第14話 俺、筆談にすべてを賭ける
初めて女性を見ただけで身体が暴走してから、俺はしばらく本気で落ち込んでいた。
走って失敗。手を動かして失敗。地団駄を踏んで失敗。そして最後は、何もしなかったのに失敗。
「……もうどうしろっていうんだよ」
俺は巨大な扉を眺めながら、床に座り込んでいた。何もしなければ安全だと思っていた。その最後の希望まで、あっさり裏切られた。
「女の子見ただけで爆発って……」
言葉にすると最悪だった。
「違うからな。別に変な意味じゃないからな」
誰もいない部屋で、誰に対してか分からない弁明をする。
虚しい。
◇
それからまた、長い時間が過ぎた。どれくらいかは相変わらず分からない。俺には時計も暦もなく、眠る必要すらないから、時間というものを正確に測る方法がない。
ただ、一つだけ分かることがあった。来訪者は、すぐには来ない。一組来てから次の一組が現れるまで、とんでもなく長い間が空く。
「せめて週一くらいで来てくれないかな」
無茶を言っている自覚はある。でも俺からすれば、来訪者は唯一の外界との接点なのだ。
「月一でもいい」
沈黙。
「年一……?」
当然、返事はない。
「……贅沢言わないから、人と話したい」
その「話す」が一度も成功していないのだが。
◇
暇な時間だけは山ほどある。だから俺は、これまでの失敗をもう一度整理した。
まず直接接触は論外。握手なんて絶対に無理だ。大きな身振りも危険。小さな動きですら何が起きるか分からない。
ジェスチャーは、そもそも文化が違えば通じない。
「となると……」
残る方法は少ない。
声。
「出ない」
絵。
「下手」
文字。
俺は止まった。
「文字?」
前にも少し考えた。この世界の文字は知らない。でも。
「日本語なら書けるじゃん」
もちろん相手が読めるとは思えない。それでも、何もしないよりはマシではないだろうか。
◇
俺は床にしゃがみ込み、人差し指を押し当てた。今の身体なら、石の床くらい簡単に削れる。ただし力加減には細心の注意が必要だ。
「ゆっくり……ゆっくり……」
ガリ。
少し削れた。
「よし」
もう一度。
ガリガリ。
俺は慎重に文字を書いていく。
『こんにちは』
書けた。俺は少し離れて確認した。
「……読める」
当たり前だ。日本人の俺が書いた日本語なのだから。
「問題は、この世界の人が読めるかだけど」
そこが一番重要だった。
◇
次に。
『敵意はありません』
書いてみる。長いな。もっと簡単な方がいい。
削って消そうとして、床が余計にボロボロになった。
「またこれか」
書き直す。
『敵じゃない』
まだ長い。
『友達』
「重いな」
初対面で床に「友達」と書いて待っている巨大ゴーレム。
「怖いわ」
自分で却下した。
◇
何を書くべきか真剣に考えた。
『話したい』
悪くない。
『攻撃しない』
これもいい。
『仲良くしよう』
少し馴れ馴れしい。
『彼女募集中』
「絶対違う!」
なぜ候補に出した。俺は慌てて削った。
「危ない。孤独が思考を侵食してる」
もうとっくに侵食されている気もしたが、考えないことにした。
◇
結局。
『話したい』
『攻撃しない』
この二つを書くことにした。日本語だが、文章自体は簡単だ。もし転生者でも来れば、奇跡的に読めるかもしれない。
自分で考えてから笑った。
「いや、そんな都合よく日本人来るわけないか」
俺自身が日本から来ている時点で、絶対ないとも言い切れないのだが。この時の俺には、そこまで真剣に考える理由もなかった。
◇
それから俺は、筆談の練習を始めた。鉱石を吸収。鍛錬。筆談。
妄想。また鉱石を吸収。鍛錬。筆談。
時々妄想。
「……妄想いる?」
「いる」
即答だった。孤独な生活に必要な精神安定剤である。
◇
文字を書く速度も少しずつ上がった。最初は一文字刻むだけでも慎重だったが、慣れてくると床を壊さず書ける。
『こんにちは』
『敵意なし』
『話したい』
『攻撃しない』
そのうち。
『俺は悪いゴーレムじゃない』
何か。
「スライムっぽいな」
却下。
◇
そんなことを続けているうちに、再び扉の向こうから足音が聞こえた。久しぶりの音だった。
「……来た」
以前なら興奮していた。だが、もう俺も何度も失敗している。さすがに学習した。
「動かない。騒がない。興奮しない」
そして今回は。
「文字」
これがある。俺は来訪者から十分離れた床へ、あらかじめ大きく日本語を刻んでおいた。
『攻撃しない』
『話したい』
「完璧」
読めれば。という重大な条件付きだが。
◇
ゴゴゴゴゴゴ……。
巨大な扉が開いた。入ってきたのは四人。
剣を持った男。槍を持った男。杖を持った人物。そして弓を持った人物。
今回は性別確認を後回しにした。
「成長したな俺」
普通はそれが当たり前だ。
四人は俺を見るなり、やはり武器を構えた。俺は動かない。ただ視線――の代わりになる感覚を、床の文字へ向ける。
「見ろ」
頼む。
「床を見てくれ」
◇
一人が気付いた。男が床を指差し、仲間へ何か言う。
「来た!」
俺は心の中で叫んだ。
「読め!」
頼む。
「読んでくれ!」
四人が俺の刻んだ文字を見る。じっと、見る。
そして、顔を見合わせた。
嫌な予感。
杖を持った人物が首を傾げる。剣士が何か叫ぶ。その後、全員が再び武器を構えた。
「やっぱり読めないぃぃぃぃ!!」
◇
分かっていた。分かっていたけど。
「ちょっとくらい奇跡起きろよ!」
異世界転生したんだから、日本語を知っている人間が一人くらいいてもいいじゃないか。いや、冷静に考えれば相当な無茶だ。
「じゃあ絵!」
俺はすぐに別案へ移った。ただし身体は動かせない。今から描いたら怖がられる。
「前もって描いとけばよかった!」
準備不足。痛恨。
◇
四人が少しずつこちらへ近付いてくる。慎重に、武器を構えたまま。
「待って」
俺は動かない。
「俺、攻撃する気ないから」
伝わらない。剣士が何か叫ぶ。たぶん。
『戦え』
とか。
『覚悟しろ』
とか。そんな感じだと思う。
「嫌だよ」
俺は心の中だけで答えた。今回は絶対に動かない。何をされても。
「石像」
そう。俺は石像。
◇
そして剣士が、一気に踏み込んだ。
剣が、俺の胴体へ。
ガキィン!!
当たった。
俺は動かない。剣士も動かない。
というか、剣士、自分の剣を見ている。
「……折れた?」
刃が欠けていた。
「ごめん」
何もしていない。本当に何もしていない。なのに申し訳ない。
◇
今度は槍。
ガンッ!
弾かれた。
矢。
カンッ!
床へ落ちた。
魔法。
ドンッ!
煙。晴れる。
「俺、無傷」
四人、沈黙。俺も沈黙。
いや、元から喋れない。
気まずい。
◇
だが、これは。
「いける?」
今までと違う。俺は攻撃していない。誰も吹き飛んでいない。全滅もしていない。
「成功!」
まだ早い。でも。
「今回いける!」
俺の中に希望が湧いた。相手が攻撃しても、俺が反撃しなければいい。そのうち。
『あれ? こいつ戦う気ない?』
と、気付いてくれるはず。
「そうだ!」
俺は動かない。
「攻撃し放題!」
言い方が悪い。
◇
四人はしばらく攻撃を続けた。剣。槍。矢。
魔法。何度も、何度も。俺は全部受けた。
痛くない。そもそも効いてない。
ちょっと申し訳なくなってきた。剣士の剣、ボロボロ。槍、先端が曲がっている。
矢、ほとんどなくなった。杖の人、肩で息をしている。
俺は思った。
「そろそろ止めた方がいい?」
でも、動いたら危険。
どうする。
◇
その時、剣士が武器を下ろした。
俺は期待した。
「気付いた?」
俺が戦う気がないと。
「気付いてくれた!?」
剣士は仲間を見る。何か話す。他の三人も武器を下ろした。
来た。
「意思疎通成功!?」
ついに!
俺は何十年ぶりか分からないほどの達成感を感じた。
◇
四人はゆっくり後ろへ下がった。うん、警戒は仕方ない。
さらに下がる。まあ、安全な距離。
さらに、下がる。
「ん?」
扉まで戻った。
一人、外へ。二人目、外へ。三人目。四人目。
そして。
ゴゴゴゴゴゴ……。
扉が閉まった。
俺は誰もいなくなった部屋で、立ち尽くした。
◇
「逃げたぁぁぁぁぁぁ!!」
全滅はしなかった。
「生きて帰った!」
これは、ものすごい進歩。
「でも逃げた!」
会話、ゼロ。
「文字も読まれてない!」
成果、ほぼゼロ。
「でも死んでない!」
俺は悩んだ。成功なのか。失敗なのか。
最終的に。
「半分成功!」
そういうことにした。
◇
この日から、俺は方針を少し変えた。来訪者を倒さない。まずそれでいい。意思疎通は、その次。
「段階!」
そう。恋愛と同じ。
「まず生きて帰ってもらう!」
次に。
「話す!」
次に。
「仲良くなる!」
その次に。
「女の子だった場合は――」
俺は止まった。
「まだ早い」
成長した。少しだけ。
◇
俺は床に刻まれた日本語を見る。
『攻撃しない』
『話したい』
今回も通じなかった。でも、俺は消さなかった。
「いつか」
本当に、いつになるか分からない。
「これを読める奴が来たりしてな」
そんなことを考えて、一人で少し笑った。
「……まあ、ないか」
そして俺は、また鉱石を吸収し始めた。次の来訪者が現れるまで、また、気の遠くなるほど長い時間を過ごしながら。




