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第5話 家名を、お返しします

第二の鐘が鳴るころには、中央広場は人で埋まっていた。


見物に来たわけじゃない。全員が呼ばれていた。


「下町の住民は一人残らず並べ、だとよ」


「グレイド様がやられた件だろ。見せしめだ」


僕の隣で、ミナが小さな包みを抱えていた。中身は僕が焼いたパンだ。焼きすぎて、少し硬い。


「ミナさん。後ろにいてください」


「いやです」


「……ずいぶん上手に言えるようになりましたね」


「昨日、覚えました」


広場の中央に、白い天幕が立っていた。


その下の卓に、痩せた男が一人。昨日の使者ではない。


絹の上着。指に三つの指輪。そして、机の上に積まれた、うんざりするほどの書類。


「静粛に」


男が言った。


ざわめきが、途中で切られたように止んだ。


全員が、同時に。


(――今の)


僕は、男の首を見た。


三本。


一本目は《家名》。二本目は《威令》。三本目は、机の上の封蝋の箱に繋がっている。


「領主ベルナール様の代理、監察官ヴァレン・ド・モルスである」


ヴァレンは書類を一枚持ち上げた。


「一つ。北門認証紋の破損。一つ。第一近衛グレイドへの傷害。一つ。隷属契約の不法な破棄」


指が、僕を指した。


「ルカ・ヴェント。以上について、貴様に弁明の機会を与える」


「一つ、訂正しても?」


「許す」


「傷害はしていません。僕は剣を持っていません」


「グレイドは今も起き上がれん」


「鎧が重かったんです」


広場の後ろのほうで、誰かが吹き出した。


すぐに、押し殺された。


ヴァレンの眉が、ぴくりと動いた。


「面白い男だ。だが、書類のほうが正しい」


「ええ。書類は正しいですよ」


僕は一歩前に出た。


「ちゃんと読みました。文面に間違いはありません。ただ――その正しさが、あなたから出ていないだけで」


「何?」


「ヴァレン様。今、『静粛に』とおっしゃいましたよね」


「言ったが」


「三百人が同時に黙りました。あなたの言葉が立派だったからじゃない」


僕は、彼の首から伸びる二本目の糸を目で追った。


その糸は空中で無数に枝分かれして、広場にいる全員の首に届いている。


「《威令》。命令を、命令として通す加護です。十四年前に結ばれてますね。ちょうど、あなたがこの職に就いた年だ」


ヴァレンの顔から、笑みが消えた。


「妙なことを言う小僧だ。衛兵、捕らえろ」


「ええ、それです」


ぱち。


ヴァレンの首から、二本目の糸がほどけた。


砂になって、枝分かれした先まで、さらさらと崩れていく。


「捕らえろと言っている!」


衛兵は、動かなかった。


正確には――衛兵は、自分が今どうして動こうとしないのか、分からない顔をしていた。


槍を握ったまま、互いを見て、監察官を見て、また互いを見る。


命令は聞こえた。意味も分かった。


ただ、それだけだ。


「な、なぜ動かん! 私は監察官だぞ!」


「はい。監察官です」


僕はうなずいた。


「命令していいんですよ。あなたの言葉で。ちゃんと理由を言って、頭を下げて、頼めばいい。それで動く人は、たぶんいます」


「ふ、ふざけるな、私は貴族だ! モルス家の――」


「三男ですよね」


ヴァレンの喉が、鳴った。


「剣も魔法も、洗礼で何も出なかった。だから文官に回された。違いますか」


「黙れ」


「僕と同じですよ」


言ってから、少しだけ声を落とした。


「違うのは、あなたには家名があって、家名には糸がついていたことだけです」


「黙れと言っている!」


ヴァレンが卓を叩いた。


書類が崩れて、封蝋の箱が転がった。


そこから伸びた三本目の糸が、日に晒されて、はっきりと見えた。


太い。


しかもこの糸は、彼の首から出ていない。


箱の中の印璽から出て、広場を越え、坂を登り、領主館の三階へ吸い込まれている。


そして、そこから細い枝が、無数に、この街じゅうへ。


(……そうか)


僕は、その枝の先をたどった。


酒場。仕立て屋。三番館。


――首に刻印を持つ、すべての人間。


「ヴァレン様。ひとつ伺いたいんですが」


「なんだ」


「契約書って、どうして守らなきゃいけないんですか」


「破れば罰があるからだ」


「罰は、誰が下すんです」


ヴァレンが口を開いて、閉じた。


「印璽です」


僕は転がった箱を見た。


「紙に押された紋が、糸になって、署名した人間の首に繋がる。守らせてるのは、あなたでも領主様でもない。この紋そのものだ」


「それが法だ。八十年、この仕掛けがこの街を支えてきた」


「支えるのに、首は要らないと思います」


僕は指を上げた。


「返しますね。借り物なので」


「や、やめろ――」


ぱち。


封蝋の鷲が、ほどけた。


音は、それだけだった。


一拍。


それから、広場の各所で、乾いた音が連続した。


ぱき、ぱき、ぱきん。


女が悲鳴をあげた。仕立て屋の少年が、自分の首を押さえてしゃがみ込んだ。


黒い刻印が、砕けていく。


砂になって、肩を滑って、石畳に散っていく。


一人や二人じゃない。


広場にいる、刻印を持っていた全員から、いっせいに。


「取れ……た」


「おい、おい嘘だろ、うちの婆さんのも」


「三番館の連中のも取れてるぞ!」


歓声と、泣き声が、同時に上がった。


その中で、一人の中年の男が、呆然と立ち尽くしていた。


「……待ってくれ。じゃあ、俺の給金は。契約がねえなら、明日から誰が俺に飯を食わせるんだ」


広場が、少しだけ静まった。


当然の声だった。僕は答えようとして、先に答えた人がいた。


ミナだった。


「自分で稼ぎます」


彼女はパンの包みを抱えたまま、まっすぐに言った。


「わたし、昨日取りました。まだ一度もパンを買えてません。宿もありません。今日、教会が来ます」


「……」


「それでも、今朝のパンは、自分で選んで食べました。二年間で、初めてでした」


男は何も言わなかった。


ただ、砕けた刻印の砂を、じっと見ていた。


「貴様……何をした、何をしたんだ!」


ヴァレンが、僕の胸倉を掴んだ。


痩せた、文官の腕だった。震えていて、力はまるで入っていない。


「私は紙を読んだだけだ! あの証文は、私が書いたものではない!」


「知ってます」


僕は、彼の手をそっと外した。


「だから、あなたの家名は解いてません」


「な……」


「モルス家の名前は、あなたのものだ。使い方だけ、これから覚えてください」


ヴァレンは、その場に座り込んだ。


僕は転がった封蝋の箱を拾って、中の印璽を裏返した。


鷲の紋の下に、もう一つ、薄い刻印が彫られていた。


閉じた、二つの目。


丘の上の大聖堂で、八十年、一度も開かれたことのない――女神像の目と、同じ意匠。


(領主家の印じゃない)


そのとき、坂の上で、門の鐘が鳴った。


領主館の正門が、内側から開いていく。


広場の全員が、息を呑んで振り返った。


門の内側に、一人だけ立っていた。


絹のドレス。結い上げた金の髪。


露台から僕を見下ろしていた、あの娘だ。


彼女は歩いて出てくることはしなかった。門のこちら側へは、糸が許していないからだ。


代わりに、はっきりと言った。


「解呪師さま。父が、あなたを招いています」


広場が、どよめいた。


ミナが僕の袖を掴んだ。


「ルカさん、罠です」


「たぶん、罠ですね」


僕は歩き出した。


門をくぐる。玄関の広間を抜ける。大理石の階段を登る。


二階の踊り場まで来て、僕は足を止めた。


そこから先が、見えなかった。


三階へ続く階段が、黒い糸で埋め尽くされている。


編まれて、重ねられて、もはや壁になっていた。


背後で、娘が追いついてきた。


裾を握る指が、白い。口のあたりに結ばれた糸が、ぴんと張り詰めている。


「アデル、と申します」


彼女は、それだけ言うのがやっとという顔をしていた。


それから、糸を無理やり引きちぎるように、続けた。


「あの階段を登る前に、聞いてください」


「はい」


「三階にいるのは、お父様ではありません」


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