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第6話 結んだのが僕なので、解くのも僕です

三階へ続く階段は、もう階段には見えなかった。


黒い糸が、縦に、横に、斜めに編まれて、踊り場の天井から段の底まで隙間なく埋めている。


壁だ。


「これ、いつからですか」


「……わたしが、生まれる前から」


アデルの声は、喉の奥で詰まっていた。


口に張られた糸が、言葉を出すたびに、ぴん、と鳴る。


「では、お父様に最後に会ったのは」


「……」


答えない。答えられない。


彼女は唇に指を当てて、悔しそうに目を伏せた。


「いいです。あとで解きます」


「え」


「その糸です。あとで解きます。先に、この壁を片づけるので」


アデルの目が、大きくなった。


僕は壁に手を伸ばして、届く手前で止めた。


(……ああ、そういう仕掛けか)


壁の糸は、一本ずつ、どこかへ繋がっていた。


上ではない。下だ。


館の壁を抜けて、坂を下って、街へ。パン屋の窯へ。仕立て屋の針へ。井戸端の女たちの首へ。


試しに、いちばん端の一本を、爪の先ほど引いてみた。


ぱ、と小さく鳴りかけて――坂の下で、悲鳴が上がった。


窓に駆け寄ると、広場の一角で荷車が横倒しになっていた。


押していた男が座り込んで、自分の腕を見つめている。


《荷運びの加護》。今、たった一本だけ、抜けた。


僕は指を離した。


「……なるほど」


「ルカさま?」


「解けば通れます。ただし、一本ほどくごとに、街の誰かの何かが落ちる」


説明しながら、腹の底が冷えていくのが分かった。


三百本はある。いや、もっとだ。


この階段は、街の人間を丸ごと壁材にして積み上げてある。登ろうとした者は、必ず誰かを潰す。


僕は壁の表面に目を近づけた。


糸には、いつも文が書いてある。北門にも、印璽にも、ミナの刻印にも。


《館の糸を帯びぬ者、これより上に至るべからず》


――それだけだった。


思わず、笑ってしまった。


「アデルさん。この壁、人を見てません」


「……」


「札を見てます。北門と同じだ」


あの時、僕は門のほうの問いかけを抜いた。


今度は、それができない。問いを抜けば、壁が崩れる。崩れれば、街が落ちる。


なら。


「逆をやります」


僕は自分の首元に指を当てた。


壁の糸のうち、いちばん細い一本。誰の加護にも繋がっていない、余った端。


それを指でつまんで、引き寄せて、自分の首に――


結んだ。


ぱち、ではない。


つ、と。糸を通す、それだけの音。


「な……何を、なさったんですか」


「借りました」


首の後ろが、すう、と冷たくなった。


二年間ミナの首にあったものが、たぶんこれだ。


黒い壁が、音もなく左右へ割れた。石の段が、上へ続いている。


「通れます。どうぞ」


アデルは、動かなかった。


「ルカさま。今のは」


「この館から貸し出された糸を持つ者は、通してもらえる。なら、借りればいい」


「借りたら、あなたも縛られます」


「はい」


「上には――上にいるものは、糸を持つ者に、命令ができます」


「でしょうね」


僕は段に足をかけた。


「他に方法があるなら教えてください。街の誰かを潰さずに済む方法を」


アデルは、唇を噛んだ。


噛んだ拍子に、口の糸が、また、ぴんと鳴った。


三階の廊下は、蝋燭も窓もないのに歩けた。


黒い糸が、光っているからだ。天井にも床にも壁にも、びっしりと。


いちばん奥の扉を開けた。


広間だった。


天井が高い。その中央に、背もたれの高い、玉座みたいな椅子が一つ。


人が、座っていた。


「――領主、ベルナール様」


言ってから、間違えたと思った。


座っているのは、人の形をした結び目だった。


首。両肩。両手首。腰。膝。足首。


そこから出た糸が何百本も広がり、床を這い、梁を越えて、街じゅうへ降りていく。


あの夜、坂の途中から見た束。何百本もの糸が一か所で撚られ、街へ配られていた、あの配給所。


それが、この椅子だった。


「よく来た」


ベルナールが言った。


低い、よく通る声。領主にふさわしい声だった。


なのに、口が動いていない。


喉から出た音を、口があとから追いかけて形にしていた。


「八十年、この街を支えてきた」


「……今朝、同じ台詞を聞きました」


ヴァレン・ド・モルス。広場の天幕の下で、彼も同じ順番で、同じ言葉を並べた。


「秩序は、糸によって保たれる。民に選ばせてはならぬ」


「ベルナール様。あなたの朝食は、何でしたか」


止まった。


糸が、一斉に、かすかに震えた。


返事はなかった。その質問に対応する文が、どこにも書かれていなかったから。


僕は、ゆっくり近づいた。


近くで見ると、ひどかった。


髪も髭も伸び放題で、爪が反り返っていて、絹の上着の下の腕が、枯れ枝みたいに細い。


椅子から一歩も動いていない。何年も。


(支配者じゃない。この人は、蛇口だ)


「跪け」


声が、落ちた。


――膝が、折れた。


自分で折ったんじゃない。折られた。


石の床に、両膝がぶつかる。立とうとした。太腿に力が入らない。


首の後ろで、さっき自分で通した糸が、ぴん、と張っていた。


「ルカさま!」


扉の向こうで、アデルが叫んだ。


「頭を垂れよ」


首が、前に倒れる。


視界が、自分の膝で埋まる。


――ああ。これか。


ミナが二年間、毎日やっていたのは。


「……なるほど」


声は、出た。口の糸は結ばれていない。


「あなたが今、僕に命令できているのは」


僕は、首の後ろに手を回した。


「僕が、さっき、自分で結んだからです」


指をかける。


「結んだのが僕なので」


ぱち。


「――解くのも、僕です」


糸が、ほどけた。


膝の力が、戻ってきた。


立ち上がる。埃を払う。


背後で、階段がまた壁に閉じた音がした。もう戻れない。それでいい。


「跪け」


ベルナールが、繰り返した。


僕は、跪かなかった。


「跪け」


「無理ですよ。借りてないので」


「跪け」


「持ってないんです、僕。最初から」


三度目でようやく、糸の震えが変わった。


怒りでも、混乱でもない。怯えだ。


この結び目は、命令の通らない人間を想定していない。


僕は椅子の正面に立って、糸を上から順に読んだ。


首は治安。肩は徴税。手首は流通。腰は、たぶん土地の登記。


全部が街の骨組みだった。


一本でも解けば、何万人かの明日が消える。


(解けない)


生まれて初めて、そう思った。


解ける。解けるのに、解いてはいけない。


僕は、指を下ろした。


かわりに、喉のすぐ脇の、どこにも繋がっていない短い一本を探した。


そこに書かれていた文を読んで、僕は少しのあいだ、動けなくなった。


《この口は、上位の言葉のみを発する》


「……ベルナール様」


僕は指を上げた。


「あなたの声を、返します」


ぱち。


糸が、砂になった。


椅子の上で、老人の身体が、びくんと跳ねた。


それから、ひゅう、と長い息が漏れた。枯れ木を風が通るような音だった。


今度は、先に口が動いた。


「あ、……あ、」


言葉にならない。何年ぶりなのか、想像もつかなかった。


「ぁ……アデ、ル」


扉のところで、息を呑む音がした。


「お父、さま」


「にげ、ろ」


ベルナールの目が、初めて焦点を結んだ。


僕を見ていた。


「にげろ、こぞう。……ここは、わたしの家では、ない」


「知ってます」


「ちがう。……ちがうのだ」


枯れ枝の腕が、震えながら持ち上がって、自分の首を指した。


「わたしも、だ」


僕は、その首を見た。


太い糸が束になって出ている、その根元。


皮膚に、古い刻印が彫られていた。


閉じた、二つの目。


印璽の裏で見たものと、同じ。女神像の、開かれたことのない目と、同じ。


「……八十年、この街を支えてきた」


ベルナールは、今度は自分の口で、その台詞を言った。


同じ言葉なのに、まるで違って聞こえた。


「わたしが、支えたのでは、ない。吊られたのだ。二十の歳から」


「二十」


「籍が、なかった。……それだけの理由で」


「こぞう。たのむ。わたしは、もういい」


枯れ枝の指が、扉のほうへ向いた。


アデルが、口を押さえて立っていた。


「娘の口を、ほどいてやってくれ」


「……わたしは、あの子に。一度も。名を、呼んでやったことがない」


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