第3話 借り物を返しただけ
翌朝、下町の井戸端が、いやに静かだった。
水を汲みに来た女たちが、桶を置いたまま一か所を見ている。
その視線の先に、鎧の男が立っていた。
黒い全身鎧。肩から胸にかけて、鷲の紋章。腰には、僕の背丈ほどもある両手剣。
領主家の私兵。しかも、ただの私兵じゃない。
(Aランク……いや、それ以上か)
首から伸びる糸が、太い。
一本じゃない。三本。四本。五本。首、両手首、腰、足首。全部が束になって、坂の上の領主館へ真っ直ぐに伸びている。
そして、その男の足元に、ミナが膝をついていた。
「昨日、北門を抜けた女だ。間違いないな」
「……はい」
「連れの男はどこだ」
ミナは答えなかった。
男が、鉄の手甲でミナの髪をつかんだ。
「三つ数える」
「ここにいます」
僕は人垣の後ろから、前に出た。
女たちが息を呑んで、さっと道を空ける。
男が振り返った。兜の隙間から、僕を上から下まで見る。
そして、笑った。
「お前か。……冗談だろう」
「よく言われます」
「北門の認証紋が、朝の点検で消えていた。八十年、一度も狂ったことのない仕掛けだ」
男はミナを放り出して、こちらへ一歩踏み出した。
石畳が、ごとりと鳴った。
「魔導師の類かと思えば、痩せた小僧が一人。スキルは」
「《解呪》です」
「……ハズレじゃないか」
「はい」
「グレイドだ。領主ベルナール様の第一近衛。等級はA。お前、俺の等級の意味が分かるか」
「分かります」
分かる。ただし、たぶん彼が思っているのとは違う意味で。
「なら、跪け。腕の一本で済ませてやる」
「それは困ります。荷物が持てなくなるので」
グレイドが剣を抜いた。
音がしなかった。
見えたと思った時には、もう横薙ぎが来ていた。
(速いっ)
僕は後ろへ跳んだ。跳んだつもりだった。
腹の前を、風が通った。上着の前身頃が、縦にひらいて落ちた。
石畳が三枚、豆腐みたいに切れていた。
「避けたか。少しは鍛えたらしいな」
心臓がうるさい。指先が冷たい。
怖い。当たり前だ。僕は二年間、荷物を背負って逃げ回っていただけの人間で、この人は本物の戦士だ。
――ただ、それとこれとは、別の話で。
「グレイドさん」
「なんだ」
「その剣が速いのは、あなたが速いからじゃないですよね」
一瞬、兜の奥の目が揺れた。
「何を」
「あなたの右手首に、糸が一本。《疾風》。十二年前に結ばれてます」
僕は指を上げた。
「左手首に《剛力》。八年前。腰に《不動》。首に《痛覚遮断》。両足に――これは名前がありませんね。ただ『倒れるな』とだけ書いてあります」
「……黙れ」
「そのぜんぶ、領主館の三階から貸し出されてます。あなたのものは、一つもない」
グレイドが吠えた。
剣が、真上から落ちてくる。
僕は指を弾いた。
ぱち。
右手首の、いちばん細い糸。
《疾風》が、ほどけた。
剣が、遅れた。
ほんの半呼吸。でも本人にとっては、世界が急に粘ったように感じたはずだ。刃は僕の頭のあった場所を通り過ぎ、地面を砕いた。
「なんだ……今の、は」
「返しました」
ぱち。
《不動》。
グレイドの腰が、かくんと落ちた。地面に根を張っていた感覚が、消えたからだ。
ぱち。
《痛覚遮断》。
「ぐ――」
呻き声。今まで感じずに済んでいた古傷が、十二年分まとめて戻ってきたんだろう。
「やめ、待て、貴様――」
ぱち。
《剛力》。
両手剣が、石畳に落ちた。
拾おうとした腕が、震えて、持ち上がらない。当たり前だ。刃渡り五尺の鉄の塊なんて、人間の腕で振れるようにできていない。
「なんで、だ……! 俺の剣が、俺の、腕が」
「あなたの腕は、ちゃんとそこにあります」
僕は最後の糸に手を伸ばした。両足の、名前のない一本。
「ただ、あなたの腕にできることは、最初からこれだけだったというだけです」
ぱち。
――ぐぎ、と。
鎧が、鳴った。
グレイドの膝が折れる。折れるというより、潰れた。
黒い全身鎧。彼を守っていたものが、そのまま、彼の上に落ちてきた。
石畳に、足首まで沈んだ。
「あ、ぐ、あ゛あ゛ッ! 重い、重い、なんだこれは、こんな、こんなものを俺は――」
「毎日着ていたんですよ。十二年」
僕は、その前に立った。
剣は、一度も抜いていない。というより、持っていない。
「貴様……何を、した」
「何も。借り物を返しただけです」
「借り、もの……?」
「返す先は僕じゃありません。あなたに貸した人です」
僕は坂の上を見上げた。
「文句があるなら、三階の窓に言ってください」
鎧の中で、グレイドが荒い息をしていた。
「俺は……十二年、鍛えた。毎朝千回、素振りをした。あれは、嘘だったのか」
「嘘じゃないですよ」
僕は、そこだけはちゃんと答えた。
「千回振ったのは、あなたです。ただ、それを一回も外さないようにしていたのが、あなたじゃなかっただけで」
返事はなかった。
等級。格上。レベル差。
みんな、そういう言葉で人を測る。僕もずっと、測られる側にいた。
でも、測られていたのは僕じゃない。
首に結ばれた糸の、太さだけだ。
井戸端は、しんとしていた。
やがて誰かが、桶を取り落とした。かん、と甲高い音が響いて、それが合図みたいに、ざわめきが広がっていく。
「……倒した、のか?」
「剣、抜いてねえぞ」
「Aランクだぞ、あれ、領主様の」
僕はミナを助け起こした。頰が赤く腫れている。
「すみません。巻き込みました」
「わたし、何も喋ってません」
「知ってます」
その時、坂の上から、鐘が鳴った。
領主館の門が開いていく。
見上げて――僕は、足を止めた。
三階の、いちばん端。昨夜、灯りの点いていた窓。
その下の露台に、人が立っていた。
まだ年若い娘だ。絹のドレス。結い上げた金の髪。手すりを、白くなるほど強く握りしめて、こちらを見下ろしている。
領主ベルナールの一人娘。名前は知らない。僕みたいな人間が知る必要のない名前だ。
搾取する側。吊るす側。糸を配る側。
そう思って、見上げた。
――彼女の首にも、黒い糸が巻きついていた。
一本じゃない。
グレイドのものより、ずっと太い。ずっと多い。首も、手首も、足首も、腰も。
蜘蛛の巣の中心に座らされた蝶みたいに、彼女は縛られていた。
そして、その糸の束は、露台の真上――三階のカーテンの向こうへ、吸い込まれるように伸びている。
彼女は、動けない。
助けてくれ、とも言えない。言えないように、口のあたりにも一本、結ばれていたから。
僕たちは、たぶん十秒くらい、見つめ合った。
彼女が、ほんのわずかに、首を横に振った。
来るな、という意味か。
それとも、ここじゃない、という意味か。
カーテンの向こうで、灯りが動いた。
娘は弾かれたように背を向けて、露台から消えた。
僕は、自分の指先を見た。
震えていた。あの夕暮れと同じだ。恐怖じゃない。
「ルカさん……?」
「ミナさん」
「はい」
「この街の一番太い糸、たぶん領主じゃありません」
僕は、閉じたカーテンを見上げたまま言った。
「領主も、吊られてる側です」




