第7話 母の名を、返してください
アデルは、扉の枠を掴んだまま動かなかった。
「アデルさん。こっちへ」
「……」
首を横に振る。
「怖いですか」
うなずいた。素直な人だ。
「解いたら、何を言ってしまうか分からないから?」
もう一度、深くうなずいた。
僕は広間を横切って、彼女の前に立った。
背が、思ったより低い。露台から見上げた時は、もっと遠い人だった。
「ミナさんて、知ってますか」
「……酒場の」
「昨日、首の刻印を解きました。パンが買えなくなると、先に全部言って」
「……」
「それでも解いてくれと、自分で言ったんです。生まれて初めて選んだ『はい』だって」
アデルの手から、力が抜けていった。
「僕は、勝手に解きません。だから、聞きます」
僕は指を上げた。
「解いていいですか」
長い沈黙があった。
椅子の上で、ベルナールが荒い息をしていた。
アデルは、一度だけ父親のほうを見て、それから、僕の目を見た。
「――はい」
彼女の唇に張られた糸を、近くで読む。
一本きり。ずいぶん細い。
けれど文面を読んで、僕は舌打ちをしそうになった。
《母について、語るなかれ》
たった、それだけ。
それだけのために、この人は八年、喋り方を歪められていた。
結び目の作りが、ベルナールの糸ともヴァレンの印璽とも違った。
もっと古くて、もっと丁寧で――もっと、慣れている。
「これを結んだのは、領主家じゃありません。もっと上手い人だ」
ぱち。
糸が、ほどけた。
アデルは、口を押さえなかった。
大きく息を吸って、吐いて、吸って。目を見開いたまま、自分の唇に触れた。
「……あ」
「どうぞ」
「母の、名前は」
彼女は、そこで一度、言葉を落とした。
拾い上げるのに、たっぷり十秒かかった。
「母の名前は、リゼ、といいます」
たった一つの名前だった。
けれど言い終えた瞬間、アデルの膝が抜けて、僕は慌てて肩を支えた。
「八年」
彼女は僕の腕の中で、笑いながら泣いていた。
「八年、呼べなかった。頭の中では、毎日、呼んでいたのに」
「……」
「わたし、忘れていなかった。忘れさせられていただけだった」
椅子の上で、ベルナールが目を閉じた。
涙が、乾いた頰の皺を伝って落ちていった。
アデルが、僕の袖を掴んだ。顔つきが、変わっていた。
「奥の扉を、開けてください」
広間のいちばん奥に、もう一枚、扉があった。
黒い糸が、そこへ吸い込まれている。
いや――違う。
そこから、出てきている。
蛇口には、必ずその先がある。
僕は把手に手をかけた。
「アデルさん。見ないほうがいいかもしれません」
「見ます」
「……そうですか」
開けた。
そこは、部屋というより、井戸の底みたいだった。
天井が高く、窓がない。
円形の床の上に、人が座っていた。
十二人。男も女も、老人も、若い者も。
全員が壁を背にして、円を描くように並び、目を閉じている。
そして、全員の首から、糸が出ていた。
それが床の中心で撚り合わされ、一本の太い縄になって、ベルナールの椅子へ伸びている。
縄だ。
人を素材にして、縄が編んである。
「母です」
アデルが言った。
指をさした先に、痩せた女が座っていた。
金の髪。アデルと同じ、上を向いた鼻。
「八年前に病で亡くなったと聞かされました。葬儀も、棺もありました」
「……」
「中身は、見せてもらえませんでした」
僕は、その女の首を見た。
糸の根元。皮膚に彫られた、古い刻印。
閉じた、二つの目。ベルナールの首と、同じ。
十二人。全員、そうだった。
「ルカさま。この人たちは」
「籍が、ない人たちです」
自分の声が低くなるのが分かった。
「身分の刻印がない。加護もない。名前を証明するものが、何ひとつ結ばれていない」
「どうして、そんな人が」
「教会が、集めたからです」
三日のうちに教会に引き渡される。ミナに言った、あの決まり。
引き渡された先が、これだ。
「糸って、どこにでも結べるわけじゃないんです」
僕は円の中心を指した。
「すでに何か結ばれてる人間には、別の太い糸を通せない。先客がいるので」
「……つまり」
「空の人間が要るんですよ。何も結ばれていない、まっさらな人が」
言いながら、吐き気がした。
「街じゅうに加護を配るには、その量を通せる器が要る。それが、この十二人です」
無籍者は、罰されていたんじゃない。
集められていた。
最初から、そのために。
「……お父様も」
「二十の歳から、とおっしゃってました」
「たぶん、いちばん出来のいい器を、領主の椅子に座らせたんです。そのほうが、誰も疑わないので」
支配者じゃない。領主という名前をかぶせられた、十三人目だ。
アデルが、母親の前に膝をついた。
手を伸ばして、頰に触れる。
女の瞼は、動かなかった。
「ルカさま。解いてください」
「……」
「母を、返してください」
僕は、その糸に指をかけて、止めた。
一本でも解けば、縄が細くなる。細くなれば、街への配給が落ちる。
パン屋の窯。詰所の槍。産婆の手。井戸の水を清くしている加護。
今朝ほどいた印璽は、要らない糸だった。
これは、違う。
「解けます」
僕は正直に言った。
「でも今ここで解いたら、今夜この街で生まれる赤ん坊が、何人か死にます」
アデルの手が、止まった。
「……そう、ですか」
「はい」
「では、どうすれば」
「元を断ちます」
僕は天井を見上げた。
十二本の縄とは別に、もう一本。
ずっと細くて、ずっと古い糸が、天井を貫いて伸びている。
外へ。丘のほうへ。大聖堂の、女神像へ。
「この十二人も、借りているだけです。もっと上から」
僕は指を伸ばして、その糸に触れた。
触れた瞬間、文字が流れ込んできた。
契約でも、命令でもない。
――帳簿だった。
《キルス支所 器十二 無籍三名 次便にて本院へ送致》
《西方本院 管区記録 器総数 九千四百十二 不足》
指を、離した。
離してから、しばらく息ができなかった。
「ルカさま?」
「……九千」
「え」
「九千四百十二人です」
アデルが、僕を見上げた。
「この街だけじゃない。この管区じゅうに、同じ部屋があります」
窓のない部屋で、九千人が、目を閉じて座っている。
誰にも名前を呼ばれないまま、街を照らす縄にされている。
そして、その全部が、まだ「足りていない」と書かれていた。
足りない、ということは。
――この仕組みは、今も増やそうとしている。
僕は立ち上がった。
「アデルさん。お母さんの前で、名前を呼んであげてください。何度でも」
「……はい」
「聞こえてるかは、分かりません。でも聞こえてないとも、僕は言えない」
階段を駆け下りた。
糸の壁は、もうなかった。上の声が変わったからだろう。
館の正門を抜けると、坂の下にミナが立っていた。
パンの包みを抱えたまま、上を見ていた。
「ルカさん!」
「ミナさん。今日は、何日目ですか」
「……二日目です」
彼女は、口の端を必死に上げようとしていた。
「さっき、来ました」
坂の下、西の街道に、馬車が一台。
黒塗りの、窓のない箱。
御者台の横に、紋章が一つ描かれている。
閉じた、二つの目。
「三人、乗せていきました」
ミナが言った。
「わたしは、あなたを待っていたので、乗りませんでした」
《無籍三名 次便にて本院へ送致》
帳簿の文字が、頭の中でもう一度めくれた。
もう、送られたあとだ。
馬車は、街道をゆっくりと遠ざかっていく。
北の門でも、南の関所でもない。
まっすぐ、西へ。
僕が生まれてから一度も出たことのない方角へ。
「ミナさん」
「はい」
「この街でほどけるものは、もうほどきました。残りは、ここでは解けない」
僕は背負い袋を担ぎ直した。
荷物持ちだけは上手いと言われ続けた肩に、また同じ重さが乗る。
「根元は、西にあります」
「……はい」
「三日で戻るとは、言えません」
ミナは、硬いパンの包みを僕の胸に押しつけた。
それから、昨日覚えたばかりの言葉を、はっきりと言った。
「いやです。わたしも行きます」




