第34話 先に、食べていただきます
返答の欄は、朝になっても空いていた。
ペンは、その行の下で待ちながら、ほかの行を書き続けていた。指の腹に、こつり、と響く。軽い。
『欠損 一 未充当 割当より差引』
考えているあいだも、引かれていく。板の向こうの人は、それを知っている。そう書くように作ったのは、あの人だ。
「戻ります。日が暮れたら、また来ます」
板に言うと、爪が一度、こつ、と鳴った。
受付では、ベルナール様が椅子の上で目を開けていた。藁の上で、ミナが手首の結び目を押さえている。
僕は、ゆうべのことを話した。宛て直したこと。僕の声で、あの人にだけ問いが降りたこと。少し、考えさせてください、と言われたこと。
ミナは、黙って聞いていた。
「呼び方、聞きましたか」
「まだです」
「……今夜、聞いてくださいね」
それから、ミナは何か数えるように、指を折りはじめた。一本ずつ。全部折って、また一本目から。
「その人、席を立ってから、何日ですか」
「八日になります」
ミナの指が、止まった。
「ごはん、食べてますか」
すぐには、答えられなかった。
座っているあいだは、飢えない。そう書いてある。立ってからのことは、どこにも書いていない。聞いてもいない。
「……分かりません」
「あの問い、最後に、そう言いますよね。座っているあいだ、飢えることはありません、って」
彼女は、手首の撚り目を毎晩通っていった声を、そらで言った。
「お腹が空いてるときに、あれを聞かれたら。わたしなら、はいって言います」
背すじが、冷えた。
お腹の空いた方は、はいと申しますので。板の向こうで、あの人はそう言った。聞くのをやめた理由として。
その人が今、空いたお腹で、あの問いを聞かされている。
座っているあいだ、飢えることはありません。あの言い回しを、机は僕の口から習った。
僕の手順は、空腹の前では、ただの決まり文句だ。この藁の上で、一度、思い知ったはずだった。だから十九人には、先に粥を配った。
壁の向こうの一人には、それをしていなかった。板があるから、と。食べさせる先として、数えてもいなかった。
ゆうべ、板の向こうで、あの人は僕の声を聞いていた。僕の声が、空いたお腹に、飢えませんと言っていた。
考える時間を、と僕は思っていた。待つことは、あげられるのだと。でも、待っているあいだに、お腹のほうが先に答えを決めてしまう。
藁の端で、仕立て屋の少年が、薄い粥の椀を抱えていた。
「その人が座ったら、パン、戻るのか」
「はい。戻ります」
少年は、椀の底を見た。何か言いかけた。
広場の男が、その頭を軽く小突いた。
「腹減ってるやつに、座れって頼むのは、なしだ」
「……言ってないよ」
「言いかけた」
男は、僕のほうを向いた。
「なら、先に食わせろ。俺らは、そうしてもらった」
ミナが、少しだけ笑った。
「ルカさんの粥、おいしいので。それに、硬い麦でも、ルカさんが煮ると、ちゃんと食べられます」
荷物持ちと飯炊きだけは、二年間、誰にも負けなかった。それが、今は一番役に立つのかもしれなかった。
◆
板には、扉がない。窓も、隙間もない。
「だから、ぶち抜きゃいいんだよ」
ガロンが、受付の脇で腕を組んだ。
「割れば、通り道が切れます」
言ってから、言葉が引っかかった。割れば、だ。
昼のあいだ、僕は最奥の机のまわりの板を、継ぎ目から継ぎ目まで、一枚ずつ読んだ。帳面から出た糸は、継ぎ目にだけ潜っている。板の真ん中を抜けている糸は、一本もない。
ガロンの目には、どの板も同じ板だ。どこなら抜いても通り道が切れないのかは、糸の視える僕にしか分からない。
最奥の机から、七歩ほど左。板の中ほどに、椀の口ほどもある節があった。
黒ずんで、まわりの木目が、そこだけ渦を巻いている。継ぎ目からは、指二本ぶん離れていた。
日が暮れて、奥へ歩いた。
ドグとセラが刈ってきた麦の、残りを煮た粥を、椀に一杯。僕のぶんだ。
ペンは、倒れかけていた。
「継いでいいですか」
『返答 はい』
つ、と。
ペンが立つと、板の向こうで、爪が一度だけ鳴った。
「伺いたいことがあります。問いの答えでは、ありません」
「どうぞ」
「席を立ってから、何か、食べましたか」
板の向こうが、黙った。考える黙り方ではなかった。思い出そうとして、何も出てこない人の黙り方だった。
「……いいえ」
「お腹は」
「鳴っております。近ごろ、よく」
かすれた声が、少しだけ笑った。
「座っておりましたあいだは、鳴ることを忘れておりました」
「では、答えるのは、あとにしてください。先に、食べていただきます」
「壁が、ございますが」
「節があります」
僕は、七歩左へ歩いて、黒い渦に手のひらを当てた。
「代償を、言います」
板の向こうで、衣の擦れる音がした。こちらへ寄ってきたのだと分かった。
「一つ目。この節を、ガロンさんに押し抜いてもらいます。糸は通っていません。でも、まわりに割れが走れば、指二本先の継ぎ目の糸が切れます。その先の配給が落ちます。走らないように、節だけを押します。走らないとは、言い切れません」
「二つ目。穴が開けば、外の音と、においが、壁の内に入ります。九千を超える方々に、聞けません。これは、僕の都合です」
「三つ目。粥は、僕の今夜のぶんです。麦は、もう多くありません。明日からも持ってくるなら、僕の椀から分けます」
「四つ目。食べたあとで、あなたが、はいと答えても、いいえと答えても、僕は何も言いません」
言い終えて、待った。
「開けていいですか」
「……はい」
ゆっくりの、はいだった。
それから、板の向こうの声が、少し困ったように付け足した。
「これは、お腹の空いた者の、はいでございますね」
「はい。それで、いいはいです」
最奥の椅子で、アリシアが肘掛けから身を起こした。
「ちょっと。ご飯の話なの、今。壁に穴あけて、粥?」
「黙って見てろ、聖女さま」
ガロンが、節の前に立った。拳ではなかった。親指の付け根を、渦の真ん中に当てた。
「押すだけだな」
「はい。節だけです。ゆっくり」
ガロンが、肩を落として、体重をかけた。
板が、きしんだ。
僕は、継ぎ目の糸だけを見ていた。張りが、わずかに揺れる。揺れて、戻る。
ことり、と乾いた音がした。
節が、向こう側へ抜け落ちた。
板に、椀がひとつ、やっと通るほどの穴が開いていた。割れは、どこにも走っていなかった。継ぎ目の糸は、張ったまま、何も知らないみたいに奥へ潜っていた。
ガロンが、親指を振って、長く息を吐いた。
「……生まれつきの強さってのは、案外、細けえな」
穴の奥は、暗かった。
古い紙のような、乾いたにおいがした。
それから、音が来た。
息だった。浅い、ゆっくりの息が、いくつも、いくつも、重なっていた。
「ルカさん」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「わたしが、きいて、いた、おとです。……ルカさんにも、きこえますね」
「はい。聞こえます」
僕は、椀を両手で持って、穴の縁まで差し入れた。
暗がりから、手が出てきた。
細い手だった。手探りで、穴の縁を伝って、椀の縁に触れた。
親指と中指の腹に、古い、平たくなったたこがあった。夜ごとに、僕の指にできはじめているのと、同じ場所に。
その指が、椀を受け取った。少し震えて、それから、しっかりと持った。
「……あたたかい」
返事ではなかった。独り言だった。
帳面の上で、返答の欄は、まだ空いていた。
それでいい、と思った。考えるのは、食べてからでいい。
板の向こうで、椀の縁に、歯の当たる音がした。




