第9話 ほどけないなら、結びます
「キルスの解呪師さまですね。伺っています」
宿場の裏手は、泥と藁の匂いがした。
黒塗りの馬車が一台。その脇に、灰色の外套の男が立っている。
僕は、もう一度だけ確かめた。
糸がない。
首にも、肩にも、手首にも、足首にも。上から垂れてもいない。加護も、刻印も、契約も、何ひとつ結ばれていない。
「……あなたは」
「回収人です」
男は頭巾を上げなかった。
「名は、本院に預けてあります。要りませんので」
「預ける」
「ええ。空にしておくと、仕事がしやすい」
さらりと言った。天気の話をするみたいに。
(空……)
無籍者は、三日のうちに教会に引き渡される。引き渡された先が、あの窓のない部屋だ。
この人は、そこから出てきた側だ。
器にならなかった者を、教会は捨てない。使う。
「ミナさん。下がってください」
「いやです」
「今のは、そういう場面です」
「……三歩だけ」
ミナが三歩下がった。
回収人の頭巾が、そちらを向いた。
「その娘。キルスで刻印が砕けた者のひとりですね」
背すじが、冷えた。
「読めるんですか」
「読めますとも。それが仕事ですから」
彼は指を一本立てた。
「モルス家の通行証。三日前に発行。……ずいぶん急いで結びましたね。結び目が甘い」
「甘いですか」
「ええ。書き換えておきましょう」
回収人が、手首を軽く振った。
僕は、初めて彼から糸が出るのを見た。
外套の袖口から、細い黒い糸が滑り出して、まっすぐミナの首へ向かう。
ぱち。
半分のところで、砂になった。
「おや」
「すみません。うちの人なので」
回収人は、少し笑ったようだった。
「聞いていた通りだ。……では、あなたのほうから片づけましょう」
袖口から、糸が三本。
首。両手首。
ぱち、ぱち、ぱち。
三本とも砂になって散る。
「四本」
ぱち、ぱち。
「六本」
ぱち。
速い。
いや、速いのは僕のほうだ。一本ほどくのに、指を一回弾けばいい。
問題は、向こうが結ぶ速さだった。
一本ほどく間に、二本結ばれる。
八本目で、右膝が地面についた。
「ルカさん!」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
膝の糸を解く。その間に、肘と肩に通される。肩を解く。足首に来る。
痛くはない。血も出ない。ただ、僕の身体が、少しずつ僕のものでなくなっていく。
ミナの刻印が四本だったのを思い出した。
四本で、人ひとりを二年間縛れる。今、僕には十一本ある。
「無駄です」
回収人が、初めて一歩近づいた。
「あなたは、解くのがお上手だ。本院の記録でも、そう読みました」
「……記録」
「ですが、解くには端が要る。糸には必ず、ほどける端がある。そうでしょう?」
僕は、彼の身体を見た。
さっきまで何もなかった場所に、今は糸が見えている。
袖口から出て、僕の手首まで伸びて――そこで終わり。
根元が、ない。
彼の内側へ潜り込んで、外に出てこない。
(閉じてる)
首から出て、肩へ。肩から腰へ。腰から足首へ。そのまま背中を回って、また首へ。
輪だ。
一本の糸が、身体の内側でぐるりと閉じている。
端がない。
つまり――
「ほどけないでしょう」
回収人が言った。
「わたしには、誰も何も貸していない。貸されていないものは、返せない」
指が、動かなかった。
弾く場所が、ない。
生まれて初めてだった。糸が視えているのに、手が出ない。
「ご自分でも、お気づきでしょう」
回収人の糸が、また一本、僕の腰に通った。
「あなたの力は、吊られている者にしか効かない。吊られていない者には、ただの手品です」
ぐ、と膝が地面に押しつけられる。
「跪け、とは申しません。わたしは命令を持っていませんので」
彼は屈み込んで、僕の顔を覗き込んだ。
頭巾の奥に、目があった。ごく普通の、疲れた中年の男の目だった。
「ただ、連れて帰ります」
最後の一本が、僕の首の後ろへ伸びてくる。
その糸に、文字が流れていた。
びっしりと、端から端まで、同じ一文だけ。
《この者の位階を、無価値と定める》
――ああ。
キルスの夕暮れで、同じ文を読んだ。
女神像から降りてきて、僕の首の手前で止まった一本。
あのとき僕は、それを親指と人差し指でつまんだ。
だから。
僕は、解くのをやめた。
右手を上げて、首の手前に来たその糸を、つまんだ。
「……?」
回収人の動きが、初めて止まった。
「ほどけないなら」
僕は、つまんだ糸を引き寄せた。
「結びます」
伸びてきた糸の先端を、回収人の首へ――彼の内側で閉じている、あの輪へ。
ぱち、ではない。
つ、と。
糸を通す、それだけの音がした。
「……何を」
「端を、作りました」
輪は、強い。
端がないから、ほどけない。
けれど輪に、外から一本結べば。
そこが、端になる。
「あなたの糸に、あなたの糸を結びました。どこにも貸されていないものを、あなた自身に貸したんです」
回収人が、自分の首に手をやった。
「借りたものは」
僕は指を上げた。
「返せます」
ぱち。
音は、それだけだった。
回収人の身体から、糸がほどけた。
首から肩へ、腰へ、足首へ。ぐるりと巻かれていた一本が、端から順に砂になって、外套の中を滑り落ちていく。
同時に、僕の手足の十一本も、繋がりを失って崩れた。
立ち上がれた。埃を払った。
「あ、」
回収人が、膝をついた。
「あ、ぁ」
ほどけた輪の中から、こぼれてきたものがあった。
砂と一緒に、文字が流れ出してくる。
触れてもいないのに、読めた。輪の内側に、びっしり書き込まれていたものだ。
――帳簿だった。
《回収 四百十一名 内 器適 百七名》
《回収人 第一号 元 東方 ラハ支所 無籍 名 削除済》
そして、いちばん新しい行に。
《キルス支所 解呪師一名 器適 最上 至急 送致》
指が、冷えた。
僕の名前は書かれていなかった。名前の欄そのものが、ない。
代わりに、番号が振ってあった。
「あなた……」
回収人が、震える手で頭巾を落とした。
白髪の混じった、ただの男の顔だった。
「わたしは、……なんという名前でしたか」
「すみません」
僕は、本当にそう思った。
「そこまでは、書いてありませんでした」
男は自分の両手を見て、それから宿場の灯りを見て、声を上げずに泣きはじめた。
殺してはいない。たぶん、この人は死なない。
ただ、二度と回収人ではいられないだけで。
僕は馬車へ歩いた。
扉には錠も閂もない。糸が一本、掛け金に巻いてあるだけだ。
ぱち。
開けた。
――空だった。
床に藁が敷いてあるだけ。人の重みでへこんだ跡が、三つ。
「ルカさん、誰も」
「積み替えられたあとです」
僕は藁の上に膝をついた。
隅に、小さな紙片が落ちていた。荷札だ。
そこに、あの紋章が刷ってあった。
閉じた、二つの目。
その下に、走り書き。
《三名 途中にて別便へ積替 本院直送》
ここで、別の便に移されたのだ。
キルスの三人だけは、別扱いで急がされていた。
「……急いでたんですね」
「え?」
「向こうは、のんびり走ってたわけじゃありません。この馬車は、抜け殻です」
背後で、男の泣き声が途切れた。
「解呪師さま」
振り返った。
彼はまだ膝をついたまま、こちらを見上げていた。
「最後に、ひとつだけ、覚えていることがあります」
「はい」
「わたしのような者は、第七号まであります」
「……第七号まで」
「わたしが、いちばん軽い一号です」
灰色の外套が、風に鳴った。
「本院に、あなたの席があると聞きました。もう、空けてあるそうです」
僕は、少しのあいだ黙った。
それから、背負い袋を担ぎ直した。
「ミナさん」
「はい」
ミナが三歩ぶん戻ってきて、僕の隣に立った。
首の糸は、無事だった。一本だけ、ちゃんとそこにある。
「席、用意してもらったみたいです」
「聞こえてました」
「どうしましょうか」
彼女は、今日の昼に結んだばかりの首に手を当てて、言った。
「いりませんね」
「はい」
僕は西の街道を見た。
轍は、もうない。ここから先は、追う相手の足跡すら残っていない。
「いりませんって、返してきます」




