第1話 - 逃げなきゃ死ぬ。いや、食われる。
「クソが」
そう。今の俺の状況を一言で表すなら、まさに『クソ』だ。
下品に聞こえるかもしれんが、仕方ない。誰だってこんな状況に放り込まれたら、まず悪態の一つくらい吐くだろう。
「ついに……ついに! 数千年ものあいだ伝説として語り継がれてきた、絶滅種『人間』の血を味わえるのか!」
「今回は純血の人間、その肉体まで手に入ります。これなら、さらに多くの人間を召喚できるようになるでしょう」
「うむ。わずかとはいえ人の血を引く混血種を何千匹とすり潰してきた甲斐があったというものだ」
「この茶番はいつまで続けるのですか? 私は今すぐにでも、その血で喉を潤したいのですが。父上」
「クハハハ! もう少しくらい楽しませてやれ。祭壇が完成するまで、まだ時間がかかるのでな。どうせ大量の人間を召喚できるようになれば、真っ先に特別料理として食卓に並ぶことになる」
平凡だが、ロマンにあふれた異世界召喚だと思っていた。
勇者様、勇者様とちやほやされて、世界が危機に瀕しているだの、ダンジョンの魔物を討伐してほしいだの必死に頼み込まれたから、俺も真面目に戦ってやった。正直、あまりにも簡単だったから、異世界チートでも手に入れたのかと思っていたくらいだ。
『全部、芝居だったのかよ。クソが』
俺はただ、あいつらが食うための最高級の血袋として、大事に熟成されていただけだった。
クソ。どうりであいつら、人間にしては妙に牙が尖ってるし、肌もやたら白いと思ったんだよ。
それに、あの可愛いツラした王女。俺のことが好きだ好きだとベタベタまとわりついて、クンクン匂いを嗅いできた時点で気づくべきだった。
というわけで、俺は逃げる。
捕まったら間違いなく食われる。
別の意味じゃない。
文字通り、本当に食われるのだ。
* * *
荒れ狂う砂風が目を刺す、黄土色の世界。
照りつける灼熱は、旅人の肌に浮かぶ汗すら瞬く間に干上がらせる。どこまで進もうとも、怒れる神の罰を思わせる荒涼とした砂丘が、地平線の彼方まで果てしなく続いていた。
――カルトハラ大砂漠。
そんな不毛の地にさえ、命は根を張る。
カルトハラ唯一のオアシスを中心に発展した都市、ワヘト。
ワヘトはいつだって、遠路はるばるやって来た旅人たちで賑わっていた。
少しでも旅費を浮かせようと、灼熱を覚悟で大陸を横断する商人。そして金になる魔物がいると聞けば、どこへだって向かう冒険者たちだ。
「おや! もしや、かの偉大なるパンドレル山脈のリザード族の方ではありませんか?」
酒場の隅で酒をちびちび飲んでいた巨大なトカゲに、一人の男が何食わぬ顔で近づき、愛想よく声をかけた。
全身を覆う黒いぼろ布に、口元まで隠す布切れ。どう見ても怪しいその男を前に、リザードマンは警戒心もあらわに尋ねた。
「俺を知っているのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……。ああ、先に名乗るべきでしたね。どこで生まれて、どういう事情で旅をしているのかなんて、別にご興味もないでしょうから。手短に申しますと、ニート族の旅人、カルヘルと申します」
カルヘルはごく自然に向かいの席へ腰を下ろすと、立て板に水とばかりに話し続けた。
「ニート族? 聞いたことがないな。そんな種族がいたのか?」
「まあ、希少種ですからね。ご存じなくても無理はありません。由来から説明すると話が長くなりますし……そうですね、エルフのはとこの、そのまた親戚くらいに思っていただければ。そもそも大した種族でもありませんよ。修行だ何だと言って家に引きこもり、そのまま一生を終えるような融通の利かない連中ばかりでして」
「それはもういい。それで、俺に何の用だ?」
相変わらず警戒心を隠さないリザードマンに見つめられ、カルヘルは突然、目に涙を浮かべた。
「申し訳ありません。とんだ失礼を。あなたを見ていたら、つい昔のことを思い出してしまって……。あなたと同じリザード族の方に、死にかけていたところを救っていただいた時のことを……。いえ、何でもありません。初対面の方を捕まえて何を話しているんでしょうね。失礼しました。どうぞごゆっくり」
「待て。構わんから、その話を最後まで聞かせてくれ」
その言葉を聞いたリザードマンは、興味津々といった様子で立ち上がりかけた男を再び席に着かせた。
カルヘルは待ってましたとばかりに目元を拭い、話を続けた。
「……そんなわけで、パンドレル山脈で盗賊団に襲われ、今にも殺されそうになっていた私は、一人の勇敢なリザードの戦士に救われたのです。あの方のおかげで、私は今こうして生き、その武勇を語ることができている。それ以来でしょうか。リザード族の方を見かけるたび、どうにも胸が熱くなってしまうのです」
話を聞き終えたリザードマンは目を丸くすると、勢いよく立ち上がった。
「なんという巡り合わせだ……! 実は俺も、パンドレル山脈出身のリザード族なのだ!」
「な、なんですって! 本当に!? 本当にそうなのですか!」
カルヘルもテーブルを叩き、思わず口元を押さえた。だが、その顔に浮かぶ驚きまでは隠しきれていない。
「俺がなぜ嘘をつく! リザードの戦士は、決して天に恥じる真似などせん! 俺が故郷の集落を離れ、修行の旅に出ているあいだにそんなことがあったとはな。これは、その義侠心に厚い同胞に感謝せねばなるまい」
「こんなご縁があるなんて……。恩人と同郷の方を、こんな安酒場でもてなすわけにはいきません。ここの勘定は私が持ちます。ぜひ私の宿へ来てください。パヘルム地方を旅した際に手に入れた、とっておきの酒があるんです」
「おお、それはいい! ではそこで、もっとその同胞の話を聞かせてもらおう」
酒場の勘定を済ませたカルヘルは、リザードマンを連れて自分の宿へ向かった。
大勢の人々でごった返す繁華街を抜け、二人は徐々にワヘトの外れへと向かっていく。そしてひどく狭い路地へ差しかかったところで、カルヘルが不意に足を止めた。
「そういえば、すっかり忘れていました。あの恩人から言われていたんです。もし同胞や知人に会うことがあれば、これを渡してほしいと」
「ほう。何だ、それは?」
リザードマンは顎を撫でながら尋ねた。
「リザード族にとって、とても大切な品だそうです。他人に見られると危険ですので……もう少し近くへ」
カルヘルは背負っていた包みの中から、さらに小さな包みを一つ取り出した。
『リザード族にとって大切な品』
その言葉にますます興味をそそられたリザードマンは、数歩近づき、包みの中を覗き込む。
「一体、何が……」
包みの中へ差し入れられたカルヘルの手には、白くざらついた粉が握られていた。
リザードマンがそれに気づくより早く、カルヘルは掴んだ粉を勢いよくその顔へぶちまけた。
「ぐああっ!? ゴホッ! ゴホッ! な、何をした! 俺に何を……し……」
やがて巨体のリザードマンは、枝から落ちる枯れ葉のように力なく地面へ崩れ落ちた。
カルヘルは口元を覆っていた布を外した。
現れたのは、黒い瞳を持つ若い男の顔。流れ落ちる汗を拭いながら、倒れたリザードマンを見下ろし、嘲るように口を開いた。
「何って。お前らトカゲ野郎には、てきめんの麻酔薬だよ」
* * *
リザードマンが再び目を覚ました時、そこは鉄格子の中だった。
そしてその正面には、自分をじっと眺めているあの男がいる。ほんの一瞬だったが、それだけですべてを悟るには十分だった。
「貴様ぁぁぁ! よくも俺を騙したな!」
激しく暴れるリザードマンを見ながら、俺は口の端をにやりと吊り上げた。
「今さら気づいたんですか? 本当に頭の中までトカゲだったんですねぇ。恩人のご兄弟」
「き、貴様……!」
「いや、マジで脳みそ入ってんの? 強盗で指名手配されてるくせに、のんきに酒場で酒飲んで。初対面の奴にちょっとリザード族をヨイショされたくらいでホイホイついてくるとか、どんだけ頭弱かったら引っかかるんだよ」
アホトカゲの言葉を無視して、俺は首を横に振った。
呆れるしかなかった。
何しろこいつの手配書には、でかでかと『パンドレル山脈出身のリザード族』と書かれていたのだ。それなのに、どうやったらあそこまで綺麗に引っかかれるのか、まったく理解できない。
最初なんて、こいつが本当に騙されているのか、それともこっちを嵌めるために演技しているのか、俺の方が疑っていたくらいだ。
「しかも強盗に追い剥ぎまでやってる奴が何だっけ?」
俺はわざと舌足らずに、あの時の口調を真似した。
「『リザァドのせんしゅぁ~、決して天に恥じるようなことはせんのらぁ~』」
思い出した瞬間、また吹き出しそうになる。
「いやぁ、あれ聞いた時はマジで笑いこらえるの死ぬほど大変だったわ。このアホトカゲ。だからお前、捕まったんだよ」
「殺す! 貴様だけは必ず殺してやる! 殺して、骨まで噛み砕いて食ってやるぞ!」
「はいはい。いっぱい食べようねー。お兄さんは、お前を引き渡した賞金で美味いもんでも食わせてもらうから」
完全にブチ切れて暴れ回るトカゲと、それを取り押さえて殴りつける衛兵たちを眺めながら、俺は留置場を後にした。
そのまましばらく歩き、人通りのない場所まで来たところで、とうとう足から力が抜けてその場にへたり込む。
「うわ……あのクソ野郎、顔つきがガチで怖ぇな……」
このクソみたいな世界に落とされて、早くも半年。こっちでの暮らしにも多少は慣れてきたと思っていたが、本気で俺を食い殺そうとする奴を見ると、今でも背筋が凍る。
『クソ……俺、どうしてこんなことになってんだよ。どこで間違えた……』
……何が「どこで」だ。
最初からだよ。
勇者として丁重にもてなされ、頼れる仲間がいて、街を歩けば人々から尊敬の眼差しを向けられる。
なんてロマンにあふれた異世界召喚なんだ。そう思っていた。
それが全部、俺の血を狙う吸血鬼だらけの王国が仕組んだ、WWE顔負けのヤラセ茶番だと知るまでは。
俺のことが好きだと言って毎日のようにまとわりついてきた、あのイカれ女。そして国王。
あの二人のとんでもない企みを偶然耳にした瞬間、俺は悟った。
逃げなきゃ死ぬ。
いや、食われる。
だからその日の夜、文字通り後ろも振り返らず逃げ出した。当然、追手も来た。それでも天が味方してくれたのか、どうにか体一つで逃げ切ることができた。
あの国さえ抜ければ、正直何とかなると思っていたのだが。
クソ。一難去ってまた一難だった。
逃げた先で生き延びる方法を探しながら色々と調べた結果、俺はさらに最悪の事実を知ることになった。
この世界に存在する『人間』は、俺一人だけだった。
そもそも人間という種族は、千年以上も前に『何らかの理由』によって完全に絶滅しているらしい。
そしてこの世界では、人間とは――
『この世のあらゆる味をその身に宿した、至高の珍味』
それが常識として通っていた。
つまり、俺が人間だとバレた瞬間。
俺は歩くミシュラン三つ星の食べ放題になる。
間違いなく。
「まあ、ここ数か月は追手も鳴りを潜めてくれて助かったけどな……」
そうじゃなければ、とっくに野垂れ死んでいる。
チートもない。こっちの世界で役に立つ知識もない。そんな俺にできることといえば、弱い魔物を狩るか、今みたいに頭の弱い賞金首を騙して引き渡し、報奨金をせしめるくらいだった。
元の世界じゃ、家で何もせずゴロゴロしていた正真正銘のニートだった。
それでも、クソ。
俺だって生きたいんだよ。
だから必死で足掻いている。どうせいつか死ぬとしても、死ぬ瞬間までは必死に生きた方が格好がつくだろ。
このまま目立たず、ネズミみたいに身を潜めながら各地を渡り歩いていれば、なんだかんだで本来の寿命くらいまでは生きられるんじゃないか。
――なんて、そう思っていた時期が、俺にもありました。
耳元に、嫌になるほど聞き覚えのある声が響くまでは。
「見つけた。私の血」
聞き覚えのある声に、ゆっくりと首を向けた。
全身が凍りつき、何も言葉が出てこなかった。
長く伸びた淡い紅色の髪。死人を思わせるほど白い肌。気品という言葉がそのまま形になったような美しい顔立ちと、わずかに開いた唇の隙間から覗く鋭い牙。
そして何より、黒みを帯びた深紅のルビーのような瞳。
……なんで。
なんであのイカれた吸血鬼王国の王女が、ここにいるんだよ。
一つだけ確かなことがある。
逃げなきゃ死ぬ。
『クソッ! 何でもいい! とにかく撒かないと!』
地面を蹴り、出せる力のすべてを使って走った。
だが、俺の最後の抵抗など最初から児戯に等しかったのだろう。気づいた時には、彼女は風のように俺の前へ回り込んでいた。
「その程度で、私から逃げられるわけないでしょ?」
嘲るように笑った彼女は俺を突き飛ばして地面へ倒すと、そのまま馬乗りになって体を押さえ込んだ。
『やっぱ無理だったか……! どうする。どうすれば……』
細く尖った舌で俺の首筋を舐める彼女を見て、ぞっとした。
早く。何でもいい。生き残る方法を考えろ。このままじゃ血を吸い尽くされて、ミイラになって死ぬ。
「ま、待って! ちょっと待ってください! 話し合いましょうよ! こんな力ずくでやらなくても……!」
「ごめんね。私、ちょっと食い意地が張ってるの。どうしても諦められなかった。あなたを探すために王宮からも抜け出してきたんだから、もう我慢できない。血を……その血を、私にちょうだい」
「そう! その血! 一気に全部飲んだら、それで終わりですよ! もう手に入らないんです!」
クソ。こんな状況にならないように、今まであれだけ必死に逃げ回ってきたっていうのに。
だが、なってしまったものは仕方ない。
生きるためには、頭を回すしかない。
この血に目がないイカれ女から、生き延びる方法。
本当はこんな手、絶対に使いたくなかった。
でも、他に方法がない。
「俺が生き延びるのに協力してください! そうしてくれるなら、俺の血を全部あなた一人のものにしてあげます。この世界に一人しか残ってない人間ですよ? そんな貴重なもの、他の奴らと分けるなんてもったいないと思いません?」
……おい。
見ろよ、あのイカれ女。
目ぇキラッキラさせてやがる。
「全部、私の?」
「はい! 血なら全部あげます! だから大事に、ちょっとずつ飲んでください! じゃなきゃここで大声出しますからね! 他の連中が来たら、ほとんど飲めなくなりますよ!」
仕方なかった。
生き残るには、他に方法がなかったのだ。
だが、これで生存率は大幅に上がったも同然だ。あのイカれ吸血鬼の『食い意地』さえ上手く利用できれば、ただ生き残るだけじゃない。もしかしたら、そこそこいい暮らしだってできるかもしれない。
絶対に弱気になるな。
多少、血を吸われるくらいならいい。
主導権は、まだこっちにある。




