第2話 - 血を飲んだなら働いてもらいます
ワヘトに到着してから、俺が寝泊まりしている古びた宿。
かび臭さが鼻につくその一室で、俺とルヘルは向かい合い、何とも言えない妙な空気を漂わせていた。
「本当に、どうしてもやるんですか?」
ぎゅっと目をつぶった俺は、震える声でそう言った。そんな俺を見て、ルヘルはぴたりと身を寄せると、頬を赤らめながら耳元で囁く。
「当たり前でしょ。この瞬間を、私がどれだけ待ってたと思ってるの……」
肩まで袖をまくり上げた左腕が、妙にひんやりする。生き残るために必死でひねり出した策とはいえ、あのイカれ吸血鬼に自分の血を差し出すとなると、やっぱり抵抗があるのも事実だった。
「いただきます」
ルヘルはまるで肉でも目の前にしたかのように俺の左腕を掴み、舌なめずりした。そして鋭い牙を俺の腕に突き立て、そのまま血を吸い始める。
尖った牙が皮膚を突き破る感触に、小さな呻き声が漏れた。不快な吸血音が続くなか、ルヘルは突然牙を抜き、顔を上げた。
「……あ、あぁ……」
「何だよ。終わり、終わったんですか?」
「あ、あぁ……こんな味、初めて……。天使族の血だってここまでじゃなかったのに。本当に、本当に……すごく気持ちよくて、目の前が真っ白になる。身体が熱い……あぁ、どうしよう」
ぞっとするような声で呟くルヘルから距離を取り、俺は上着を手にして逃げる準備を始めた。
『今のうちに逃げるしかねえ』
あのイカれ女、今完全にトんでる。チャンスは今しかない。
そろりそろりと扉へ近づき、取っ手に手をかけた――その瞬間。背後からルヘルの腕が俺の首に回り、とんでもない腕力でそのままベッドへ押し倒された。
「どこ行くつもり? もっと血をちょうだい。もう一度、あの味を感じたいの」
このペースで付き合ってたら、先に失血死する。
頭の中をいくつもの考えが駆け巡り、ふと、昔飼っていた犬のココを思い出した。おやつをやらないとクンクン鳴いて大騒ぎするあいつを宥めていた方法。今の状況には、あれがぴったりなんじゃないか。
「ダメです。今日はここまで」
きっぱり言い切ると、ルヘルは鼻で笑った。
「なんであなたが決めるの? 決めるのは私――」
「じゃあ、もっと吸えばいいだろ。人間なんてクソ弱いんだよ。たぶんあと少し吸われたら死ぬから。ぶっちゃけ、俺が死んで一番困るのはルヘルでしょうが」
「嘘をつくな。この程度の血を失ったくらいで死ぬ生き物など……」
「クソ、だったらもっと吸えって言ってんだろ? その代わり、俺が死んでも後悔すんなよ」
実際のところ、俺は定期的に献血したって平気なくらいには丈夫な体質だった。この程度吸われたところで命に関わるほど軟弱な人間ではない。ただ、ルヘルは人間についてほとんど何も知らない。そこにつけ込んだだけだ。
いわば荒療治ってやつである。
たぶんこいつは、もう上下関係は決まったと思っている。でも、それは気に食わない。血袋をやってまでみっともなく生きたいかと聞かれたら、そりゃもちろん生きたいけど。
だからって、主導権まで渡すつもりはない。
「わ、分かった。もう飲まなきゃいいんでしょ。そんなに怒らなくてもいいじゃない……」
俺が声を荒らげると、どこかしょんぼりしたルヘルが、俺の両腕を押さえていた手を離した。そして噛み跡から滲んでいる血を惜しそうに舐め取り、名残惜しそうに舌なめずりする。
すると間もなく、傷口が塞がり始めた。吸血鬼の体液に含まれている、わずかな治癒作用のおかげだろうか。
「さ、飲んだんだから今度は働いてもらいますよ」
上着を着直した俺は、当然のようにルヘルへ告げた。
「え? 何それ。働くって……?」
「言ったでしょう。俺が生き残るのに協力してくれって。人間は金を稼がないと餓死するんですよ?」
呆気に取られた顔で俺を見ていたルヘルだったが、反論できないのか頭を掻いた。
「もちろん、成果が良ければご褒美もありますよ」
そう言って腕まくりをしてみせると、ルヘルの目がぱっと丸くなった。
「じゃあ、血を飲ませてくれるなら……」
にやにやしながら立ち上がる彼女を見て、俺は薄く笑う。
単純な奴で助かった。
どうせ逃げられないのなら、利用した方が得に決まっている。
異種族の力が人間より遥かに優れているのは事実だ。だがルヘルは、生まれてからずっと王宮の中だけで暮らしてきた、いわば世間知らずの籠の鳥にすぎない。
飴と鞭を上手く使い分ければ、こいつを完璧に使いこなせる。
『力じゃちょっと劣るかもしれねえけど、人間はこの脳みそを使うように進化してきたんだからな』
最初はどうなることかと思ったが、これだけ力が強くて単純なルヘルが隣にいるなら、以前より生き残りやすくなるのは間違いない。
「さ、それじゃ仕事に行きましょうか」
* * *
ワヘトからそう遠くない、カルトハラ大砂漠の遺跡地帯。いつ建てられたのかさえ分からない、砂色の無機質な建物の残骸だけが、長い年月の流れを物語っているようだった。
その中央。
古びたハルバードを一本手にしたルヘルの瞳が、赤い光を放つ。
周囲の砂がゆっくりと沈み込み、ルヘルのいる方向へ向かって動き始めた。その跡だけでも、成人男性が三人横に寝転がっても余るほどの幅がある。
ザザザザッ――!
ルヘルのすぐそばまで迫ったそれが、ついに砂の中から飛び出し、その姿を現した。
長大な胴体。
数え切れないほど生えた脚。
そして何もかも噛み砕きそうな巨大な顎。
大砂漠に頻繁に出没するBランク魔物――デザートワームだった。
巨体のせいで、避ける場所などない。一見すれば絶体絶命の状況。それでも、ルヘルの黒紅色の瞳は微動だにしなかった。
「ふぅ……」
長く息を吐いたルヘルが、ハルバードを強く握って宙へ跳ぶ。だがその先では、すでにデザートワームが巨大な口を目いっぱい開き、ルヘルが飛び込んでくるのを待ち構えていた。
彼女はハルバードを頭上へ振り上げる。
ザシュッ――!
まさに一瞬だった。
一刀両断。
ハルバードとデザートワームの表皮が触れた瞬間、その鈍い刃はまるで研ぎ澄まされた名剣のように一直線を走り、巨大な胴体を綺麗に真っ二つに断ち切った。
緑色の血が、噴水のように空へ噴き上がる。それが雨のように降り注ぎ、勝者と敗者が決した。
顔に飛び散ったデザートワームの血を指先で拭い、舌に乗せたルヘルが顔をしかめる。
「うっ。まずい」
何事もなかったかのようにハルバードについた緑の血を振り払い、ルヘルは俺の方へ歩いてきた。
「はは……」
山のように積み上がったデザートワームの死骸を前に、乾いた笑いしか出てこない。間に合わせで用意した粗悪なハルバード一本で、あんな巨大な化け物をプリンみたいに切り刻んでいるのだ。そりゃ衝撃も受ける。
結論から言えば、ルヘルを引き入れたのは大成功だった。
一国の王女として生きてきたのなら、実戦経験なんてほとんどないと考えるのが普通だろう。それなのに、あの生まれ持った力と戦闘センス。
これからが楽しみになるレベルだ。
「簡単ね。このくらいでいいの?」
「信じてたぞ! さすが吸血鬼、性能ぶっ壊れてるって!」
「ちょっと! そんなにくっつかないで! 服にうっすら染みついた血の匂いで、頭が……」
この世界で最強種に数えられる五つの強大な種族。その一角が、吸血鬼だった。
人生って楽だな。献血一回で、こんな大当たりが転がり込んでくるなんて。俺を食おうと血眼になって追い回してくる連中に比べれば、少しくらい血を吸われるのは案外悪くないのかも――
「三つ数えますから、俺の腕から牙を離してください。いち、に、さん……」
いつの間にか俺の腕に噛みついていたルヘルへ、淡々と告げる。
「ちっ……」
「ここ、人目も多いですし。それに今日はもう飲んだでしょう」
「でも、私こんなに頑張ったのに……」
「それはそうですけど……」
「宿に戻ったらちょっとだけ飲むからぁ……。本当に一口だけ。ね? お願い、迅……」
迅。
榊迅。久しぶりに聞いた本名に、心臓がどきりと跳ねた。
そうか。ルヘルは知っているんだったな。家畜の名前なんて、いちいち覚えている奴がどれだけいるだろう。ルヘルみたいに、よほど独占欲の強い奴でもなければ。
本人にしてみれば何気なく口にしただけの一言なのだろう。それなのに、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられた。
それとは対照的に、俺の袖を掴んで子犬みたいにぶら下がる彼女を見て、思わず可愛いと思ってしまった。血は命に直結するものだ。そう簡単に渡していいものじゃないのに、どうにも心が揺らぎそうになる。
「分かりました……。でも、少しだけですよ」
「本当!? 本当にくれるの? えへへ、ありがとう、迅!」
「ほんっと勝手なんだから……」
ルヘルと出会ってから、もう半年になる。もちろん、逃亡して身を隠していた三、四か月を除けば、実際に彼女を見ていたのは数か月程度だ。
頑固で、自分が欲しいと思ったものはすぐに手に入れないと気が済まない自己中心的な性格。何もかも自分勝手なくせに、雰囲気だけは無駄に気品がある。
そんな彼女だからこそ、俺には分かった。
ルヘルがその気になれば、今すぐ俺を押さえつけて血を吸うことだってできる。それでも、そうしていない。
あの性格で、今こうして我慢しているのだ。あれだけ耐えて俺の言うことを聞いてくれているなら、俺だって少しくらいは譲ってもいいのかもしれない。
「じゃあ、こいつらを討伐した証だけ持って帰りましょう」
討伐の証となるデザートワームの牙を、俺はノコギリでせっせと切り落としていく。やっぱり分厚いせいか、マジで切れやしない。この暑さまで加わると、こんな雑用ですら重労働だった。
バキッ、バキッ。
ルヘルがデザートワームの牙を片手でへし折っていく。その光景を見て、俺はまた言葉を失った。いや、これ種族ごとの差、正直デカすぎない?
種族ガチャで当たり引いただけで人生イージーモードとか、クソ羨ましいんだけど。
そうして牙を回収し、冒険者ギルドへ戻った俺は、精算のためカウンターへ討伐の証を提出して待っていた。久々にまとまった金が入ると思うと、つい頬が緩む。
そんな時、誰かが俺のズボンの裾を引っ張った。
「ん? お前、何だ?」
そこに立っていたのは、この場所にはどうにも不釣り合いな幼い女の子だった。
尖った耳に、真っ白な肌。
見たところ、エルフだろうか。
珍しい。自分たちの領域からほとんど外へ出ず、一生を森の中で過ごすエルフ族の子供が、こんな砂漠の街のど真ん中にいるなんて。
「……さっき、見た……。怪物、倒してた……」
「デザートワームのこと? 見間違いじゃないか。倒したのは俺じゃなくて、あそこにいるお姉ちゃんだから。あっち行ってみな」
「やらせたの、お兄ちゃん……だよね? 大長老様が、人を自分の下につけるのも実力だって言ってた」
「はいはい。だいぶ勘違いしてるけど、そういうことにしとこうか。それで、俺に何の用?」
少女の頭を撫でながら尋ねると、エルフの子供は目に涙を浮かべて俺を見上げた。
「お母さん、すごく病気なの! トカゲの怪物の心臓……それがないと、お母さん助からないって……」
そりゃまた……気の毒な事情があるらしい。
だが、俺はそこまでお人よしじゃない。見るからに貧しそうな子供の依頼を、善意だけで引き受けられるほど懐事情に余裕もなかった。
何より、この子が言っている『トカゲの怪物』。十中八九、遺跡の奥に棲んでいるAランク魔獣――サラマンダーだ。その心臓には奇跡に近い治癒効果があるとか、ないとか。
とにかく、Aランクなんていうとんでもない化け物を相手にしなきゃならない。
『それをタダでやってやるほど、俺だって頭おかしくねえよ』
薄情だと思われても仕方ない。こっちだって自分のことで手いっぱいだ。他人を助けている余裕もなければ、そんな性格でもないし、力だってない。
当然、断るしか――
「私、持ってる! エルフ族の大事な宝物……。トカゲの心臓、取ってくれたら、それあげる!」
「お嬢ちゃん。ちょっと静かなところで、もう一回話そうか。その宝物について、詳しく聞きたいんだけど」
……ああ。
エルフ族の貴重な宝物?
それなら話は別だ。




