気付いたらゴーレム?』
頷く。
『ずっとここに?』
俺は強く頷いた。
◇
『どれくらい?』
分からない。俺は床へ書く。
『わからない』
その下。
『すごく長い』
さらに。
『人ほぼ来ない』
書きながら、少し悲しくなった。
『寂しい』と書こうとして、俺は止まる。やめた。
「重い」
初対面でこれは重い。危ない。
◇
青年は俺の文字を読み、しばらく黙った。それから。
『俺も日本人だ』
知ってる。でも、本人の口から聞くと違った。
『転生した』
俺はゆっくり顔を上げる。
『この世界に生まれ直して、今は勇者やってる』
勇者。
「本当に勇者だった!」
昔、妄想で何度も想定した。勇者が来る。俺、ボス。
待て。
ものすごく重要なことに気付いた。
◇
勇者。この部屋。俺。ボス。
進行条件。ゲームなら、ボスを倒す。
俺、倒される?
嫌な予感。ものすごく嫌な予感。
俺は床へ急いで文字を書く。
『俺』
『倒す?』
青年が読む。
沈黙。
やっぱり?
青年が頭を掻いた。
『……たぶん』
俺は固まった。
『ここ、先に進むには中ボス倒さないと駄目なんだよ』
中ボス。俺。
長年の疑問、解決。
「俺、本当にボスだったんだ……」
◇
そして次の瞬間、別の問題が頭を埋め尽くした。
「倒す?」
つまり。
「殺す?」
俺。
「死ぬ?」
嫌だ。ものすごく嫌だ。
何百年。いや、もっと。ここで一人、頑張った。身体を作った。
鍛えた。人と話そうとした。そして。
「まだ童貞」
ここ、重要。非常に重要。
◇
俺は床へものすごい勢いで、ただし床を壊さないように文字を刻んだ。
『死にたくない』
青年、沈黙。
さらに。
『まだやりたいことある』
『まあ、そりゃそうだよな』
さらに。
『彼女ほしい』
『恋愛したい』
青年、止まった。
後ろの二人は読めない。良かった。いや、何が良いのか分からない。
俺は最後に、大きく書いた。
『まだ童貞』
青年が完全に黙った。
◇
『……何年?』
俺は考えた。前世、三十年。この世界、不明。でも、ものすごく長い。
俺は床へ書く。
『三十年+ここで数百年?』
さらに。
『多分』
青年が顔を手で覆った。
『重すぎるだろ……』
「だろ!?」
初めて、本当に俺の苦しみを理解してくれる人間が現れた気がした。
◇
俺はさらに書く。
『死ぬ前に彼女ほしい』
『ちゃんと恋愛して』
『付き合って』
『その先に行きたい』
青年が読む。
『いや、最後ぼかすなよ』
「うるさい!」
書けるか! 後ろに女性いるんだぞ!
俺にも、羞恥心くらいある。
◇
勇者は、しばらく俺を見ていた。そして。
『……分かった』
『俺も、できればお前を殺したくない』
俺は完全に動きを止めた。
『日本人だし』
それだけ。でも、その言葉がものすごく嬉しかった。
何百年も、誰にも分かってもらえなかった。話せなかった。それが今、ようやく。
俺は床へ一言書いた。
『ありがとう』
◇
勇者はそれを読んで、小さく笑った。
『で』
そして、扉の奥、さらに先へ続く道の方を見る。
『問題は、どうやってお前を倒さずに先へ進むかだな』
俺もそちらを見る。俺を倒さないと進めない。でも、俺は死にたくない。
長い、長すぎる孤独生活の果てに、ようやくまともに話せる人間と出会えた。そして、その初めての相手といきなり。
「どうやって俺を殺さずにボス戦を終わらせるか」
という、とんでもない相談をすることになった。




