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第8話 嘘のつき方を、覚えてください

「いやです。わたしも行きます」


坂の下で、ミナはもう一度、同じことを言った。


二度言われると、断る言葉が出てこなくなる。


「……危ないですよ」


「ここも危ないです」


彼女は自分の首に手を当てた。何もない首すじだった。刻印も、糸も、何も。


「今日で二日目でした。馬車は、三人しか乗せませんでした」


「……はい」


「次の便は、四人かもしれません」


僕は黙った。


「わたし、あの馬車に乗らなかった理由が、ひとつしかないんです」


ミナはパンの包みを抱え直した。


「あなたを待っていたからです。待つ相手がいなくなったら、わたし、明日からただの無籍者です」


反論が、ひとつも思い浮かばなかった。


「荷物は、半分持ってください」


「はい」


「重いですよ」


「はい」


彼女は笑った。三日で、ずいぶん上手になっていた。


領主館の門は、開いたままだった。


玄関の広間にも、大理石の階段にも、もう黒い壁はない。


三階の広間で、アデルが椅子の脇に膝をついていた。父親の枯れ枝みたいな手を、両手で包んでいる。


「ルカさま」


「アデルさん。行きます」


「はい」


驚かなかった。たぶん、ずっと前から分かっていたんだろう。


「一緒に来ますか」


聞いてから、僕は彼女の首を見た。


首。両手首。腰。足首。


露台から見下ろされたあの朝のままの糸が、まだそこにあった。全部が、この椅子へ繋がっている。


「解いていいですか」


アデルは、少しだけ笑った。


「いいえ」


はっきりした「いいえ」だった。


「解いたら、わたしも、この街のどこにもいない人になります」


「……はい」


「父と、母と、奥の部屋の十二人を、誰が見るんですか」


僕は、指を下ろした。


「ベルナール様」


椅子の上の老人が、ゆっくり目を開けた。


「天井の糸は、まだ繋がっています。西から、問いが来ます」


「とい」


「今まではあなたの口が、勝手に答えていました。でも、その糸はもうありません」


僕は、声を落とした。


「次からは、あなた自身が答えることになります」


ベルナールの喉が、ひゅう、と鳴った。


「……なんと、こたえれば」


「異常なし、と」


「それは」


枯れた指が、震えた。


「それは、うそだ」


「はい。嘘です」


僕は頭を下げた。


「すみません。いちばん最初に覚えてほしいのが、これで」


長い沈黙があった。


それから、風が枯れ木を抜けるような音がした。笑っていた。この人が笑うのを、僕は初めて見た。


「あの椅子に座ってから、いちども、じぶんの言葉で、こたえたことがない」


「はい」


「さいしょの答えが、うそか」


「贅沢な使い方だと思います」


「わたしも手伝います」


アデルが顔を上げた。


「嘘なら、得意です。八年、母のことを黙っていましたから」


門まで戻ると、痩せた男が待っていた。


絹の上着。指に三つの指輪。書類の束を、胸に抱いている。


「ヴァレン様」


「待っていたわけではない。たまたま通りかかっただけだ」


「門の前に半刻立っておられましたが」


「……うるさい」


彼は一枚の羊皮紙を突き出した。


封蝋。鷲の紋。


「モルス家の通行証だ。西の関所まで効く」


「印璽は、僕が砕きましたけど」


「砕いたのは封蝋の印だ。家名は残っている。貴様がそう言ったのだろう」


「使い方、覚えられましたか」


ヴァレンの眉が、ぴくりと動いた。


「練習中だ」


「はい」


「衛兵どもに、頭を下げて頼んでいる。屈辱だ。昼から三回、断られた」


「四回目は通るかもしれません」


「通った。さっき、一度だけな」


彼は、それだけ言って背を向けた。


西の街道を、二日歩いた。


轍が残っていた。荷馬車のものより幅が狭くて、深い。窓のない箱は、それだけ重いんだろう。


三日目の昼に、小さな村へ入った。


麦の刈り入れの最中で、道に藁が散っていた。


「ルカさん。この村、静かですね」


「……そうですね」


僕は、静かな理由のほうを見ていた。


糸が、細い。


キルスでは、パン屋の首から出た糸が竈にまで枝分かれしていた。ここでは、竈に何も結ばれていない。


パン屋の親父にあたる男が、僕たちに黒パンを売ってくれた。


ミナが一口かじって、少し困った顔をした。


「……硬いです」


「僕のより?」


「ルカさんのより」


「それは相当ですね」


冗談のつもりだった。冗談にならなかった。


この村には《窯火の加護》がない。ただそれだけの理由で、ここのパンは一生焼き上がらない。


(キルスは、厚かったんだ)


ずっと、自分は底にいると思っていた。


等級外。無価値。誰にも配られない側。


違った。あの街は、よく配られている街だった。九千四百十二人の器が支えているのは、キルスだけじゃない。全部だ。そして配られる量は、街ごとに、露骨に違う。


村の井戸端に、新しい立て札が刺さっていた。


墨の匂いがまだ残っている。


『無籍の者を見かけし時は、速やかに教会へ届け出よ。届け出た者には銀貨三枚』


ミナが、立て札を読んで、それから自分の首に手をやった。


「……わたし、何も持ってません」


「はい」


「刻印も、契約も、名前を証明するものも」


「はい」


「この村で一晩泊めてくださいって言ったら、その人は銀貨三枚もらえるんですね」


僕は羊皮紙を取り出した。


封蝋の鷲。そこから、細い糸が一本、垂れている。


「ミナさん」


「はい」


「これを、君の首に結びます」


ミナの目が、少しだけ大きくなった。


「結ぶ……」


「モルス家の使いだという札です。本物です。ヴァレン様が自分の口で書いたので」


「それ、つまり」


彼女は言葉を探して、まっすぐ言った。


「わたし、また誰かのものになるんですね」


「はい」


隠さなかった。


「君を縛るものです。安いものじゃない。関所も、宿も、パン屋も、この糸を読んで君を通します」


「……」


「言いましたよね。二度目は、自分から結ばれにいくことになるって」


ミナは、長いこと黙っていた。


麦の穂が、風で一斉に傾いた。


「覚えてました」


「聞くのは得意なので?」


「はい」


彼女は笑って、それから髪を耳にかけて、首すじをこちらへ差し出した。


「いつでも、解いてくれますか」


「解きます。ぱち、の一回です」


「じゃあ、お願いします」


「結んでいいですか」


「はい」


その「はい」も、たぶん彼女が自分で選んだものだった。


僕は糸の端をつまんで、彼女の首の後ろへ回した。


ぱち、ではない。


つ、と。


糸を通す、それだけの音がした。


「……どうですか」


「なにも」


ミナは首に触れた。


「重くありません。二年間のとは、全然ちがいます」


「一本だけなので」


「一本だけ、って」


彼女は、少し考えてから言った。


「一本だけなら、持てますね」


日が傾いてから、また街道に出た。


轍は、まだ西へ続いている。


丘をひとつ越えたところで、風の向きが変わった。


眼下に、宿場町の灯りが散らばっていた。街道が交わる場所らしく、荷馬車が何台も停まっている。


その、いちばん端。


宿の裏手に、黒塗りの箱が一台。


窓がない。


御者台の横に、紋章がひとつ。


閉じた、二つの目。


「ルカさん、あれ」


「はい」


追いついた。三日で追いついてしまった。向こうが急いでいなかったからだ。


僕は坂を下りかけて、足を止めた。


馬車の脇に、人が立っていた。


灰色の外套。頭巾を目深に被っている。荷を数えるような手つきで、指を折っていた。


僕は、その人の首を見た。


見て、もう一度、見た。


糸が、一本もなかった。


首にも、肩にも、手首にも。上から垂れてもいない。誰にも繋がっていない。


――ほどくものが、何ひとつ、ない。


頭巾が、ゆっくりとこちらを向いた。


「……ああ」


男の声が、風に乗って届いた。


驚きも、警戒も、まるでない声だった。


「キルスの解呪師さまですね。伺っています」


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