第33話 欠けた一人ぶんの問い
「一つ目。キルスの列へ降りている問いが、止まります」
かすれた声は、さっき僕がしたのと同じ速さで、一つずつ置いていった。
「欠けた一人ぶんは、籍のない方で埋めるように作りました。いまは、それが問いになって降りております。その問いを、わたしへ宛て直していただきたいのです」
アリシアが、肘掛けから身を乗り出した。
「二つ目。わたしの首は、今、空でございます。自分の結び目を、自分で弾きましたので。空の首には、あの問いは用がございます」
器は、首が空でないと通らない。この人は、席を立ったときに、自分をいちばん通りやすい器に戻していた。
「三つ目。わたしは、はいと申すかもしれません。そうすれば、欠けたぶんは埋まります。パンは、もとに戻ります。わたしは、また壁の内に座ります」
「四つ目。いいえと申すかもしれません。そうすれば、パンは硬いままです。どちらになるかは、わたしにも、まだ分かりません」
「最後に。宛て直すのは、わたしの手ではできません。目を閉じておりますので、糸の行き先が見えません。指でたどるのが、せいぜいでございます」
声が、少しだけ速くなった。
「問いを、わたしに宛て直していただけますか」
すぐには、答えられなかった。
はいと言えば、この人はまた座るかもしれない。パンのために。今度は、自分で選んで。
ベルナール様の箱の掛け金に、膝をついた朝を思い出した。あの方のはいを、僕は取り上げなかった。
「その問いには、ミナさんの声が撚ってあります。受付で、端を持っている人です。宛て直せば、あの人の声は、キルスへ降りなくなります」
「……そうでしたか」
「あの人に聞くまで、僕は答えられません。明日の夜まで、待っていただけますか」
「待ちます」
板の向こうで、声が少し笑った。
「それは、戻ってまいりましたので」
◆
受付に戻ると、ベルナール様が椅子の上で目を開けていた。机に、荷札は一枚もない。
藁の上で、ミナが手首の結び目を押さえていた。背負い袋の口で、瓶縛りの紐がずんぐりと結ばれたままだった。
僕は、ゆうべのことを全部話した。代償を言い直した声のこと。いいえのあとで、手を引いたこと。飢える人が多かったという話。答えないでおくと言った問いのこと。
ミナは、黙って聞いていた。
「その人、名前は」
「消したそうです。ご自分で」
「じゃあ、なんて呼ぶんですか」
「……まだ、伺っていません」
ミナは、少し考えてから言った。
「聞いてあげてください。おい、とか、そこの、とかじゃなくて」
「はい」
それから、宛て直しの話をした。
ミナは、手首の結び目を見下ろした。
「問いが降りるたびに、わたしの声も一緒に降りてました。待ってくれます、って。毎晩」
「はい」
「それが、なくなるんですね」
「はい。代償を、言います」
「一つ目。待ってくれます、という君の声は、もうキルスの列には届きません」
「二つ目。問いは、壁の向こうの一人にだけ聞きます。キルスの列には、もう誰も座れと聞きません。あの人がいいえと言えば、問いはそこで止まって、パンは硬いままです」
「三つ目。あの人がはいと言えば、パンは戻って、あの人はまた座ります。僕は、止めません」
「四つ目。宛て直した糸がほどかれたら、問いは、またキルスの列へ降ります。そのとき、君の声は一緒には戻りません」
「宛て直して、いいですか」
ミナは、しばらく撚り目に耳を澄ますように目を閉じていた。
「最後に、ひとつだけ、降ろしていいですか」
「何をですか」
ミナは、受付の椅子のほうを見た。
「ベルナールさま。アデルさまに、何か、ありますか」
枯れた指が、肘掛けの上で、ぴくりと動いた。
鳩は、ここからキルスへは飛ばない。アデルの手紙は、ずっと僕の懐に入ったままだった。もう立てないのか、という問いに、誰も答えていない。
「列の、どなたかに、頼みます。蔵の前の列なので、アデルさまのところまで、届くと思います」
ベルナール様の喉が、ひゅう、と鳴った。
長いあいだ、口が動かなかった。考えている人の遅さだった。
「……たてる」
「はい」
「よべば。……まだ、よばん」
ミナは、撚り目に左手を添えて、目を閉じた。
「ミナです。列の、どなたか。蔵の、アデルさまに、伝えてください」
「ベルナールさまから。立てます。呼べば、立てます。まだ、呼びません。……以上です」
ベルナール様は、椅子の上で、首をゆっくり垂れた。眠ったのではなかった。うなずいたのだと分かるまで、少しかかった。
ミナが、目を開けた。
「はい。宛て直してください」
「……いいんですか」
「その人、ずっと、待ってもらったこと、ないんでしょう」
ミナは、手首の結び目を撫でた。
「わたし、二年、知らなかったので。待ってもらえるの、一回くらい、あってもいいと思います」
◆
日が暮れて、奥へ歩いた。
ペンは、倒れかけていた。継ぎ目の毛羽が浮いている。
「継いでいいですか」
『返答 はい』
つ、と。
ペンがまっすぐに立つと、板の向こうで、爪が一度だけ鳴った。
「ミナさんから、はいをもらいました」
「……ありがとうございます」
「宛て直すのは、僕の手です。僕からも、代償を言います」
板の向こうが、黙った。聞く黙り方だった。
「一つ目。東へ降りている問いの糸を、帳面の際でほどきます。ミナさんの声は、キルスへ降りなくなります」
「二つ目。ほどいた根元を、あなたに結びます。問いは、僕の声で、あなたにだけ聞きます。机が覚えた、僕の言い方で。いいえなら、問いはそこで止まります。欠けたぶんは、埋まりません」
「三つ目。あなたがはいと答えたら、僕は、その糸を解きません。あなたの答えなので」
「四つ目。宛て直した糸は、僕の結び目です。机にも、あなたにも、ぱちの一回でほどけます。どちらかがほどけば、問いは、またキルスの列へ降ります。ミナさんの声は、もう一緒には降りません」
「宛て直して、いいですか」
「はい」
ゆっくりの、はいだった。
補充の行から東へ伸びる一本を、帳面の際でつまんだ。根元と、東へ続く先とを、小さな結び目がつないでいる。机の結び目だ。僕と同じ手の。
「第七号さん。今の代償は、あなたにも聞こえていたはずです。あなたの結び目を、ほどいていいですか」
ペンが、身を起こした。
『返答 はい』
ぱち。
東へ続く先が、床の上で張りを失った。この先で受付の前を通り、ミナの端と撚り合わさってから、搬入口を抜けていた一本だ。もう、何も運ばない。
補充の行から垂れた根元を、板の継ぎ目へ潜っている二筋――ほどけて持ち主へ帰っていった、あの手の癖に沿わせて、継ぎ目の奥へ送った。二筋をたどれば、あの人の空いた首まで届く。
輪を作って、くぐらせて。
つ、と。
ペンが、ひとりでに傾いた。
『欠損 一 補充要 問』の脇に、細い字が書き足された。
『宛先 改 離席者』
その下に、もう一行。
『離席者 所在 この机の前』
アリシアが、帳面を覗き込んで、息を呑んだ。
「……見つかったってこと? その人」
「はい。自分から、見つかりに来ました」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「ひがしへ、くだる、おとが、とまりました。……かわりに、かべの、むこうで、ルカさんの、こえが、します」
板の向こうから、それが聞こえた。
僕にも、聞こえた。
僕の声だった。僕がいつも誰かの前で使っている、あの順番だった。
「代償を言います。窓のない部屋に、座っていただきます。目は閉じます。名は、預かります。座っているあいだ、飢えることはありません」
板の向こうで、かすれた声が、小さく言った。
「名は、もう、ございませんので」
返事ではなかった。独り言だった。
「座っていただけますか」
僕の声が、そう聞いた。
それきり、黙った。待っていた。八十年、この人の癖で書いてきた手が、いまは、この人の口が開くのを待っていた。
アリシアが、肘掛けを握りしめた。ガロンは、板から目を離さなかった。
長い沈黙があった。
僕は、口を開かなかった。開けば、何かを言ってしまいそうだった。座らないでください、と。それは、あの方のはいを取り上げることと、同じだ。
「……少し」
板の向こうで、声がした。
「少し、考えさせてください」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「かんがえる、はやさ、です」
ペンが、傾いた。
『返答』
そこまで書いて、止まった。
最初の日に、自分に聞いて、自分ではいと答えた人。その人が、あの日から初めて、自分ではない声で聞かれていた。
僕の声で。
指の腹に、こつり、と次の行が響いた。どこかの支所の割当だった。やはり、少し軽かった。
返答の欄は、朝まで空いたままだった。




