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第2話 視えてしまった街

糸が、僕の首の手前で止まった。


指一本ぶんの距離。まるで、こちらの出方を窺うみたいに。


僕は右手を上げて、それを親指と人差し指でつまんだ。


触れた瞬間、糸の中身が流れ込んでくる。


文字だ。びっしりと、同じ一文だけが、端から端まで。


《この者の位階を、無価値と定める》


……ああ。そういうことか。


さっきほどけた三本を、埋め合わせに来たんじゃない。僕という空いた穴に、新しい札を貼りに来たんだ。孤児院の壁に貼られていた、名前のない番号札みたいに。


「いりません」


ぱち、と指を弾いた。


糸は先端からほどけて、砂になって、夕風に散った。


女神像は何も言わない。閉じた目のまま、丘の上に立っている。


ただ――垂れ下がった何百本かが、いっせいに、ほんの少しだけ揺れた。


(気づかれた)


僕は帽子をかぶり直して、歩き出した。


石畳を踏みながら、生まれて初めて、この街をちゃんと見た。


パン屋の親父の首から、細い糸が一本。それが竈のほうへ枝分かれして、火の中で《窯火の加護》と結ばれている。火加減を絶対に外さない加護だ。


隣の仕立て屋には《針目》。


井戸端の女たちには《健脚》、《多産》、《寡黙》。


……寡黙。


背すじが冷えた。


パン屋の親父は、パンを焼くのが上手かったから窯を任されたんじゃない。


窯を任される身分の者に、あとから「上手くなる糸」が結ばれただけだ。


順番が、逆なんだ。


(才能じゃない。配給だ)


広場の角で、衛兵が二人、欠伸をしていた。


若いほうの腰の剣に、《斬鉄》の紋が浮いている。一目で上等だと分かる加護だ。


でも、その糸は彼の首から出ていない。


剣から伸びた糸が、彼の背中を通り越して、詰所の屋根を越えて、さらに上へ伸びている。


(借り物だ)


彼の強さは、彼のものじゃない。制服と一緒に貸し出されて、辞めた日に返す。


本人は、たぶん一生それに気づかない。


     ◆


その夜は、崩れかけた納屋の軒先を借りて眠った。


翌日の夕方。


「――聞いたかよ、《鉄の牙》」


通りかかった荷馬車の男たちが、そんな話をしていた。


「ああ、酒場でいきなり潰れたってやつだろ」


「ギルドが等級審査をやり直すんだとさ。ガロンの旦那、朝から詰所の前で『呪われた』って喚いてたらしいぜ」


「呪い? なら解呪師を呼べばいいじゃねえか」


「それがよ、キルス中の解呪師に片っ端から断られたんだと。『これは呪いじゃない、ただ何もなくなってるだけだ』ってな」


口の端が、少しだけ上がってしまった。


すぐに戻した。


井戸の脇で、水桶を抱えた娘とぶつかりそうになった。


「あ――」


昨日の、酒場の娘だった。


うつむいた首すじの黒い刻印が、夕陽の中で妙にはっきりして見える。


「昨日の」


「……ミナ、です」


彼女は桶を抱え直して、小さく言った。


「名前。まだ、言ってませんでした」


「ルカです。もう、どこの誰でもないですけど」


ミナは少し笑いかけて、途中でやめた。笑い方を忘れた人の顔だった。


「あの人たち、笑ってましたよね。昨日」


「はい」


「わたし、笑わなかったんです。そうしたら、あとでご主人様に叱られました。『お前も笑え』って」


水面が揺れて、彼女の指が白くなっていた。


「……あなたが何をしたのか、わたしには視えません。でも、三人が同時に倒れるのは見ました」


「見なかったことにしたほうがいいですよ」


「はい。……そうします」


そう言って、ミナは坂の上を見上げた。日が沈みかけている。


「あの、すみません。急がないと」


「届け物ですか」


「貴族区の三番館に、葡萄酒を。平民の迂回路だと、一時間かかって」


「日が暮れますね」


「……遅れると、罰があるんです」


彼女は自分の首に手をやった。


「これが、締まります。息が、できなくなるだけですけど」


だけ、と彼女は言った。


「近道があります」


「え?」


「北門です」


ミナの顔から、血の気が引いた。


「あそこは、貴族専用です。平民が近づいただけで槍を向けられます」


「知ってます」


北の坂を登りきると、白い門があった。


門柱の上に、輪のような紋が浮いている。


くぐる者の首を舐めて、糸の色を確かめる仕掛けだ。


読んでみて、笑いそうになった。


血でも、家柄でも、金でもない。この門が確かめているのは、たった一つ。


――領主館から伸びた糸が、その首に結ばれているかどうか。


つまりこの門は、人を見ていない。


札を見ている。


だったら、話は早い。


「おい、そこの。平民は西へ回れ」


門番が槍の石突で石畳を叩いた。


僕は紋の結び目に指を伸ばした。ほどく必要すらない。問いかけの一文字を、抜くだけでいい。


ぱち。


「……聞いてるのか。平民は――」


「ええ。知ってます」


僕はミナの手を引いて、門をくぐった。


鳴るはずの警鐘は、鳴らなかった。


門番は二人とも、僕たちを見た。


見たのに、止めなかった。止める理由が、彼らの中から消えていたからだ。


葡萄酒は、日暮れの鐘が鳴る前に届いた。


帰り道、ミナはずっと黙っていた。坂を下りきったところで、ようやく口を開いた。


「ルカさん。わたし、今日、はじめて間に合いました」


「そうですか」


「あの門、二年間ずっと、わたしを通してくれなかったんです」


「門は何も思ってませんよ。ただ、そう書かれていただけです」


僕は足を止めて、彼女の首を見た。


黒い刻印。そこから伸びた糸が、酒場のほうへ――いや、その先の、どこかへ。


「その印、解けます」


ミナの足が止まった。


「……え」


「でも、今日はやめておきます」


「どう、して」


「今これを切ったら、糸の持ち主に気づかれる。逃げ出した奴隷は、探されます」


僕は糸の先をたどった。酒場の主人で終わっていない。もっと上へ、もっと太いほうへ、吸い込まれるように伸びている。


「だから、先に根元を切ります。そうすれば、誰も君を探さない。探す仕組みごと、なくなるので」


ミナはしばらく僕を見て、それから、はっきりと言った。


「わたし、酒場にいます」


「はい?」


「人の話が、いちばん集まる場所です。誰が誰に借りがあるかも、どの家の誰が明日何をするかも、全部お客さんが勝手に喋っていきます」


彼女は、今度こそ笑った。ぎこちない、練習不足の笑い方だった。


「わたしは何も視えません。でも、聞くのは得意です」


「……助かります」


彼女と別れてから、僕はもう一度、坂の途中で振り返った。


夜になりかけたキルスの街に、黒い糸が雨のように降っている。


けれど、よく見ると――全部が女神像から直接垂れているわけじゃなかった。


途中で一度、束ねられている。


何百本もの糸が一か所に集められ、太い一本に撚られて、そこから街じゅうへ配られている。


配給所だ。


僕は、その束の根元を目でたどった。


領主館。


三階の、いちばん端の窓。


カーテンの向こうに、灯りがひとつ点いていた。


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