第二章 断絶の記憶と、上弦の月
悠月が小学五年生になった頃、成長の早かった彼女は本格的な反抗期を迎えていた。
その日のコンクールで、悠月は入賞を果たしたものの、優勝を逃した。控え室に戻るなり、唯は静かな、けれど圧迫感のあるトーンで悠月に語りかけた。
「悠月、後半の集中力が切れていたわね。あのミスがなければ優勝できたはずよ。明日の朝から、ステップの修正練習をするわよ」
その瞬間、悠月の胸の中で、長年溜め込まれていた何かが音を立てて弾け飛んだ。
「もう嫌だ!!!!」
静かな控え室に、悠月の叫び声が響き渡った。
「私、もうダンスなんて大嫌い! お父さんもお母さんも大嫌い! 私のことなんて全然見てないじゃん! 見てるのはダンスが上手な『悠月』だけでしょ!? もう二度と踊らない!!」
悠月は衣装のポワントシューズを床に叩きつけると、泣きながら控え室を飛び出していった。その日を境に、悠月は本当にダンスを辞めた。
唯と淳は、言葉を失うほど深く傷つき、悲しそうだった。けれど、二人は悠月を強く責めることができなかった。自分たちが指導者としての情熱と我が子への期待を混同し、あまりにも厳しく追い詰め、あんなに大好きだったダンスを嫌いにさせてしまったのだと、激しい自責の念に苛まれていたからだ。
「僕たちが……間違っていたんだ、唯。悠月から、一番大切な笑顔を奪ってしまった……」
「ごめんなさい、悠月……ごめんなさい……」
両親の悲しそうな顔を見るたび、悠月の胸も痛んだ。本当は「あんな風に言ってごめんなさい」と謝りたい、昔のように笑い合いたいのに、一度膨らんだプライドと、「どうせ私なんてダンス以外の価値がない」という歪んだ思い込みが邪魔をして、素直になれない。掛け違えたボタンを直せないまま、冷たい沈黙と気まずさだけが家族の間に澱のように溜まっていった。
中学に入学すると、悠月の知名度は裏目になった。「あの天才ダンス少女の辻悠月」という噂はすぐに広まり、良くも悪くも様々な人間が悠月の周りに集まってきた。
家にも居場所がなく、学校でも浮いた存在となっていた悠月は、次第に心の穴を埋めるように年上の派手な先輩たちとつるむようになっていく。夜遅くまで街を徘徊し、補導ギリギリの遊びに興じ、親の呼びかけを無視して部屋に鍵をかける日々。非行へと走ることで、心の奥底にある猛烈な空虚感と、「本当は両親に愛されたかったのに傷つけてしまった」という耐え難い罪悪感から目を背けようとしていたのだった。
――けれど、そんな自暴自棄な毎日は、彼女の心を救うどころか、より深くすり減らすだけだった。深夜の暗い自室で一人になると、楽しかった頃の温もりや、冷たくしてしまった両親の傷ついた顔がフラッシュバックし、布団の中で何度も涙を濡らした。
(私、一体何をやっているんだろう……。こんなことしても、何の解決にもならないのに。お父さんとお母さんは、今の私を見たらきっと泣くよね……)
素直になれない自分への嫌悪感と、取り返しのつかない後悔が、毎夜のように悠月の心を内側から食い破っていた。
そして――時は流れ、中学三年生の春を迎える。世間を進路希望調査の話題が賑わす中、同級生たちが将来の夢や進学先の高校について楽しそうに語り合う傍らで、悠月だけは取り残されたような孤独感の中にいた。
(進路……どうしよう。私、何がしたいんだろう……)
両親に激しく反抗し続けてきた手前、いまさら気まずくて「進路のことなんだけど」と自分から相談するなんて、プライドが許さなかった。
けれど、夜、自分の部屋で一人になると、強がりのメッキは完全に剥がれ落ちた。部屋の隅に追いやられた小さな鏡。その横には、小学生の頃に両親と笑顔で写った写真が、埃をかぶったまま飾られていた。
(ダンスを辞めてから……私、まともにお母さんとも、お父さんとも話してないや。酷いことばかり言って、無視してさ……。でも、本当は……本当はもう一度、お父さんとお母さんと普通に喋りたい。昔みたいに、優しく頭を撫でてほしい……!)
胸の奥からこみ上げてくる、抑えきれない温かい涙。悠月は決意した。ずっと逃げ続けたけれど、明日の朝、学校から帰ってきたら、恥を忍んで両親に進路の相談をしてみよう。素直に「今までごめんなさい、私、またお父さんたちの背中を見て生きたい」と言ってみよう、と。
翌日。意を決して登校した悠月だったが、二限目の授業中、事態は急変する。教室の扉がガラリと開き、担任の大澤教諭が深刻な表情で入ってきた。
「全員、静かに。急だが二限目は自習とする。……辻悠月さん、ちょっと面談室に来なさい」
教室中の視線が悠月に集まる。
ここ最近は中学三年生になり、非行仲間だった先輩たちとも距離を置き、大人しくしていたはずだった。呼び出される心当たりがなく、悠月は首を傾げながら面談室へと向かった。重い木製の扉を開けると、そこには担任だけでなく、校長先生が沈痛な面持ちで既に座っていた。
「辻さん、そこに座りなさい。……落ち着いて聞いてほしい」
校長の星は震えていた。
「先ほど警察から連絡があった。お母さんとお父さんが……乗っていたお車の事故で、羽中病院へ緊急搬送された」
カチャ、と世界から音が消えた。
「え…………?」
「トラックとの衝突事故だそうだ。すぐに病院へ向かいなさい。担任の先生が付き添うから」
そこからの記憶は、斑模様のように途切れ途切れだった。どうやって学校を出たのか、どうやってタクシーに乗ったのかも分からない。気がつくと、悠月は羽中病院のICU(集中治療室)前の、無機質廊下に立っていた。
そこには既に、淳の父である省三をはじめとする親族が集まっていた。省三の顔は蒼白で、悠月の姿を見るなり、震える手でその肩を強く抱きしめた。
「悠月ちゃん……気を強く持ってくれ。これからしばらくは、うちに来なさい……」
ガラリとドアが開き、重い足取りで主治医が出てきた。
「ご家族の方ですね……。お二人とも、お乗りの乗用車が居眠り運転の大型トラックと正面衝突し、強い衝撃を受けられました。全身の挫傷および頭部の重度外傷――懸命に救命処置を行いましたが、現在も二人とも意識不明の重体です。脳波の反応が極めて弱く……いつ容体が急変してもおかしくありません」
主治医の言葉が、冷たい毒のように悠月の全身に染み渡っていく。
(嘘……嘘でしょ? お父さん……お母さん…………?)
ガラス越しに見えるICUのベッド。そこには、無数のチューブやモニターに繋がれ、自力で息をすることすらできずに横たわる両親の姿があった。かつてダンスを通じて悠月を温かく包み込んでくれたあの大きな手も、優しかった笑顔も、機械の無機質な電子音の中に埋もれていた。
理由も分からぬまま、悠月は省三の家に身を寄せることとなった。申し訳なさそうにする親族たち、気を遣う言葉。そのすべてが悠月の胸を突き刺す。
(私が……私が悪いんだ。私が素直にならなかったから。酷いことばかり言って、心配ばかりさせて……! やっと、今日、進路の話をしようと思ってたのに! ごめんねって、言おうと思ってたのに!!)
溢れ出す罪悪感と絶望に、脳が狂いそうだった。悠月は深夜、誰もいない部屋で、足の裏の皮が剥がれるのも構わず、無音の中でダンスを踊り続けた。
床に擦れ、鮮血が滲み、痛みが全身を駆け巡る。けれど、その激痛だけが、両親を追い詰めた己の愚かさを罰してくれる唯一の救いだった。
毎日、学校が終わると自転車を一時間必死に漕いで羽中病院へ通い詰めた。ICUの冷たいガラスに額を押し当て、微動だにしない唯と淳を見つめ続けた。
(お願い……お父さん、お母さん。目を覚まして。私、もう反抗なんてしないから。ダンスもちゃんと頑張るから。私を一人にしないで、置いて行かないでよ……!!)
けれど、心拍モニターの無情な音が響くだけで、二人が目を開けることはなかった。
事故から数週間が過ぎた、ある冷たい夜。夜空には、鋭利な刃物のように世界を切切り裂く「上弦の月」が青白く冴え渡っていた。
心身ともに限界を迎えた悠月は、吸い寄せられるように羽中病院の屋上へと足を進めた。立入禁止のフェンスをよじ登り、冷たい夜風が吹き抜ける屋上のフチに立つ。
下を見下ろすと、吸い込まれそうな暗闇が広がっていた。
(両親が昔「月様にお願いして時空を超えた」と言っていたけれど、そんなこと本当にできるのだろうか……。でも、もう耐えられない)
(お父さん、お母さん……ごめんね。私、一人じゃ生きていけないよ。そっちへ行くね…………)
悠月はタイムリープの方法など何も知らず、かつての淳たちのような「百%の利他心」すら抱く余裕もなく、ただただ極限の絶望と自己否定のなかで身を投げ出した。その結果、時空を完全に書き換える本来のタイムリープではなく、精神のみが過去の刻へと引きずり込まれる「不完全な精神的タイムリープ(退化した跳躍)」として発動したのだった。
天に浮かぶ半月(上弦の月)の不思議な引力が、意識を失った悠月の精神を過去の時空へと叩き落としていく――
第二章をお読みいただき、ありがとうございました。
すれ違ってしまった親子の絆と、上弦の月の下で悠月が選んだ決断――切ない展開となりましたが、物語はここからさらに深く動いていきます。
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