第4話 その糸をほどくと、君は帰る家をなくします
井戸端から人が引いたあとも、ミナは座り込んだままだった。
「立てますか」
「……はい。すみません、わたし」
言葉の途中で、彼女の喉が鳴った。
ひゅ、と。細い管を空気が通るような音。
「ミナさん?」
「だい、じょう……ぶ、です」
大丈夫な人の声じゃなかった。
首の黒い刻印が、内側から絞まっている。
(罰か)
領主家の私兵に呼び止められて、答えなかった。それだけで、彼女の首は締まる。誰かが罰を下したわけでもない。ただ、そう書かれているから、書かれた通りに動いているだけだ。
僕はしゃがんで、刻印を覗き込んだ。
近くで見ると、それは一本の糸じゃなかった。
四本が編み込まれて、一つの結び目になっている。
「動かないで」
編み目の、いちばん手前の一本に指をかけた。
ぱち。
ミナが、大きく息を吸った。
そのまま咳き込んで、地面に手をついて、何度も肩を上下させる。
「はっ……はぁっ、……あれ」
「締まりますか」
「締まり、ません」
彼女は自分の喉に触れた。何度も、確かめるみたいに。
「二年間、一度も、外れたことなかったのに」
「外したのは、罰の一本だけです」
僕は残りを指さした。目には見えないだろうけど、指さす場所くらいは分かってほしかった。
「まだ三本あります。ここに」
「……三本」
「一本目は、君を『誰かのもの』だと定めている糸。二本目は、君の寝床と食事を保証している糸。三本目は――君がこの街の人間だと証明している糸です」
ミナが顔を上げた。
「それ、全部、解けるんですか」
「解けます」
答えた。答えてから、続けた。
「でも、解くと、困ったことになります」
「困ったこと」
「君が、この街のどこにもいない人になります」
そのとき、後ろから声がした。
「ちょいと、兄ちゃん」
振り返ると、水桶を持った女が立っていた。
井戸端の、大柄な女だ。名前は確か、ハンナ。
彼女は口を開けて、閉じて、また開けた。何か言おうとして、そのたびに言葉が喉の手前で消えている。
僕は、彼女の首を見た。
一本。細い糸。
《寡黙》。
「ハンナさん」
「……」
「それ、三年前に酒場で買われたものですね。銀貨二枚。買ったのは、旦那さんだ」
女の目が、まん丸になった。
「安物ですよ。何とも結ばれていません。仕事とも、身分とも、寝床とも。ただ、喋りにくくするためだけの糸です」
「……」
「解いても、何も起きません。今日の夕飯が減ったりもしません」
僕は指を上げた。
「解いていいですか」
ハンナが、何度も、何度もうなずいた。
ぱち。
「――ああああッ、しゃべれるッ!」
井戸端が、跳び上がった。
「しゃべれる! あたし、しゃべれるよ! ちょっとあんたたち聞いてよ、あたしずっとね、ずーっと言いたかったことがあってね、三年前のあの雨の日にうちの人がねえ!」
「ハンナ、あんた声でかっ」
「でかいのよ元々! これが元々なの!」
どっ、と笑いが起きた。
さっきまでグレイドの鎧が沈んでいた場所で、女たちが腹を抱えて笑っていた。
その笑い声の中で、ミナだけが、じっと自分の首に手を当てていた。
「ルカさん」
「はい」
「今の人のは、何も起きないのに。わたしのは、どうして」
「値段が違うからです」
僕は立ち上がって、坂の上を見た。
「《寡黙》は、ただの安物の呪いです。世界の仕組みに繋がっていない。でも《隷属の加護》は、この街の仕組みそのものに編み込まれてる」
「仕組み」
「パン屋は、君にパンを売ってくれますよね」
「はい。ご主人様のお使いで」
「それは君の首の糸が『酒場の使用人』だと名乗ってるからです。パン屋は君を見て売ってるんじゃない。糸を見て売ってる」
ミナの手が、止まった。
「この糸を解くと、君は明日から、パンが買えません」
「……」
「宿も取れません。仕事も貰えません。どの店も、君を見ても、何も読み取れないので」
「でも、わたし、働けます」
「働けます。でも雇えないんです。雇い主のほうが、君を雇ったという記録を残せない」
風が、井戸の水面を揺らした。
「それでも解くなら、君は『籍のない者』になります。この街では、無籍者は三日のうちに教会に引き渡される決まりだそうです」
「……教会」
「僕もまだ、その先を知りません」
言い終えてから、僕は正直に付け足した。
「僕は、君の糸を勝手に切ることもできました。ゆうべも、今朝も。そうすれば君は自由で、僕は気分がいい」
「……」
「でも、そのあとで飢えるのは僕じゃない」
ミナは長いこと黙っていた。
水桶の中で、空が揺れていた。
「ルカさん。ひとつ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたは、また結べるんですよね。ほどいた糸を」
「結べます。二年間、あの三人の加護を繋ぎ留めてましたから」
「じゃあ、もし、わたしが耐えられなくなったら」
「結び直します。いつでも」
「……戻れるんですね」
「戻れます。そのかわり、たぶん二度目は、自分から結ばれにいくことになりますけど」
彼女が、ちいさく笑った。
昨日よりは、少し上手な笑い方だった。
「わたし、決めました」
ミナは立ち上がって、髪を耳にかけて、首すじを僕のほうへ差し出した。
「解いてください。三本、全部」
「パンが買えなくなります」
「はい」
「宿がなくなります」
「はい」
「明日には、教会が来ます」
「はい」
彼女はまっすぐ僕を見た。
「二年間、わたし、一度も『はい』以外を言ったことがないんです。『いいえ』も、『いやです』も、言ったことがない」
「……」
「今の『はい』が、生まれて初めて、自分で選んだ『はい』でした」
僕は指を上げた。
震えてはいなかった。
「じゃあ、返しましょう」
ぱち。
一本目。彼女を誰かのものだと定めていた糸。
ぱち。
二本目。寝床と食事。
指が、三本目にかかった。
そこで、一度止めた。
「ミナさん」
「はい」
「飯は、僕が作ります。荷物持ちと飯炊きだけは上手いって、二年間ずっと言われてたので」
ぱち。
黒い刻印が、砂になって崩れた。
さらさらと、彼女の胸元をすべって、石畳に落ちて、風に散った。
「……あ」
ミナが、自分の喉に触れた。
そこには、もう何もなかった。首の皮膚と、脈と、彼女自身の呼吸だけがあった。
井戸端が、静まり返っていた。
誰かが、震える声で言った。
「……取れた」
「取れたよ。ミナちゃんの、取れたよ」
女たちが駆け寄ってくる。ハンナがミナを抱きしめて、抱きしめたまま泣き出した。
そのざわめきの中で。
坂の上から、蹄の音が降りてきた。
黒い馬。領主家の紋章をつけた布。乗っているのは兵ではなく、書類を抱えた痩せた男だった。
男は僕の前で馬を止めて、筒から一枚の羊皮紙を抜き、広げた。
封蝋に、鷲の紋。
「ルカ・ヴェント」
名を、呼ばれた。
どこの誰でもないはずの、孤児の名を。
「明朝、第二の鐘。中央広場にて、領主家監察官による査問を行う。逃げれば、下町の全住民を無籍とみなす」
男は羊皮紙を僕の足元に落とした。
「――だ、そうです」
馬首を返すその一瞬、痩せた男の首に、細い糸が見えた。
震えている。
命令を伝えているこの人自身が、誰よりも怯えていた。




