第1話 どうぞご自由に、生まれつきの強さで戦ってください
「――おい、ルカ。お前、今日でクビな」
宿屋の一階に、酒の匂いと笑い声が満ちていた。
テーブルの上には、今朝ギルドで受け取ったばかりの報酬袋が三つ。その全部に、僕の分は入っていない。
「聞こえなかったか? 出てけって言ってんだよ」
リーダーのガロンが、椅子に反り返ったまま親指で戸口を指した。Bランクパーティ《鉄の牙》の頭。この辺境の街キルスで、名前を知らない者はいない男だ。
「……理由を、聞いても」
「理由?」
ガロンが笑った。つられて、剣士のドグが笑う。魔法使いのセラが、鼻で笑う。
「お前、自分のスキル言ってみろよ」
「……《解呪》です」
「はい、それが理由」
どっ、と笑い声が弾けた。周りのテーブルの客まで、こっちを見て肩を揺らしている。
「《解呪》だぜ? 二年だ。二年も一緒にいて、お前が呪いを解いたところなんか一度も見たことがねえ」
「荷物持ちと飯炊きだけは上手かったけどなあ」
ドグが空になった皿を押しやる。今朝の朝食は僕が作った。
「あれ雑用係でしょ? パーティメンバーって扱いだったの、そっち?」
セラが杖の先で僕の背負い袋をつついた。
「来週からアリシアが入るのよ。Aランク目前の聖女さま。ほんとの回復役。ねえ、荷物持ちなら宿で雇えばいいでしょ? 一日銅貨五枚で」
笑われている。
それはもう、慣れていた。慣れすぎていて、心臓のあたりがすこし冷たくなるだけで済む。
「いいか、ルカ」
ガロンが身を乗り出して、僕の胸を指で小突いた。
「強さってのはな、生まれつき決まってんだ。俺の《鉄壁の加護》も、ドグの《剛力》も、セラの《詠唱短縮》も、全部そういうモンだ。持ってるやつが持ってる。持ってねえやつは、どこまで行っても持ってねえ」
「……そうですか」
「お前は、持ってねえ側だ。悪いな、世の中ってのはそういう風にできてる」
酒場中が、僕を見ていた。
――いや、ひとりだけ。
カウンターの端で、空の杯を拭く手を止めて、こちらを見ていない娘がいた。
うつむいた首すじに、黒い刻印。奴隷でも罪人でもない、この街ではありふれた印。《隷属の加護》。主人に逆らえなくなる代わりに、寝食を保証される契約の証。
彼女は笑わなかった。笑えなかったのだと思う。笑っていいと、許されていないから。
(ああ。あの時と、同じだ)
十四の春。大聖堂で行われた洗礼の儀。
石板に浮かんだ文字は、たった二文字。《解呪》。
神官は気まずそうに石板を伏せ、広間には咳のような笑いが広がった。この国では、洗礼で刻まれた文字がそのまま身分になる。剣を持てるか、畑を耕すか。生涯の値札が、その一瞬で貼られる。
孤児院育ちの僕は、その日を境に、諦めたものを数えるのをやめた。
騎士になること。名字を名乗ること。誰かに必要だと言われること。
――それでも、ひとつだけ諦めなかったことがある。
僕は背負い袋を肩にかけ直して、立ち上がった。
「わかりました。出ていきます」
「お、物分かりがいいな」
「今まで、ありがとうございました」
きちんと頭を下げた。二年分の礼だ。嘘ではない。あの二年で、僕は三度死にかけて、三度とも誰かに背負われて帰ってきた。
そして、戸口で一度だけ振り返る。
「ひとつだけ」
「あ?」
「僕がこのパーティに掛けていたものを、返してもらいますね」
しん、と一拍、店が静まった。
それから、ガロンが腹を抱えて笑い出した。
「掛けてたもの!? お前が!? この俺たちに!?」
「はい」
「何をだよ! まさか加護でも配ってたってのか、お前が!」
「配ってはいません」
僕は、ガロンの首元のあたりを見た。
そこから細い黒い糸が一本、ぴんと張って伸びている。糸のもう一方の端は――僕の、指先だ。
ドグの首からも。セラの首からも。同じ糸が、僕の指へ。
二年間、毎晩。三人が眠ったあとに、僕はこれを結び直していた。
ほつれかけた加護を、繋ぎ留めていた。
《解呪》は、呪いを解く力だ。けれど呪いの構造が視えるということは、その逆――ほどけかけた結び目を繋ぎ止めておくことも、できるということで。
「ガロンさんの《鉄壁》は、三か月前に半分ちぎれてました。ドグさんの《剛力》は、去年の雨季にほとんど流れかけてた。セラさんの《詠唱短縮》は、そもそも最初から切れかけてたんです」
「……何を、言って」
「あなたたちの強さは、生まれつきじゃない。借り物です」
僕は指先を、軽く弾いた。
ぱち、と。
蝋燭の芯が爆ぜるような、小さな音がした。
三本の黒い糸が、するりとほどけて、宙に溶けた。
「じゃあ、どうぞご自由に。生まれつきの強さで戦ってください」
扉を閉めた。
三歩、歩いた。
背後で、何かが床にめり込む音がした。
「――ぐっ、あ゛っ!? な、なんだこの鎧、重……ッ!」
ガロンの声だ。自慢の魔鎧。《鉄壁の加護》を前提に鍛え上げられた、常人には着ることすら不可能な代物。
膝を折る音。テーブルがひっくり返る音。皿の砕ける音。
「お、おい俺の剣! 持ち上がらねえ、なんでだ、俺の大剣だぞこれ!」
ドグが喚いている。床に転がった大剣を、両手で引きずることすらできていない。
「セラ! 灯りだ、魔法を――」
「無理っ、無理無理無理、詠唱が、通らない……! 途中で消えるの、言葉が、何これ、何これ!?」
悲鳴。椅子の倒れる音。誰かが衛兵を呼ぶ声。
「ルカ! おい、ルカァッ! 待て、待ってくれ、なあ! 何したんだお前、何しやがった!」
扉の向こうで、ガロンが床を這っている気配がした。さっきまで、僕の胸を指で小突いていた指で。
「戻せ! なあ、金なら払う、分け前もやる、だから戻せって!」
答えなかった。
返せと言ったのは僕のほうで、返したのは彼らのほうだ。奪ってなどいない。
――ただ、二年ぶんの貸しを引き揚げただけ。
僕は振り返らなかった。
たぶん、あの三人は死なない。加護がなくても、ただの人としては丈夫なほうだ。
ただ、もう二度とBランクではいられないだけで。
通りに出ると、夕暮れのキルスの街が、いつも通りに暮れていた。
パン屋が店じまいをして、子どもが走り抜け、衛兵が欠伸をしている。
平和だ。
――僕にだけ視えているものを、除けば。
ふと、空を見上げた。
街の中心。丘の上にそびえる大聖堂。その屋根に立つ女神像から、黒い糸が垂れている。
一本ではない。
何百。何千。数えられない。
それは雨のように街へ降り注いで、パン屋の首に、子どもの首に、衛兵の首に、通りを行く全員の首に、一本ずつ、静かに巻きついていた。
誰も気づいていない。
誰ひとり、上を見ていない。
「……ああ」
僕は自分の指先を見た。震えていた。恐怖ではない。
ガロンは言った。強さは生まれつき決まっている、と。
違う。この世界では、生まれつきなんてものは、上から吊るされているだけだ。
二年かけて、ようやく三本ほどけた。
なら、この街を縛っている一番太い糸は――どこから来ている?
視線をたどる。
女神像の、閉じられた両目。
その奥から、こちらを向いた糸が一本。
ゆっくりと、僕に向かって、伸びてきた。




